| 満州市街地を昭和16年当時の地図で見ています。
グレーの部分は炭層のエリアです。これは東側へさらに1.5倍程度の広さで広がっています。
町並みが二箇所、特に右上の町並みは駅を中心にした計画都市であり、また区画の整った街並みであることがわかります。これも満州ならではの計画都市です。
露天掘りはこの図の左下に4箇所あります。また露天掘りで有名な撫順ですが、縦坑も数多くあり、あちこちに14箇所がありました。
炭層は東西長さ20キロ以上にもなるものです。またこの炭層の厚みですが、東側6メートル西側120メートルの厚みとする資料があります。石炭だけで形成されるのではなく、石炭の入り混じった層も併せての厚みと思われますが、それにしても実に厚大きな石炭層です。 |
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| 満州撫順には、撫順その1でも紹介しましたとおり、大規模な炭坑が数々、稼動していました。
さらに石炭を基幹とした工業都市が出来上がりました。石炭には様々な揮発性物質が含まれており、これらは骸炭(コークス)を得るために石炭を蒸し焼きにすることで得られます。
これらは、いずれも回収され、化学産業の原料になります。
その中のひとつ、モンドガスを用いた発電所がアジア撫順に稼動します。これはアジアでも珍しいタイプの発電所です。さらにモンドガス副産物の硫酸アンモニアなど様々な物質も得られ、これも化学産業の材料です。 |
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| 撫順ではオイルシェールが得られました。
オイルシェールとは原油を含んだ砂岩が地表に露出、もしくは地表付近の地下水などと反応し、揮発成分を失ったことにより生成されるもので、黒ずんだ色の石油臭を放つことが特徴です。母岩が砂岩ではなく頁岩の場合にはオイルシェール(Oil Shale)と呼ばれます (ウィキペディアより)。
撫順ではこのオイルシェールを用いた重油の生産に成功しました。画像がその工場です。
下の方に人影があるのがわかりますでしょうか。
乾留を行い重油を回収するタワーで、高さはビルの9から10階建てにも相当しそうな大きさです。奥行きですが、この写真の右側にもずっと続いており、写真では半分程度しか写っていない様です。
また写真では建物に遠近感が見えるのに、煙突がまっすぐに伸びています。これはレンズ特有の画像のゆがみを補正するアオリ機構を持った特殊なカメラを使用して撮影したものと考えます。
さてオイルシェールについては、これを利用したさらに新しい産業が興されます。
撫順のセール・セメント会社がそれにあたります。このオイルシェールを原料としたセメントで、理想的な廃物利用として、当時、大きく報道され、満鉄の技術は大いに称えられました。
これは、従来の石灰岩ではなく、オイルシェールを原料とするセメントです。
もともとオイルシェールは使い道の無いものでしたが、技術革新により、これから重油を得ることが出来るようになりました。さらに乾留のために粉砕し、油を回収したオイルシェールを、さらにセメント原料とするわけです。
セメントは原料を焼成して生産しますが、その生産も撫順に山ほどある安価な燃料を用いるだけでなく、粉砕したオイルシェールに含まれる炭素成分で自ら燃焼して焼成、熱効率と燃料の使用を節約、コストを下げる事ができました。
さらに撫順セメントは急硬セメントと呼ばれるものです。セメントは冬場の寒い時期になると乾きにくくなることから、冬季の工事は不利でしたが、こうした急硬セメントは、こうした不利を解消できます。また木材との密着力を有するともいわれる便利なセメントでした。
オイルシェールでは、石炭の代わりにオイルシェールを燃料とする蒸気機関車も開発され、あじあ号と共に、高速旅客輸送に貢献しています。 |
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| オイルシェールの工場をクローズアップしてみます。
窓は、外に向かって開く形です。
日本に戦後作られた志免炭鉱の窓も蝶番が上につき外へ向けて開ける形でした。こうした昔の工場の窓は外へ開けるものがおおくあります。窓を開ける時に落ちてしまいそうに感じます。 |
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| 足元です。トロッコで資材を運んでいるところでしょう。
建物に比べ、実に人が小さく見えます。 |
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| 石炭採掘発展に伴い、撫順その1でも触れましたとおり撫順の南に在る「千金寨」で操業を始めそこに近代都市を造りました。こちらの駅の写真は千金寨の撫順駅です。
レールの幅は、日本の幅より広いのがお分かりいただけますでしょうか。 |
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| 千金寨に続き、昭和の初めに現在の永安台地区に新たに都市を造りました。これが現在の撫順で、こちらの写真は新しい撫順の仮駅です。
左側、電化されているのでしょうか、鉄柱が見えます。
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| こちらが撫順駅です。駅前ロータリーから駅舎正面を見てみます。
この撫順駅は戦後も壊されず、今日も利用されています。 |
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| では、市街地を紹介します前に、絵葉書を包んでいた封筒を紹介します。
満州国では鉄道の発展に伴い、日本からの旅行ブームが起きました。
主要な駅には御土産物屋さんが出来ました。
そうした旅行客を当て込んだ、商品も多数出来ています。豆菓子、素麺など、現地で買って日本へ送るサービスもありました。
こちら撫順も、修学旅行などで訪問者は多くいました。
袋には
「遠路、ご安着つつしんでお喜び申し上げます。お土産は、薄利精進絶對正札の滿蒙名産館」
とあります。「正札」とありますが、これは掛け値(物を売るときに実際より値段を高くつけること、またその値段)なし、という意味ですね。
当時は、日本から列車・船・列車を乗り継いでの旅ですから、安着したときの喜びは、現代より大きかったでしょう。
商品紹介から、当時の人気のお土産物が伺えます。特に満州は様々な鉱物が出土しましたので、それらの細工が人気を呼んだのでしょう。それにしても石炭細工があるのは、流石、撫順です。
また、この満蒙名産館は「撫順駅向ヒ」とあり、駅前にあったようです。 |
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| 市街から撫順駅を見ています。
撫順駅は駅前ロータリーから放射状に5方向の大きな道路が通っています。
写真はその正面の中央通りです。町並みは並木に彩られ、街路は放射状と碁盤目を組み合わせた整然としたものでした。
この道路を撮影者の後ろ方向へまっすぐすすむと炭坑事務所、道路を挟んで満鉄病院、さらにすすむと道路を挟んで女学院や小学校が並んでいました。
行きかう車、人力車が見えます。また撮影は冬なのでしょうか、街路樹の葉が散っています。 |
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| 同じく市街地です。大きなバスが見えます。看板は日本語です。
左側には"リストビュー"と読めますので、ジャパンツーリストビューローでしょう。
同じく冬場の撮影で、行きかう人は寒そうです。
右側の鉄筋ビルには窓から煙突が出ています。この煙突は金属製に見えますが、如何でしょうか。また、後付の煙突に見えます。これは冬場に焚くストーブ用の煙突ではないかと想像します(夏場は煙突とストーブは片付けるわけです)。 |
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| 同じく撫順駅前の大通りで、こちらは季節が違うのか、街路樹に葉があります。
道路の真ん中に方角を示す看板が立ててあります。
道路は、人力車が行きかっています。 |
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| 満州人街です。
古くから住む満州の人達の町で、こちらも人力車や行きかう人々が見えます。
看板にご注目ください。満州の看板は大きく派手なのが特徴で、こちら撫順も同じです。 |
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| こちらは千金寨での事務所です。 重厚なデザインの撫順炭坑事務所旧事務所です。
露天掘りが本格化するに際し、新しい事務所が建設されます。 |
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| 撫順石炭事務所の全景です。千金寨での事務所と共に炭砿事務所と呼ばれていました。
近代的な印象の建物です。
手前を線路が通っています。
ところで、この建物は駅から離れた市街地にあり、この位置から考えてみてこの線路は撫順駅から分かれた支線か、あるいは市街地を巡る路面電車でしょう。
また架線は見当たりませんので、客車は内燃機関(ディーゼルなど)で走っているのでしょう。 |
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| 同じく撫順石炭事務所ですが、手前の線路には電柱と架線が見え、電化されていることがわかります。 |
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| さて、同じ写真ですが、今度は右上を広く見てみます。遠くにみえますのは撫順第二発電所です。
まるでアメリカの原発を思わせるデザインですが、これは復水器です。 |
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| 重厚な門と、門柱の上の飾りは電燈つきの様に見えます。 |
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| 満州の各都市には、大きな病院があります。
流石は満鉄、という印象です。先ほどの炭砿事務所の向かいに在り、これらの間には電車の停留所が有りました。画面手前の左に見える門柱が炭砿事務所の門柱です。炭砿事務所の写真はこの病院の上から撮ったものとおもわれます。
ちなみに撫順病院は大きな病院で、特に地元民(いわゆる満洲人)専用に大きな病院も隣接して建てられていました。都市を作るだけでなく、住んでいる人に貢献しているわけです
手前の道路には線路と架線が見えます。先ほどの線路もこれに繋がっていたものと思われます。
これら主要施設は、公共交通機関を使って便利に繋がっていることがわかります。 |
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| 画像が荒いのですが病院門柱と入り口です。
門柱とその上にガラス部分が見えます。病院への人の出入りが見えます。
手前、三人連れの左の人物が、手にかさと思われますものを持っていますのと、後ろ建物の三階部分から壁が濡れているように色が濃く、雨が降った直ぐあとかもしれません。
撫順市では他の満州国の都市と同じく病院が整備され、撫順立伝染病病院、婦人病院、保険所、衛生隊などの設備のほか、満鉄病院の各課が、さらに撫順に数多くある満鉄採炭所には出張所がありました。 |
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| 画像が荒く判別し難いのですが、画面左中央に向こうを向いて横になっている患者の上に、黒く大きな機械が覆いかぶさっています。右側に丸眼鏡の白衣の人物が見えます。 |
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| 強く照らすライト、整然と並ぶ医療器具が見えます。
もしかして耳鼻科でしょうか。 |
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| 満鉄設立三十周年を記念した満鉄保養院の入り口です。 |
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| では、もうすこし市街地を見てみましょう。
こちらは市公署とあります(市役所のことでしょうか?)。 |
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| 映画館の豊楽館です。夜間の建物ライトアップの様子がよくわかります。
撫順市街地の映画館は豊楽館と楽天館でした。こちらはネオンから豊楽館であることがわかります。 |
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| 街角に建つ映画の看板です。後ろには散髪屋が見えます。
看板にはエノケンと見え、榎本健一の映画が上映されていることがわかります。
一方で、エノケンまでは読めますが、タイトルが黒くて読めません。黒の上に濃い赤字を書くと、白黒写真では真っ黒になることがあります。その為、この写真では黒くつぶれてしまったのでしょう。
また下に「のんき横丁」とあります。のんきというのは当時の流行り言葉でのんき節といった漫談もあります。
さて、のんき横丁という映画ですが、これは、戦後も様々の映画で活躍された藤原釜足主演の映画で、1939年の公開です。
このことから先のエノケンの映画を推理しますと、1939年にエノケンは2本映画を公開しています。
「エノケンのがっちり時代」と「エノケンの弥次喜多」です。
一方で、画像ではかすれていて見えませんが、右側「東宝エノケン映画の傑作」の下に、かろうじて"中"の字が読めます。
このことから、監督を中川信夫が勤めた「エノケンの弥次喜多」が該当します。喜多八を榎本健一、弥次郎兵衛を二村定一が演じたオールスターキャストの映画です。 |
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| 公園も都市計画にもりこまれました。
小高いところに市街地を見下ろす形で配置されています。
左側の屋根のある東屋(あずまや)には、どうも水道がついている様に見えます。
水飲み場なのでしょう。 |
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| 巨大な煙突、給水塔など、きわめて大掛かりな発電所で、大掛かりな発電所です。
この巨大な発電所のおかげで、工場地帯の引込み線も炭坑施設も、あらゆるところで電化が進んだようです。 |
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| 巨大な給水塔をクローズアップしてみます。見た目ですが、首都新京に水を供給した給水塔にも匹敵する巨大なものの様です。
が、足元には馬車がのんびりと歩いていて、満州らしさを感じます。いくつもの斜めの線が見えますが、これは先の写真でもお解かりのとおり、電線です。多くの電気が広く供給されていることがわかります。 |
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| 美しく設計された炭都、撫順の町並みです。
計画された都市で、道路のも整然と配置されています。日本国内にも炭都と呼ばれる街はおおくありましたが、撫順の様な都市計画にそった町並みを持つ炭都は無いといっていいと思います。
昭和初頭(5年ごろ)に十万人を超える人々が生活した大きな街は、昭和14年頃には総人口二十三万人へとふくらみます。
大連や新京ほどの高層ビルは無いのですが、近代的な雰囲気に溢れていました。特に洒落た文化住宅の社宅が作られた事、市街地が炭坑区とは離れていた事もあってか、街中で生活していると炭坑の雰囲気を感じなかったという話もあります。撫順の住宅街につきましては、別途、掲載してまいります。
さて、画像ですが、遠くに撫順第二発電所の煙突と煙が見えます。また復水器からもうっすら水蒸気が上がっています。 |
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| では、もう一度、露天掘りで活躍する電動採砂機(電動パワーショベル)を見てみます。
満州の、当時、まだ手付かずだった豊富な資源を、いままさに掘り出そうとしているところです。
英国の大手炭坑のオーナーであるカーディフ氏はこの撫順をみて、『石炭を掘るのに、こんな文化設備の必要があろうか。さぞ石炭が高くつくであろう。』と驚嘆したとあります。
英国には、アジアに広く勢力を持っていましたが、自国以外に街を造り、その街を文化都市といえるものにするという発想は無かったのでしょう。 |
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