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満州写真館 撫順


                        
撫順は今日も石炭を産出する大型の露天掘り炭坑で知られます。
この地は、かつて女真族が多く住む地であり、1384年には高爾山の南麓、明の時代には渾河の北(撫順市街地の北外れ)に撫順城が建てられました。
この頃から石炭は掘られており、陶器を焼く燃料として活用されたそうです。
1901年、清国政府にて採掘雅開始。ロシア資本が進出し、中国の行政権・司法権などが及ばない治外法権地域がこの付近一帯に設置されたこともあります。
日露戦争後の1905年、いよいよ満鉄による大規模な石炭採掘が行われます。撫順は、満州最大級の街に発展、昭和初頭には人口は10万を超えました。ここの撫順の石炭と鞍山の鉄鉱石による製鉄所も稼動します。

さて、撫順の炭坑の最大の特徴は、巨大な露天掘りです。
地下に巨大な炭層があり、その地下の配置を明らかにしたのは満鉄でした。
日本人技師により、地下六十一メートルに傾斜した炭層の傾斜を発見、現在の撫順の南に在る「千金寨」で操業を始めそこに近代都市を造りました。その後千金寨地区の下に炭層が有るのが判り、昭和の初めに現在の永安台地区に新たに都市を造りました。これが現在の撫順です。また露天掘りで採算が取れることも判り、当時、世界最大級の露天掘りが行われることとなるのです。露天掘りとは地面を剥ぎ取り大きな穴をあけて石炭を採掘する方法です。

露天掘りにみられる大胆な機械化により撫順は大量の石炭を産出します。
撫順で産出される多量の石炭の中には撫順には、市場に売り出せない劣等炭も多く採取されます。しかし充分燃える石炭ですので、これを利用して安価なガスを製造し、これを燃料として電力を起こし、あらゆる動力を電化しています。この電気の恩恵で、様々なものが電化、引込み線に至るまで電気機関車が多数運用されています。
そして様々な化学工業も起きています。丁度、三池炭坑の様です。
またモンドガスと呼ばれる燃料用ガスの実用化にも成功します(イギリスの科学者モンド考案の、劣等炭から得られる燃料用ガス/発生炉で劣質石炭を加熱し、空気および多量の水蒸気を通じて造る燃料用ガス)モンドガスを利用した発電所などが稼動、こうした施設は、東洋では撫順が最初です。

この他、撫順ではオイルシェールと呼ばれる鉱物も産出、これは粉砕して加熱乾留すると重油が得られます。
様々な技術的な試行錯誤の結果、産出量こそ少なかったのですが、撫順式と呼ばれる方法で、オイルシェールから採算のあう重油を得ることが出来ました。オイルシェールによる重油採掘はアメリカやスコットランドでも行われていました。しかし、東洋では撫順が唯一の成功例です。

では画像から。まず撫順の地層です。

撫順の石炭層は、長さ東西に約十七km、幅は南北に四km、厚さは平均で三十二〜三メートル(西端が約百二十メートル、東端が六メートル)。
単一の層ではなくいくつもの層が重なって出来ていますが、この炭層は実に大きなものです。日本で比較しますと、大型炭坑で有名な福岡県大牟田市三池炭坑の海底炭層でも厚さ三メートルです。

当初、撫順炭坑は従来の炭坑のように地下に坑道(トンネル)を掘る方法で運用されました。露天掘りが開始された後も、深い炭層は坑道を掘って採掘されました(先の図の右側)。これも大規模なものでした。

さて露天掘り(ろてんぼり)ですが、これは鉱石を採掘する手法の一つで、地面の土砂を取り除いて鉱脈を露出させて直接掘る方法で、坑道が無いのが特徴です。
すり鉢状に大きな穴をあけて掘り進みますので、広い土地が必要となります。日本では石炭にこの露天掘りを採用している例は少ないのですが、石灰石は多くこの露天掘りが採用されています。
露天掘りの利点としては落盤の心配がある坑道がないこと、また重機の活用が容易である事、そして採算性が良い事が挙げられます。
明治39年、当時一日あたり2〜3百トンであった撫順炭坑の産出量は、露天掘りを採用する事で、一日で二万トンの産出、年間で一千万トンの採掘量が得られるようになりました。

では、まず、地面を剥ぎとり、炭層を露出させるエキスカベーターからみてみましょう。
斜めに下げられたアームにバケットが並べられ、これがキャタピラーのごとく斜面を掘りあげている様子です。
二台並んで見えます。
またその下を貨車が横切っています。

炭層は地下に埋まっており、露天掘りを行うには、まず地面を剥ぎ取る必要があります。
撫順炭坑では、この地面を掘り下げるため、大きなパワーショベルなど大掛かりな機械化を行いました。そしてこちらエキスカベーターも投入されました。

さきほどの画像をクローズアップしてみます。
592、DCとかかれているのが土砂を積む貨車です。
下をくぐっているのがお分かりいただけると思います。
装置には横行機器結第四号と読めます。
右側アームの付け根、家の様な形の部分へ上がるためのはしご段が見えますでしょうか。
ここを人が上ることを考えますと、このエキスカベーターがいかに大きいかがわかります。
三階建ての建物よりもさらに背が高い様に見えます。

こちらも2台が見えます。
エキスカベーターが削ることで斜面が削れて行くことがわかります。
『近代的エキスカベーター剥土作業』とキャプションにあります。

クローズアップしてみます。
No3エキスカベーターとあり、これはカタカナで表記されています。
煙突から黒い煙が上がっており、動力が盛んに作動している状態でしょう。
動力は想像するしかありませんが、ディーゼルではないか、と考えます。画面左端、エキスカベーターの下をくぐって土砂を積む貨車を引く機関車が見え、1042と番号がうってあります。

さらにエキスカベーターの下をくぐる貨車を見てみます。
画像は明るさを調整しなおしています。
貨車の特徴としまして横の壁に縦方向の支柱が並んでいます。
通常の鉱石など重量物を積む貨車は、頑丈に作られるために支柱はあるかとは思いますが、こうしたカーブした支柱はあまりありません。
実は、この貨車は横の板の下部分にちょうつがいがあり、壁がばたんと下方向へ開くものです。
鉱石などの積載貨物を横向きにどっと降ろすのに便利な作りとなっています。

画面右側のエキスカベーターを見てみます。
貨車が通り抜けており、貨車用の空間がぽっかりと空いているのがよく判ります。
向かって右側、土砂をすくい上げる側の足回りが大きく太く作られていることがわかります。
煙突から煙は出ていません。貨車が通り抜けて、一旦、作動が停止しているのでしょう。

これまでは向かって左側からの撮影でしたが、こちらは右側からの撮影です。
アームが削った斜面、綺麗に平面となっており、またアームの右側には縦向きの筋が多く出来ています。

下から見上げました写真です。アームの巨大さが迫力を持って伝わります。

アーム部分をクローズアップしました。
足元を歩く人物と比べても大変な大きさです。
足元をあるく人物ですが、服装から見て坑夫ではなく、は技術者か、なんらかの視察団でしょう。

撫順露天掘り電動採砂機の活躍
エキスカベーターが掘り下げた土地には、早速、パワーショベルがさらに掘り下げています。またパワーショベルの向こう側には貨車を引く機関車が見えます。掘った土砂を運び出すのでしょう。
このパワーショベルですが、キャプションには「撫順露天掘り電動採砂機の活躍」とあります。
電動といっても、非常に自重の有る蓄電池だけで動くとも考えにくく思われます。
これは想像ですが、後ろ側に発電機があり、発電しながら蓄電し、この電気で作動していたのではないでしょか。
いわゆるハイブリッドです。
といっても、今日あるようなエコロジー目的ではないでしょう。
複雑な動きをこなす為に発動機をいくつも搭載する際、エンジン(ディーゼル)よりも電動の方が良かったのではないでしょうか。
電動モーターであれば加速減速のコントロールは燃料で動く発動機より機敏に出来ます。

アームをクローズアップします。
かすれていて読みにくいのですが、神戸製鋼神戸製鋼所(こうべせいこうしょ)と書いてあるようです。大手鉄鋼メーカーのひとつですが、今日も建設重機を作っています。
最新鋭のパワーショベルが投入されたようです。
このほか、昭和17年12月 日立製作所が電気ショベルを満鉄の撫順炭鉱に納車しています。最新鋭の土木機器が次々投入されたのだ、と想像しています。

電動採砂機を別の角度から。掘り下げた大きなすり鉢の底から撮影しているようです。
土砂を運ぶトロッコが見えます。

段差部分を掘るアーム部分をクローズアップしています。機械化の恩恵、パワフルさが伝わる一枚です。
意外と複雑な構造に見えます。一つ一つの関節をマニュアル操作していたかと思うと、これの操作は職人芸であったかと思います。

こちらもパワーショベルが掘り進んでいます。
パワーショベルが石炭層を露出させるべく、トロッコにった岩を載せているところです。
煙突から煙が、そしてアームに平行したパイプから白煙が勢い良く吹き出しています。
蒸気駆動と思われます。
蒸気駆動のパワーショベル(Steam Shovel)は、1900年代初頭には実用化され普及していますので、ここでも導入されたのでしょう。
参考まで、Steam shovelでグーグル画像検索をされるか、youtubeで同じくSteam shovelで検索されますと、様々、画像がアップされています。今日見るパワーショベルに比べますと動きはぎこちないのですが、パワフルに作動しています。

露天掘り全景
では、露天掘りを見てみましょう。

露天掘りを捉えた写真です。すり鉢に地面を掘り下げ、そこにトロッコ軌道を張り巡らし、地上へ持ち上げる、石炭の流れが見て取れます。
大型の露天掘りで知られた古城子の第二露天掘は、深さ三五〇メートルもの規模です。

露天掘り斜面その1
さらに露天掘りの斜面を見ています。

掘り下げられた地面は、まるで段々畑の様です。そこに軌道が通っています。
電柱がいくつも立てられており、あらゆる施設が電化されていることをうかがわせます。
トロッコの牽引も電気機関車が投入されています。

露天掘り斜面その2
反対側の斜面を見ています。
段々にすり鉢が形成されているのがお解かりいただけると思います。
石炭を満載したトロッコが集められ、登っていくわけです。
画像上端の右上、段々の頂上にエキスカベーターが見えます。
エキスカベーターが表土を剥ぎ、そこから段々が横へ広がりながらすり鉢が出来上がっていく様子がわかります。

露天掘り斜面その3
先ほどの画像の右上、エキスカベーターをクローズアップしました。
かすれていて見えにくいのですが、アーム、下をくぐる貨車が見えます。またやや濃くみえるのは削りたての斜面でしょう。
一段下がったところに、やはり貨車を引く蒸気機関車、そしてさらに一段下がって電動パワーショベルが見えます。

トロッコを地面まで引き上げる斜面です。

石炭を積み込んだトロッコは連結されて引かれ、この場所からケーブルにて地上に設けられた選炭機の上部まで引き上げられます。
そこでトロッコごと転覆させて石炭を出し、空になった炭車は斜面を降りてきます。このトロッコを地面より引き上げる装置は「スキップ」と呼ばれるものです。撫順炭砿では自慢の設備でした。
パナマ運河を開通させたスティーブン氏も撫順炭坑を視察、
「この露天掘りに比べれば自分の仕事(パナマ運河)はなんでもない。」
と驚いたとされます。

張り巡らされたトロッコ軌道の先端、石炭を掘っているところです。
人手で掘っています。流石に、機械化が進んだ撫順も、石炭を掘るところは人力です。人が掘れば、石炭以外の石が混じりにくいメリットはあります。

同じく、石炭を掘っているところです。
斜めに立てかけてある板状のものが複数見えますが、ふるいでしょう。

同じく石炭を掘っているところです。
ここにも斜めに立てかけた形のふるいが見えます。

選炭場
撫順の選炭場です。
選炭とは石や質の悪い石炭を選り分ける場所ですが、当時はおおむねベルトコンベアと手作業で行われていました。

選炭場
大山坑の選炭場です。
右側ベルトコンベアの奥に籠が見え、おそらく取り除いた石ころなどを入れるのでは、と考えます。
さて写真ですが、室内であることから想像されます光の量とフラッシュを焚いているようには見えないこと、そしてベルトコンベアや石炭がぶれていないことから、どうも撮影の為に止めているのではないでしょうか。

大山坑
地下深い炭層は、地下に坑道を掘って採掘されます。
こちらに、その地下坑道に繋がる縦坑櫓を紹介します。

縦坑櫓は、石炭を満載したトロッコを地下から持ち上げ、そして工員の上げ下ろしに活用されました。
撫順に多くあった縦坑櫓のから大山坑を見てみます。

撫順ですが、露天掘りで有名ではありますが、昭和五年の時点では、露天掘りは三箇所です。一方で縦坑は撫順市の西側に四箇所、南側に四箇所、東側に五箇所ほどあります。

もう一枚、大山坑を見てみます。
先ほどと異なる日時に撮影されたもので同じ場所で撮影された写真から、左側の建物をクローズアップしたものです。
また奥の建物に満鉄のマークが見え、満鉄の一部門であることがよくわかります。

撫順炭坑は動力の電化が進んでおります。画面中央やや左に電気機関車が見えます。上側は架線がしかれて居ます。

ちなみに画面左端、朝鮮風の衣装の人物が線路を横切っています。

同じく大山坑の縦坑櫓です。
坑道の足元には、資材類が煩雑に置かれています。

撫順炭坑 坑外工場
炭坑には炭坑で用いる装置類を製作し、修理する工場があります。
こちら撫順炭坑にもありました。
手前に無造作に置かれているのは、バルブの様です。
奥に加工道具が並んでいます。
さて、画面上側に円盤状のものが並び、そしてそこからベルトが降りてきていることが判ります。
これは動力を伝える装置です。
加工装置で必要な動力は、本来、その装置、それぞれに装備できればいいのですが、動力の分だけ装置は大きくなってしまいます。
そこで、工場の様な大きな場所でいくつもの装置を配置する場合、大きな動力を各装置に伝えられれば、動力装置は一箇所ですみます。
大きな動力で、工場全体に配置した長い棒をぐるぐる回転させ(写真では柱に横方向に配置されている棒)、これに取り付けた円盤とさらに円盤に接続したベルトを装置につなぎ、動力を装置に伝えているわけです(最近ではこうした方法が採られることはまずありません)。

龍鳳堅坑捲塔及び坑外設備
撫順市街地から東へ向けて引込み線が延びており、この引込み線に沿って萬達屋坑、新屯坑、龍鳳坑、塔連坑が並んでいます。
その中から龍鳳坑を見てみます。

目を引きますのは、四角く建つ縦坑櫓です。これは昭和11年(1936)に建設されたものです。
これは鉄筋コンクリート造りです。
通常の縦坑と違い、櫓の上に引き上げを行う巻き上げ機の動力が据えられています。
この方法は、のワイディングタワー形と呼ばれ、日本では志免炭鉱が有名です。

ワイディングタワー形の龍鳳坑と志免炭坑を比較していみます。
管理人にて撮影しました志免炭坑縦坑櫓(右)と、龍鳳坑(左)とを無理やりですが並べております。


龍鳳坑は高さ六十三・一メートル。
志免炭坑は五十三・六メートルです。

大きさ比較をして見ます。管理人にて目分量で合成しております。
1950年代の炭坑業界紙では、この龍鳳坑と戦後に作られた志免炭坑とを比較して、龍鳳坑は足回りが華奢(きゃしゃ)に造られており、それは満州では地震が少ないから、という説明になっていました。
実際に志免炭鉱の技術者は、この龍鳳坑を視察し、志免への建設にあたっては地震や台風に強くしたいと考えていたとのころで、なるほど比較すると、志免の方が頑丈なのかもしれません。
しかし写真を見る限り、龍鳳坑は、さほど華奢というふうには見えないのですが、いかがでしょうか。

それにしましても、かつて日本の復興を担った縦坑である志免よりも以前に、さらに大きな縦坑が満州の大地に建っていたという事に、感慨を覚えます。

高さ六十三・一メートルの巨大さがわかる写真です。
この縦坑ですが、紅いレンガのレンガで覆われていたそうです。

炭坑設備が一望できます。
まず縦坑の両側に伸びているのは石炭運搬桟橋
先ほどの写真で建設途中だった右側三層の建物は選炭場です。
右下は機関車の積み出し口、左側の平屋が事務所及び坑員室、左上に配電室や修理工場が配置されます。

やや小高いところから炭坑主要施設を一望できる定番のアングルで、50年代に刊行された炭坑業界紙にも紹介されました。その詳細は失念いたしましたが、遠く遠方は何も無い平らな大地である点は全く一緒でした。

この巨大なこの龍鳳縦坑櫓は、取り壊されないまま今日も生き残っているとの情報があります(新聞にて紹介あり)。
是非、一度、見てみたいものです。


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