このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




満州写真館 大石橋娘娘祭


                        
『娘々祭だ 人の波  娘々祭だ 馬車の海
わか葉 そよ風 やなぎ風
ふえも聞こえる  どらも聞こえる 花火もあがる』

にゃんにゃん祭(娘々祭)の歌

鎮迷山娘々廟(ちんめいさんにゃんにゃんびょう)
娘々廟は天后宮とも呼ばれます女神をまつる道観です(観は道教のお寺を指す)。
中国から台湾まで広く信仰があり、民間信仰としては、現在も非常に人気のある神様です。
ここ満州にも北部から南部まで広く祭られています。
別途掲載しております鳳凰城にも娘娘廟があったそうです。
娘々祭は各地にて開催されていますが、大石橋の迷鎮山のものが一番名高く、今日、絵葉書として多く残っているのも、大石橋のものです。

春先の黄砂が収まると、いよいよ開催です。
写真は、祭りに集まった沢山の馬車です。その向こうに出し物のテントが、さらに向こうに木も生えていない小高い山が見えます。
陽射しが強いのか、馬車には幌が、そして洋風パラソルまでみえます。
こちら大石橋の鎮迷山は、木も生えていない三角形の高い石山です。ここの山頂にいくつかの寺院があります。これが鎮迷山娘々廟です。

娘々廟
娘々廟の本尊は三人姉妹の人形です。
ひとつは福を授け、ひとつは眼病を治し、ひとつは子を授ける神様です。
当時の絵葉書のキャプションには
『欲が深くトラホーム患者が多く、子孫繁栄を人生の最大の目的とする中国で、ここが繁盛するのもごく自然なことである。』
とあります。
トラホームは性病で有名なクラミジア菌が眼についてしまうことで発病、失明に至ることがあり、根気良く治療をする必要があります。トラホームは在満邦人も、子供を中心に、かかってしまうケースも有りました。
これは今日でも、発展途上国で未だ多い様です。

大勢の人々が集まって、廟へ進んでいます。
人出をあてこんで、沢山の的屋(てきや)が出店のテントを張って店を出ました。
様々なテントには幟(のぼり)も立っています。
当時のテントの出し物で当時ならではのものですと「ラヂオ実況所」というのがありました。
こちら娘々祭りに集まった店のテントの中には、周辺にラジオを流すところがあったのです。当時、ラジオは受信契約と聴取料が必要で、また契約数はうなぎのぼりでしたがまだまだ珍しいものだったのでしょうか。
日本では、昭和30年代、街頭テレビというのが流行りました。通りに向けてテレビを放映、人々がそれを見に集まったというものです。満州国があった時代は、これがラジオだったのだな、と考えます。

娘娘祭風景
楡の若葉の 風かおる
窓に衣ぬう 小娘が
針の手しばし やすめつつ
指折りて見ぬ 幾日にて
娘々祭 来るかと   (満州唱歌)


本祭は三日間開催され、三十万に達する人々が集まります。
特に婦女子が美装を凝らして参拝、きらびやかな色調の晴れ着に埋め尽くされます。
また美装の女性に惹かれ男性も祭りに参加します。
付近は薬屋、飲食店、野菜類の苗や種の販売、人形売り、歯抜き屋など様々な店が並びます。芝居もあり、芝居小屋、大道芸が繰り広げられます。
人々は、この祭りを楽しみにしており、当時、地元の企業にも、娘々祭りには地元従業員に休暇を与えること、というお達しが出たそうです。
集まる男女は良い縁を結びたいと願い、この日を待ち焦がれます。
周辺は馬車で埋め尽くされ、晴れ着の男女で立錐の余地も無い様子です。

娘娘祭り出店
娘々祭りにて人形を売る店です。
足元を見ても、草ひとつ無い山の様です。

大石橋娘々祭当日の呼び物、生人形
娘々祭りには、大勢の芸人もあつまります。
こちらは、キャプションに「生人形」とあります。
どうやら人形の様に着飾った芸人が、人形を飾るように山車にご覧のように山の様に登る見世物の様です。
人気があるのか、大勢の見物人が集まっていますが、彼ら見物人はこちらを見ています。やはり、時代から考えてカメラが珍しいのでしょう。

生人形
「生人形」をアップにしてみます。
非常に凝った衣装です。
また、下の段は子供に見えますがいかがでしょうか。

大石橋の娘々廟前の人波
「授かった愛児を抱いて、御礼詣』とキャプションにあります。
男女だけでなく大勢の子供連れでも賑わったことが判ります。
子供ですが、画面中央に抱かれている子供は、鳥打帽にチョッキに見えます。その右肩に女の子では、と思われます子供は洒落た帽子に見え、いずれも洋装といえます。
当時のおめかしとなれば、洋装もあったのでしょか。

ところで、画面に白く濃い煙が複数上がっています。
香炉でもあるのかと考えますが、残念ながら煙の元が写っておらず、判断できておりません。

大石橋市街地
大石橋の周辺はアルカリ土壌で、日露戦争前は雑草も生えない不毛の土地で満鉄農事試験所に用水路と盛り土の整備により、暫時、高粱畑へ切り替わりつつあります。
不毛の大地を良田とする努力は、土壌の改良という科学技術にて達成されつつあります。

また付近はマグネサイト鉱山もあります(耐火煉瓦の原料)。
ちなみにマグネサイトは、満州では小銭の硬貨にも使われ、明るい赤茶色の硬貨(5分硬貨)があります。
そして石灰岩も産出、これはセメントの原料になります。満州南部だけで、昭和5年に年間十五万七千トンのセメントが生産されていました。

さて写真は大石橋の市街地風景です。背景に広々とした満州の広原が見えます。また手前には林が見えます。防風林ではないか、と考えます。

右上にあります建物をクローズアップします。
扇情に建物が並んでいるのが判ります。
これは機関車操車場ではないか、と考えます。
そして、黒っぽい卵型の塔は、補炭システムと考えます。

大石橋は満州の海の玄関である大連から、首都新京に向かう線路沿いにあり、蒸気機関車を支援する施設が設けられているのかもしれません。


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