| 日本人は温泉好きです。
満州に移住した人たちにも同じニーズがあり、満州にも温泉が出来ました。
ただ、残念なことに日本の様に火山が多くある土地柄ではなく、主な温泉は3箇所程度でした。 |
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| 湯崗子は、古くから温泉が沸くことでしられていました。
湯崗子駅前に、二百万の大きな資本をもって、大規模で様々設備をそろえた温泉街が作られました。
和洋式旅館、満州人向けに龍泉館がありました。
ここは泥湯でも有名で、地中から開きあがる泥にもぐりこみ、真っ黒の泥の中にどっぷりと頭から浸かります。
この温泉は日清戦争において兵士が利用したのが最初です。 |
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| 広い庭園を持つ温泉施設です。
ここは製鉄業で有名な鞍山の南どなりにありました。鉄道の便も良く、人気を呼んだようです。
成分は硫酸ナトリウム、ラジウムなど。皮膚病、婦人病の効能がありました。
ここに写っているのは対翠閣です。この温泉は満州国皇帝もお気に入りで、就任前にも逗留をしていました。また「竜泉浴池」という浴場がありました (注 :別名の浴槽で紹介しております資料もあり、詳細は戦前図書には記載がなく、未だ把握できていません)。 |
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| 庭園をみており、東屋が見えます。
庭を回る橋が見えます。
東屋の左上に見えます建物は、先ほどの建物と雰囲気が違っています。 |
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| さらに別の角度から。右上に見えます建物は先ほどの東屋の向こうに見えていたもののようです。
池にある島を散策している和服のご婦人が見えます。
のんびりと湯治が楽しめそうです。 |
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| 大連から北へ4時間(193キロ)ここにある川の河床から温泉がわいていました。
古くから、満州の人々は牛馬の関節炎の特効ありとして、家畜を河床にたたせ、自らも河中に体をうずめ、湯治をしていました。
画像は熊岳城の満州の広々とした農業風景です。遠くに熊岳城の目印である熊岳城望児山が見えます。
画像の様に、満州の農耕は家畜と共にありました。農作業を終えた農民と家畜が共に体を休めている風景は、熊岳城ならではであったものと思います。 |
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| 『寒い草山、望子山、
雁 雁 わたれ、春の雁。
河原の砂湯、熊岳城、 』
(北原白秋、少国民詩集「満州地図」から抜粋/望子山は、望児山と同じで、両方の記述があります)
熊岳城は、ご覧の通り、お湯の湧き出る砂に体を埋める、半砂風呂といった感じです。
川原で砂遊び半分、お湯半分といったところでしょうか。温泉用に着替えて浸かっています。
遠くに施設もみえます。もしかすると川原に浸かる前に着替えなどをし、帰りには砂を洗い流すところではないか、と考えます。
国内の砂風呂といえば、砂蒸しに近いものがありますが、ここはどうも泥湯が砂になっているというふうに見えますが、如何でしょうか。 |
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| ここの川は砂塵の多い満州にしては珍しい清流です。
上流には鮎が取れるほどの清流です。
また深さも浅く、且つ、温泉であることから、海水浴に適さない虚弱な児童の避暑地として利用され、毎夏、林間学校が開かれました。
戦前のスクール水着ですが、一部、男の子にはふんどしも見られます。 |
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| 朝鮮半島近くの安東に近いところ、五龍背駅の東に五龍背温泉があります。
泉質はアルカリ性無色透明で、成分は重炭酸塩が主です。
リユウマチス、皮膚病、婦人病、痔疾の湯治として人気がありました。
温泉上には公園が設けられ、釣堀もあり、のんびりと遊べたようです。
満鉄経営となってからは設備改善が進み、四季を通じてにぎわいをみせました。 |
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| かつて満州におられた方から伺った温泉の話を紹介します。
その方は、ハルピン方面にて飲食店を持っていた方ですが、そこへ定住する前の話で、場所は残念ながら失念されたそうです(南満州の様です)。
そこの温泉は広い野原の真ん中に熱い湯が出でいたそうです。
平たい平原にお湯がじわじわと広がっていて、ぱっと見、びしゃびしゃのただの水溜りみたいだったそうです。真ん中だけ湯気が出ていて、それはそれで不思議な風景だったとか。
また広がってしまったお湯は、水深といえるほどの深さも無く、とてもお風呂としてお湯に浸かる事は出来なかったそうです。
「なんとかお風呂にならないかと思った。お湯そのものは、靴の上からも熱くて立っていられないほど熱かった。けれども湯量が少なく、例えば地面を掘って溜めても、溜まったころには冷めていて、お風呂にもならなかった。」
とのことでした。
満州というと、山岳地帯、森林、そして広い広い平原という印象があります。その大平原にぽつんとお湯が沸いていた、といのも興味深い風景だろうな、と想像しています。 |
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