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満州写真館 苦力(クーリー)


                        
苦力
主に単純な力仕事に従事する、契約労働者です。短期間の契約であることが多かった様です。
明治時代に夏目漱石が満州を訪問した際も、もくもくと働く苦力の姿に感嘆していました。
大連を訪問した人達も港湾労働に従事する苦力達の仕事ぶりは印象に強くあり、複数の書籍に苦力が出てきます。
北原白秋の詩集、満州地図にも
『大連埠頭、わらわらと、苦力がいつもたかります。
潮の色まで大東亜、朝は旗雲なびきます。』
とあります。(日本文学電子図書館http://www.j-texts.com/index.htmlから引用)

満州国は、鉄道をはじめとして一気に交通が発展しました。苦力も仕事を求めて支那(当時の中国)から満州全土へ広く展開したようです。
写真は休憩時間に日向ぼっこでもしているのでしょうか、倉庫の前でカメラを向けられて微笑んでいる苦力達です。かなり厚手の服装で、寒い時期の撮影と思われます。皆、同じ服装ですし、支給された服でしょうか。

穀物庫前の苦力
当時の報道などを見てみると、苦力は主に農閑期に支那(当時の中国)から仕事を求めて大挙、満州へおしかけたことがわかります。また、主に大連から上陸したようです。
苦力は賃金を自分の家族へ送金、その苦力の送金額は1935年当時、年間で三千五百万円にもなっています。恒常的な貿易外終始のなかで最も恒常的なのは苦力の送金であるとの報道もあります。
満州労働市場の拡大は、満州国の産業発展にともなって増しました。さらに満州国では、苦力の労働環境を保全する為の法律を整備、満州国外からの入満する苦力の人数は十一万九千三百という圧倒的数値になりました。

画像は積み上げた穀物の前で掃除をしている苦力です。穀物は、大豆と思われます。
苦力の働きぶりは、当時の様々の書籍にも記述があり、またその単純労働を黙々とこなす姿は、日本人ではかなわないという印象のものが見られます。
また苦力は、短期の契約が多かったためか、割と自由に行動をしていたのでしょう。掃除をしながら、運搬でこぼれていた大豆を拾い集め、溜めてからこれを売り、小遣いにした苦力も居た、という話もあります。

松花江埠頭の苦力
1935年の満州日日新聞によりますと
『満州国内における労働統制の検知から、反満分子および不良者を排し善良なる労働者を入れるため、』
として管理強化の労働統制規則を細かく決めております。
これは大量の人の出入りが生じることから、その管理を見直したもので、特に満州国への犯罪者や匪賊の流入、さらには軍閥の密偵を怖れた、との記事もあります。

苦力は、井戸の水汲み、船への荷物の積み込みなど、単純労働が多かったようですが、次第に仕事の内容は高度化していった様です。
さらに、入満の人数に比べ帰郷する人数が少なく、満州にて諸事業へ従事する事が恒久化したとする資料があります。これはつまり、労働のニーズがあり、様々の産業があり、且つ、満州国の政治経済が安定発展していることを示しています。

画像は、ハルピンは松花江の埠頭で荷物の積み込みに従事する苦力です。
貨物専用の船、その向こうに外輪船、さららに右上に帆をかけた船が見えます。

さて苦力は、諸外国からは奴隷に見えたのでしょうか。横浜港に寄港したペルー船から、奴隷として運ばれようとする苦力が脱走、日本国は法律を最大限に生かし、停泊している船から苦力を解放させるという「マリア・ルーズ号事件」が発生しています。
この苦力を日本が解放した事件は国際的にも衝撃的な事件だった様です。
参考図書::IZA(イザ)から
http://dnalt.iza.ne.jp/blog/folder/23413/

画像は豆粕を運ぶ苦力です(豆粕:大豆から油をしぼった搾りかす/機械でまとめて押しつぶすため、搾りかすが円盤状に押し固められる/主に肥料に利用される)。

苦力宿舎
苦力の宿舎です。
『満鉄ではこれらの苦力を収容してその生活を安定にし、且つ組織的に善導している。』と、キャプションにあります。
画像には、二階建ての宿舎がずらりと並びます。
電柱もありますので、電化も進んでいるのでしょう。

大連苦力宿舎 碧山荘
同じく苦力宿舎で、キャプションに大連とあります。港湾労働の苦力と想像します。また、大連埠頭だけで二万人に近い苦力が労働に従事していたという飼料があります。
こちらは平屋です。レンガ造りのがっしりした建物に見えます。
左下では、洗濯をしているようです。

さて苦力という呼び名は戦後、中国になってから廃止されました。しかし農閑期を中心に長距離バスで移動し、単純労働に従事し、仕事を求めて移動している人々は、日本でも報道もされておりご存知かと思います。これを今日では農民工と呼んでいるそうですが、季節労働で単純労働を探して移動するというのは中国に広く習慣としてあるようです。ちなみに、報道によりますと農民工の賃金未払い問題というのが表面化したとのことです(「大紀元時報」から引用)。


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