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満州写真館 『淀』 満州での日本海軍


                        
満州の大河で任務に就いた軍艦、淀を紹介いたします。
またこのたびの画像につきましては、軍艦淀にて任務を務めました乗組員のご遺族のご好意により掲載の運びとなりました。
この場を借りて御礼申し上げます。

満州では松花江、黒龍江など様々な大河があります。これら大河は日本とは違ういくつかの事情があります。
まず、交通の要である点です。日本でも北九州などで川を石炭輸送に使った例はいくつもありますが、小規模なものです。
日本では匹敵するものの無い、幅の広い河を持つ満州では、ニ〜三千トン級の貨物船も動員しての運輸がおこなわれていました。多量の物資を安価に運ぶには船が便利であった背景もあります。
そして日本と違い、満州の大河は、一部が国境を形成しています。
満州国にとっては、これら大河の警備は重要視されていました。
まず、越境しての侵入が挙げられます。
当時のソ連は冬場を中心に極端な物資の不足が起きており、越境しての集団強盗事件が多発、満州国内に犠牲者が多数出ています。
さらにソビエトのコミンテルンは満州で暮らす白系ロシア人を嫌い、匪賊を煽って襲撃事件を起こしています。ロシア正教の教えを守り、信仰に生きる人達をコミンテルンが嫌っていたことが挙げられます。
また当時、共産革命はイコール暴力革命でもあり、人が集まるところに爆弾を仕掛けるなどの活動が行われていました。これら活動家は国境を越えて活動を行っており、貨客船が行き来する川の警備は重要でした。
さらに密輸。関税を逃れる為に物資行き来させる行為は勿論、これ以外にも銀の密輸が行われていました。これは当時のアメリカの金融不安からアジアでは支那(当時の中国)などで銀相場が激しく変動していた状況によるものでもあります。こうした相場の混乱に乗じた利益をあてこんで、満州国から銀を不正に持ち出す密輸が多発していました。
これらの状況から、満州国は砲艦を就役させています(つまり満州国には海軍がありました)。そして日本海軍もこの河川警備に軍艦を何隻も派遣しています。淀も、その派遣艦船のなかのひとつです。
では、松花江における「淀」の巡廻任務風景から。広々とした大地に広々とした河が見えます。遠くには、待機していると思われる多くの船、遠くへ貨客船と思われる船が遠ざかりつつあります。

では改めまして淀を紹介いたします。
まず淀は、明治37年度計画により通報艦として建造されました。通報艦というジャンルでは最後の艦船です。
通報艦とは遠隔地に配備され情報を得て、これを連絡する目的の艦です。
戦艦三笠でもご紹介いたしましたが、かつて日露戦争にてロシアの大バルチック艦隊と日本海軍は大激突をしました。このロシアのバルチック艦隊の接近を最初に確認したのは、通報艦でした(通報艦、信濃、和泉)。
通報艦は、こうした重要な任務を負っていました。この通報艦ですが、通常の艦船がこの任務として配備される場合と、通報艦専門に開発された艦とがあります。淀はこの後者、通報艦として竣工いたしました。

しかしながら、無線が発展するにつれ、通報艦の意味は失われてしまいました。
こうして淀は、艦隊の前路偵察を行う小型の軽巡洋艦として運用、また警備任務につくこととなりました。平時は主に南支那海の警備にあたり、通商保護や各種護衛任務をこなしました。昭和2年からは、さらに測量任務についています。

そしていよいよ、松花江(スンガリー)の警戒任務として満州国民の生命を守る任務に就きます。

では、艦の詳細を紹介いたします。(ウィッキペディアから引用)
 名  称    淀 
 ネームシップ    
 建造時期   明治41年4月8日 
 建 造 数  1隻 
 常備排水量   1250トン 
 垂線間長    85.34m 
 水 線 幅    9.78m 
 吃  水    2.97m 
 主  機    直立4気筒3段膨張レシプロ機械 2基 
 推 進 軸  2軸 
 主  缶    宮原式水管缶(重油・石炭混燃) 4基  
 出  力    6500馬力 
  計画速力   23ノット 
 航 続 力  記録なし 
 燃料搭載量   重油76トン 石炭339トン 
 乗  員    166名 
 兵  装    12センチ単装砲 2基 
   8センチ40口径単装砲 4基 
   45センチ単装魚雷発射管 2基 


ユニークなのはエンジンがレシプロ機関とよばれるものです。
重油、石炭のどちらも使用できたことです。
当時、既にタービンは開発されており、艦船にも搭載されていました。無論、性能もこちらの方が高いわけです。が、淀は敢えて、こうした配置にした様です。これは機械的信頼性が高いことが挙げられます。長期間、港から離れて滞在する任務に就くことを考えると、こちらのほうが有利と判断されたことによります。

では淀の全体像をイラストにて紹介いたします。
淀全体を撮影した画像は、現在、古書を中心に捜索しており、確認出来次第、ご紹介してまいります。
またイラストは世界の艦船誌から画像を引用しましたもので、著作権を考慮し、画像のスケッチにとどめております。向かって右が前です。この淀イラストには、大きさ比較の為に艦橋の前へ1名ほど人を描いております。棒状のものがありますが、これが乗組員の大きさとなります。
実にコンパクトな船体であることがお解かりいただけると思います。

また兵装に付きましてイラストに推定搭載位置を追記しております。
12センチ砲は艦の前後に配置されたと推定します。赤矢印で示しております。また8センチ高角砲は左右に2門ずつ配置されたと思われ、その配置と推定される場所をそれぞれ青の矢印で書き足しています。
魚雷発射管につきましては場所の特定は出来ておりませんが、二つ目の煙突の後ろではないかと考えます。

ところで、淀は昭和に入り、装備の一部を降ろしています。
実は、呉軍港にて、測量任務に就く際の淀を真横から捉えた写真を見る機会があったのですが、主砲であるセンチ砲はみあたらず、艦橋の横に大砲が見えるだけでした。
また、降ろした装備は12センチ主砲、8センチ高角砲の4門中の2門でした。結果、兵装は8センチ高角砲2門のみとなったと考えられます。魚雷発射管も撤去されたのではないかと考えます。

ところで最初にご紹介した写真の手前、船尾部分をクローズアップします。
右側にレールが見えます。これは推定ですが、魚雷を搭載していた当時に用いていた魚雷用の運搬軌道と思われます。
そして大砲が見えます。

この大砲ですが、砲身の上に後退器が配置される特徴があり、8cm高角砲と思われます。
画像は別途掲載しております、戦艦比叡と推定される軍艦の高角砲を見たものです。角度が異なることから断定は出来ませんが、ぱっと見、似た感じを受けます。

このことから、淀は、満州配備時には、8cm高角砲を尾部に搭載していたと考えられます。またイラストは満州配備時を撮影したものを参考にしており、これには艦橋横に大砲と思われるものが見えます。
つまり、満州配備時には8cm高角砲3門を搭載していたと考えられます。それぞれ青矢印でイラストに追記してみました。
さて高角砲とは敵性の飛行機を狙えるよう、砲身を上に向けることが出来る大砲です。ですが、勿論、水平に向ければ通常の大砲として使えます。よって、高角砲を搭載しておけば、広く任務がこなせたものと思われます。
また、河に配備されますこと、敵国の河へ進むことを想定していないとも言えます。よって敵性戦艦との砲撃戦、また敵性の陣地や車両の各個撃破も求められていないことからの高角砲配備とも考えられます(沿岸警備艇に巡航ミサイルが搭載されていないのと同じ理由です)。
また、ロシアの飛行機の脅威があったことから、高角砲は積んでおきたかったと考えられます。
また大砲の配備位置ですが、艦橋脇に2門、船尾に1門を配置しますと、船の全ての方向において死角がなく、またどの角度へも常に2門を向けることが出来ます。

ではその大砲を見てみます。
ハンドルが沢山取り付けられていることが判ります。
後ろの船の縁からみて、尾部砲ではなく、艦橋脇ではないかと考えます。

水上偵察機の帰還
では、ここからも淀乗組員の撮影されたものを紹介、特に乗組員達の素顔、ハルピン在満邦人、そしてハルピンの町並みです。

まず、作戦活動から。
松花江での、水上偵察機の帰還風景です。
淀は残念ながら偵察機を搭載していませんが、偵察機との共同巡廻は行ったと思われ、偵察機は目として活躍したものと思われます。
直ぐ横のボートには帽子を振って出迎える姿が見えます。

先ほどの写真から、偵察機のクローズアップです。
翼の上に1名が乗っています。着水後に基地帰還の為、方向をみているのでは、と想像します。

先ほどの続きの写真と思われます。
右側の船の見え方が違うことから、ボートか何かで偵察機の方へ近寄りつつ撮影、また遠くに見える雲の位置も変わっており、先ほどの写真からは時間が経過しているものと思われます。
翼の上の乗組員も見えません。シートに着席しているのでしょうか。
プロペラはゆっくりですが回っているようで、これからボートの先導で格納場所へ移動するのではないかと考えます。

では乗組員を紹介いたします。
自らの命をかけて任務につく若人達の、屈託の無い笑顔が印象的です。
サングラスが1名見えますが、他に装着例を見たことがなく、個人装備ではと考えます(あるいはファッション)。

軍艦旗をバックに。艦首と思われます。
遠く背景に町並みが見えますが、いずれも倉庫に見えます。淀が配備されたハルピンの埠頭付近ではないかと考えます。

同じくスナップ写真です。カメラの前ではしゃぐ姿は、今日の若人と変わりませんね。
撮影は、淀の後部構造物付近では、と想像します。
黒っぽく見えるセーラー服と、白っぽい服とがあります。
各種任務をこなす、がっしりと大きな手が印象的です。

背景に、町並みが見えます。煙突と電柱でしょうか。満州は満州電業により一気に電化が進み、町並みプラス電柱というのが満州の風景でもありました。帽子は先ほどのものと違い、前につばのあるキャップです。

上官(左後ろ)のご家族と、艦上での記念撮影です。
手前のご家族二名の盛装が印象的です。右側、こちらでは神妙なお顔つきで写っております。足元も革靴の様です。

遠く祖国を離れて任務に就く若人たちに、在満邦人は歓迎と尊敬を持って接しました。
ハルピンのカフエー花園での撮影です。日本国内同様、満州国の各都市には、多くのカフェーがありました。


背景から、民家の板塀と思われるものが写っています。
水兵さんが、下番(軍隊などで勤務を終えること、非番)の時に訪問をした、といったところでしょうか。

では、続きとしまして、『水兵さんの見たハルピン』にて、淀乗組員様の撮影したハルピン市街と在満邦人の姿を紹介してまいります。


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