| 「東より光は来る、光をのせて東亜の地に
使いす我等、我等が使命
見よ北斗の星のしるきが如く輝くを
曠野、曠野、万里続ける曠野に」
満鉄社歌 (曠野:荒野) |
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| 満鉄の旅客の象徴でもある特急あじあ号。これは昭和9年11月に営業運転を開始した特急列車です。
最初は満州の南端、港町でもある大連を起点に、満州国首都の新京までを繋ぎました。
さらに昭和10年には、さらに新京を越えて北の松花江からハルビンまで乗り入れました。
満州の軌道の幅(レールの幅)は日本国内よりも広く設置されています。このことからも、満鉄は思い切った設計を行うことが出来、ご覧の巨大な機関車が出来上がりました。
動輪の直径だけでも2メートルもあります。
営業開始時に大連で撮影された写真とのことで、当時の新聞をはじめ、様々パンフレットに用いられています。
横から見ますと、流線型の車体の外形がよくわかります。人の大きさと比べても如何に大きな車体であるかが伺えます。 |
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| 走るあじあ号を前から捉えた写真です。
あじあ号は世界の新基軸をベースに、満鉄の日本人技術者らが総力を挙げて作り上げた特急列車です。
全体は流線型をなしており、風の抵抗をなくす工夫がなされています。機関士の窓も風防が付けられるほどです。当時、この形状は広く人々の関心を集め、流線型という言葉が流行語にもなりました。
空気抵抗を少なくする工夫は、徹底して行われました。満鉄で運航していた蒸気機関車は鐘を取り付けており、この鐘を鳴らして走っていました。また鐘は煙突の後ろに取り付けられるのが通常でした。が、あじあ号は空気抵抗軽減の為に、この鐘すら取り付けませんでした。代わりにエアホーンなど音を発する装置を取り付けました。 |
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| 満鉄は広大な満州の土地に広く線路を敷き、そしてこの線路は国の動脈として機能していました。あらゆる産業をささえ、そして人の移動の手段として広く活用されました。
旅客においては大連から首都新京へ特急「はと」が走っていました。満鉄はそれをこえる速さの「あじあ」を設計、これを走らせました。
昭和9年、日本新聞協会はアメリカ深部記者団を満州視察に招待、試験運転のあじあ号に乗っています。快適さ、スピード、そして豪華な客車設備に驚嘆した記者達は、満州の広野にかくの如き列車が運転されているとは、如何に満鉄が満州開発に真剣に取り組んでいるかを示すものだと賞賛しました。
さて特急列車あじあ号ですが、この列車の名称は「あじあ」です。あじあ号は、愛称と言っていいかと思います。
一方で、当時の書籍、当時の乗車体験記、満鉄職員の文書はあじあ号と記載され、愛称が使ってあります。
今日、日本にあります東海道新幹線を走る列車も名前は「ひかり」ですが、これが運用を始めた当時は、ひかり号と呼んでおり、児童むけ図書や番組もひかり号でした。ですので、ひかり号はわりと普及した呼び名だったようです。
あじあにつきましても同じだったのでは、とも考えています。
これらを踏まえまして、本HP編集にあたりましては、あじあ号という名称を用いましても特に混乱はないものと判断し、本文中をあじあ号とし、またタイトル行は当時の雰囲気を感じて頂きたく「あじあ」としております。 |
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| 編成は、流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成されます。
客車まですべて流線型です。
満鉄で特急列車を設計する際、あじあ号をどうした形にするかは議論が重ねられ、また設計と製造を平行して行うなど、全社を挙げての取り組みでした。
あじあ号は、これを牽引する蒸気機関車パシナも客車も、特有の流線型をしています。
これは最初の構想の段階から、流線型とすることが決められていました。客車に冷暖房装置を設置することも、最初からの構想です。
川西航空機株式会社(兵庫県武庫川)にて風洞実験を重ね、パシナの形状、そして客車の形状を決めていきました。特に客車はスカートを付け、軌条との隙間を覆っています。
パシナの風洞実験を行いました川西航空機は、今日の新明和工業です。
ちなみにパシナの製造は川崎車輌でも行われました。あじあ号は日本の最先端技術を持つ企業が次々と参加したと言えます。
ちなみに川崎車両は川崎造船が多角化経営をする際に枝分かれをしたものです。車輌部は川崎車輌に、航空部が川崎航空機になり、最終的に川崎重工になっています。
川西航空機株式会社については当HPにもこのメーカーの飛行機、二式大艇を掲載、川崎造船飛行機部の飛行機も別途掲載しておりますのでご参考まで。
パシナについては風洞実験において良好であることが確認された一方で、この覆いによる重量増加がありました。そこであらゆる構造の見直しを行い、徹底した肉抜き(不要な部分を薄く削るなどして軽くする)を行って重量軽減を重ねて速度アップに努めました。
客車についても当時、まだ高価だったアルミニウムを多様、重量増加につながるリベット止めを避け電気溶接も多く導入して重量軽減をねらいました。
パシナはこの他に自動給炭装置を搭載していました。様々、最先端の装置をつぎ込んだわけです。これのおかげで蒸気機関車特有の機関士がせっせと石炭を投入する必要もなくなりました。また計算上、人力では必要な石炭の投入量に間に合わせられない、とのことです。
こちらに掲載しておりますあじあ号のパシナ蒸気機関車ですが、他のパシナとスカートのデザインが異なっています。 |
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| あじあ号を後ろから見ています。最後尾は展望一等車です。
あじあ号の客車の窓は二重窓の密閉式でした。これにより満州の砂塵、冬の極寒、夏の暑さを遮断しました。その為、客室の快適さを確保するため、空調を設置しました。特に春先の黄砂など砂塵の多い満州では、窓を開けずに快適に過ごせるというのは大変な魅力です。
空調はアメリカの技術を導入しました。また、ここでは機関車から引いてきた高圧高熱を用いた吸収式冷却方式のものが使われました(密閉容器中に蒸気噴射による減圧で真空を作り、中の水を低音蒸発させ、この時の気化熱が低温源となるそうです)。
この方式のものは当初、故障がたびたび生じた様です。夏の客車の暑さに「あじあじゃなくアフリカだ」と新聞に書かれたこともあったそうです。が、ほどなく安定した動作を得られた様です。
客室の窓ですが、鍵でロックされており、必要時に車掌が窓を開け閉めしました。乗客は窓の操作はできなかったようです。 |
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| 結果最高速120km/hrに達するあじあ号は、東南アジアのシンガポールまで路線を伸ばす構想もあり、高速列車の運行は社会的な気運でもありました。
あじあ号の旅客運行スピードは平均80キロ前後で、これは日本国内の特急列車より速いものでした。特に、区間によっては最高速120kmでも走りました。当時、日本国内の特急「燕」は最高時速95km/hrでしたので、これを凌駕する性能です。欧米のトップレベルの特急と肩を並べる速さでもあります。
また戦後を含めて日本の国鉄の特急は新幹線が就役するまでは最高速110km/hrでした。満州の鉄道が如何に高速化に成功していたかを示す数値ともいえます。
あじあ号が満州の大草原を猛スピードで駆け抜ける姿は、さぞ勇壮だったでしょう。
さてあじあ号の最高速ですが150km/hrとする資料もあります。
蒸気機関車パシナは、設計構想が130km/hrであること、蒸気機関車では動輪のサイズが最高速の決め手になりますが、このサイズでは120kmが通常との資料もあり(と申しましても直径2メートルに及ぶ、巨大な動輪ですが)、このことから150km/hrというスピードは出しくいという考察もできます。
しかし、戦後の昭和40年ごろの鉄道雑誌に満鉄勤務のあじあ号機関士の文書があり、これに170kmという記述があります。120kmを超えた更なるスピードが出たのかもしれません。 |
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| では客車を見てみます。
展望一等客車をみています。突き当たり部分がガラス張りなのがお分かりいただけますでしょうか。ここが最後尾の展望席です。
さて座席ですが広い軌道のおかげもあって客車内はゆったりとしたデザインです。
二人掛けのこの座席は回転できます。
この他、一等展望車には定員4名の特別室を設けたものもあります。
一等客車はこの展望部分がなく、座席のみで占められています。
この他、ニ等客車は一等客車より座席間隔が狭く、椅子の数が増やされています。
三等客車は対面4人掛けで、椅子は回転しません。
また室内の天井は全ての車両でデザインが統一されていました。
あじあ号の代表的な編成を紹介します。
あじあ号は主に7両編成だったようです。
機関車パシナに続いて前から順に手荷物郵便車、3等客車、食堂車、2等客車、1等客車、そして展望1等客車、それぞれ各1両です。手荷物郵便車、食堂車を除いた客車は4両だけです。
編成は、先の7両編成から1等客車を減らし3等客車2両にした7両編成、3等客車を2両に増やした8両編成もあります。
いずれにしましても、今日の特急に比べてやや客車数が少ない印象があります。 |
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| 最後尾、展望一等車両の展望部をみています。
ここでは写真の下側に壁上のものがあり、客室の通路と扉で仕切られているように見えます。
またここには本棚があったそうです。 |
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| おなじく展望車両で乗客が乗っているところです。
こちらは先ほどの壁は見えません。車両によって内装は少しづつ違うのかもしれません。
画像が不鮮明でわかりにくいのですが、小さなテーブルが見えます。
このテーブルは写真によって位置が違うので、固定されておらず移動できるのでは、と想像します。
そういえば、あじあ号のサービスのひとつに、列車のゆれにも駒がずれない磁石内蔵の将棋板の貸し出しがあったそうです。またこれには満鉄のマークがあったそうですので、満鉄の特注だったのでしょう。
このテーブルの上で列車に揺られながら将棋を楽しむ、ということも出来そうです。 |
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| 展望車両に乗客が乗っているところです。日本人風の人と、白系ロシア人と思われます西洋人も見えます。
小さなテーブルが見えます。通勤電車でも無いのに、向かい合わせの椅子というのは、ちょっと今日の感覚からしても、不思議な印象があります。
一等客車の座席は回転式だったのですが、この展望部分は、椅子の配置から見てとなり同士の椅子が干渉しますことから、座席は回せないのでは、と考えます。 |
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| 食堂車です。あじあ号の展望車に加え、食堂車は満鉄の自慢だったのか、当時のパンフレット類にも様々に誇らしく紹介されています。
テーブルにはスプーンなどが見え、洋食が出されたものと思われます。またテーブルソルトもみえます。さらに各テーブルには鉢植えもあります(撮影用のやらせで置いたのでしょうか、やや邪魔に見えますがいかがでしょう)。
テーブルの配置は二人掛け、四人掛けのテーブルがぞれぞれ六つ配置されています。定員三十六名です。また待合室に四名の椅子がありました。 |
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| にぎわう食堂車です
画面左下、家族連れでしょうか、メニューを見る親子は幸せそうです。テーブルには銀でしょうか、光沢のあるポットが見えます(鉢植えは左側のみで、小さいものが置かれています)。
二番目のテーブルに背の高いウェイトレスが居ます。
あじあ号の食堂車のウェイトレスは日本人と満州人と白系ロシア娘をそろえ、民族協和が演出されていました。
特に金髪のロシア娘は利用者に愛された様です。当時、修学旅行であじあ号を利用した中学生の旅行の感想文にも登場しています。 |
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| 食堂車で働くロシア人ウェイトレスです。
メニューは洋食が中心だったようです。
あじあ号のメニューはハムエッグ、ビーフカツレツ、チキンカツレツ、ポークカツレツ、ビーフステーキ、牛肉カレーライス、チキンライス、ハヤシライス、サンドイッチ、コーヒーなどがあり、洋食が主です。
その他には親子丼がありました。これは洋食が口に合わない人向けでしょう。これならお箸で食べられそうです。
あじあ号の名物として、アジアカクテルと名の付く二種類のカクテルがありました。
メニューにつきましては、あじあ号において暖かいものが食べられた事が判ります。
ただ、これは食あたりなどを懸念して生ものを避けたかったのかもしれません。
日本でも昭和50年代までは、食堂車は長距離旅行の楽しみでもありましたが、メニューはやはりハンバーグ等の火を通したものが主でした。
さて、あじあ号厨房の調理を行う熱源は何だったのかは大いに興味のあるところです。
ちなみに、戦後日本の国鉄は火災事故を防ぐため、電熱器を使用していましたが、それも昭和47年(1972年)に発生した北陸トンネル列車火災事故以降です。それまでは、国鉄の食堂車厨房には石炭レンジを使用していました。また、燃料は石炭よりも、コークスを用いていたようです。コークスは、北海道など寒い地方の方はなじみがあるかもしれませんが、石炭を高温で蒸し焼きにしたものです。点火にコツが要りますが、点火しさえすれば煙も少なく、長い間維持する高温の熱源となります。
あじあ号も、コークスの石炭レンジだったのでは、と想像しています。
コースには和食があり、皇紀2600年(昭和15年)の記念メニューで和式夕食がありました。値段は1円、中猪口、吸い物、造り身、向付、香の物という内容でした。
中猪口(なかじょく、なかちょこ)は本膳料理につく小丼です。
造り身は何をつかっていたのか、痛みやすい食材は使わないと思いますし、興味があります。 |
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| 写真は食事風景。
手前3人組のモダンガールは、帽子のおしゃれの流行りもあってか、洒落た帽子です。皆さん、帽子を被ったままでのお食事、西欧では女性は室内でも帽子を脱がないのがエチケットですので、それに倣っているのでしょう。後ろのテーブルの女性も帽子を株手居ます。ちなみに男性は室内では帽子を取るのがエチケットで、その為か後ろのテーブルの男性は帽子を被っていませんね。
またこちらを向いている二番目の女性は、普通は手でちぎる食卓のパンをフォークで刺している様に見えるのですがいかがでしょう。 |
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| さて当時の時刻表からあじあ号を追ってみます。
例えば新京駅から奉天へ行く場合、新京駅を朝10時に出発するあじあ号に乗ると奉天には13時38分に到着します。所要時間は約3時間半です。
これが各駅停車の列車に乗ったらどうなるかを見てみます。先ほどの新京駅あじあ号が出発したすぐ後に10時10分発の列車があります。これに乗って奉天へ向かいますと到着は17時20分となります。7時間とちょっとの時間が、かかってしまいます。
同じく、当時、満鉄で人気の特急列車ひかり号ですが、停車駅があじあ号より多いこともあってか新京〜奉天間は4時間半ほどかかります。
あじあ号が如何に早いかがお解かりいただけるかと思います。ここまで速いと、新京〜奉天くらいの距離では、折角の食堂車に行く時間も無さそうです。
お昼ごはんは、是非、食堂車で頂きたいものですね。
この10時発の列車は18時半には大連に到着します。
大連まで行くのであれば、食堂車で早めの夕食にし、大連におりてからはホテルにでも荷物を置いてから繁華街にて、のんびりできそうです。
ちなみに運賃ですが、3等車が10円89銭、1等車が31円29銭と3倍近い開きがあります。また3等もお安くありません。
値段の比較としましては、当時東京の浅草でカツ丼が35銭だったことからみましても、高価だといえますね。
ではここで、当時の旅行者になった気分で、満州国首都新京から東京へ行くまでを見てみます。
まず大きく三つのルートがありました。
ひたすら陸路をたどり、朝鮮半島は釜山まで出てそこから連絡線にのり、下関などから列車に乗るルート。
新京から、現在の北朝鮮とロシア国境付近にあります
羅津、または清津へ出て、ここから新潟まで船に乗り、そこから列車に乗るルート。
そして、列車で大連に出て、大連から連絡線に乗るルートです。
実は時間を比べると、最初に書きましたひたすら陸路で釜山から船に乗るルートが一番速く着きます。約70時間です。その代わり、乗換えが非常に多く、また列車は山間部を上り下りしながら進むのが実態です。
一方、観光客や要人の往復は、乗換えが少ない三番目のルートが人気でした。所要時間は80時間とちょっと。
乗り換えは少ないほうが楽ですし、時間がかかるといってもそんなに極端には変わりません。そのことから、大連経由に人気があったのだろう、と考えます。
さらに早くつきたい場合は飛行機が用いられますが、それはまた飛行機の頁にて述べることといたします。 |
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| 今日、中国の博物館に展示されています機関車パシナは、明るい水色で塗られています。
この水色は大変印象深いものでパシナブルーと呼ばれました。
あじあ号の色は、おおよそこれで一般に知られており、鉄道模型もこの明るい水色で塗られています。
この水色のほかにパシナは紺色や濃い藍色が知られています。また昭和16年にあじあ号に乗車された方から、車体が濃緑色とのお話を伺いました。パシナ、そして客車共に濃緑色で塗られていたそうです。
各車両や時期によって色はいろいろあったものと思われます。
さて白黒写真から色を推定するというのは難しいものではありますが、写っている車体が城っぽいか黒っぽいかで色の明るさを推定するのが妥当です。勿論、写っている明るさはフィルムに感光した光の量に比例しますので、濃い色の車体でも絞りを開けるかシャッターを遅くすると明るく写ってしまいます。そこで周囲と比較する方法で濃さを推測する事もできます。
まずこちらの写真では、車体は白っぽいことが挙げられます。一方でパシナは動輪は鮮やかな濃い赤で塗られており、こちらの写真も動輪は濃く写っています。この動輪との色の濃さに差があることから、車体は明るい色と考えられます(全体が明るく写ってしまったのではなく)。
以上、明るい色であることから、パシナ特有の明るい水色を撮影したものと考えられます。
また、戦争が始まりますと、燈火管制としてパシナの色は変更され、ダークグレーで塗装さました。この色ですと夜間は特に目立たない効果が期待されます。
この燈火管制型はヘッドライトに傘が取り付けられています。このことから、傘がついていて色が濃い場合は、ダークグレーの車体と考えられます。
この他、ヘッドライトに傘がついていない(燈火管制がなされていない)車体で黒っぽく写っているもので周辺と比較しても濃い色であるものは、濃い藍色の車体だといえます。
今回、あじあ号の彩色絵葉書は入手できず、すべてモノクロでお届けしております。さて、彩色絵葉書の中にはあじあ号客車が茶色から赤茶色で塗られているものを二つほど見たことが有ります。
現在、こうした茶色で塗られていたとする資料は見かけておりません。色につきましては引き続き、調べてみたいと思います。また彩色絵葉書は、白黒で撮影したものに印刷の段階で任意で色をつけますので、その際に色を誤った可能性もあります。 |
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| こちらあじあ号を牽引するパシナを正面から撮影したものです。
またヘッドライトの上側に傘が付けられており、これは戦時に対応した燈火管制型です。
燈火管制型ですのでダークグレーで塗装されていると考えられますが、写真では随分明るい色に見えます。これは日向であり、またパシナの表面が綺麗なのでしょう、日の光を綺麗に反射していることが挙げられます。
この他、パシナ正面には四角い枠がありますが、向かって左側はこれが半開きになっています。ハッチになっていて開け閉めが出来た事がわかります。 |
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| では、あじあ号客車を見てみます。
1等展望車の形がよくわかります。また流線型を形作る車体下側のスカートの配置がよくわかります。
他の写真でも層ですが、あじあ号はこのスカートの為に客車の足元の車輪の形状が、上手く写っていません。
車輪周りですが、あじあ号も他の列車の客車と同じく車体の両端に台車があり、それぞれの台車は自由に向きを変えられます。長い車体でレールのカーブを曲がる際に、台車が線路に沿って向きを変えられるため、スムースに曲がることが出来ます。
この台車は、台車ひとつあたり2軸(左右に車輪のついた軸が2つ、合計車輪が4つ)が多く使用されています。
あじあ号の場合、ひとつの台車に3軸(左右で車輪は合計6輪)が配置されました。台車は前後にありますので、計12輪で構成されていました。車輪ひとつあたりにかかる車体の重量を分散し軽く出来る利点があります。
この配置は重量増加という欠点がありますが、一方で乗り心地を改善させる効果があります。あじあ号は乗り心地を優先した設計を行ったと言えます。
さて写真ですが、客車の窓の下、「あじあ」という文字がかかれています。またこれが光に反射している様に見えます。ぴかぴかに磨いてあるのでしょう。
さて今度は手前の人物を。白系ロシア人2名とモダンボーイな日本男性とが写っています。
実はこれは続き物の絵葉書です。
ロシア美人からお手紙をもらった日本人があじあ号にのって出かけ、ハルピンでデートといいうストーリー仕立てです。
この後で、ハルピン駅前からタクシーに乗り、ハルピンの繁華街を歩き、松花江でボート遊びをします。そして、何故かチャイナドレスの女性が一人加わったりします(やたらともてる日本男性というあたりが笑えます)。
新京より北のハルピンまであじあ号の営業が延びたことに併せて、観光地としてのハルピンを演出する絵葉書シリーズでもあります。 |
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| 先ほどの写真のシリーズのひとつです。
がっしりしたドアが見えます。また客車同士を繋ぐ連結部分の被いが車両と同じ幅です。あじあ号は二重にこれを設置していました。写真に写っている覆いの内側にもうひとつ、覆いが設けてあるわけです。このおかげで、砂塵も走行時の騒音も入らなかったそうです。 |
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| あらためてあじあ号、パシナを見てみます。
蒸気機関車らしからぬ独特の前面が印象的である事だけでなく、日本が誇る様々な技術の一つであること、日本の夢と希望の象徴という印象を、半世紀以上経過した今日においても尚、我々に与えてくれる様に感じます。
満州は日本列島と比べても実に広大な大地をだからこそ、超特急構想が出てきたと考えられます。そしてその構想は技術の結晶としてあじあ号となります。
このあじあ号の経験は、戦後の日本にも引き継がれます。 |
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