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満州写真館 奉天 その2


                        
では、奉天その1に続きまして、奉天市街地を見ています。

当時の書籍に
『瀋陽の日本人町はその立派さに西洋の旅客も驚かせる。55メートル幅の淡々たる大道路に赤レンガ、中央広場を取り巻いて、ヤマトホテル、病院、医科大学、公会堂、警察署、正金銀行などの高層美麗な堂々たる建物が並ぶ。』
とあります。まさに計画都市といっていい街です。
これは、奉天以外の主要都市でも同じで、東京市長の都市行政顧問であったベヤード博士(関東大震災後の帝都復興事業にも参加した都市計画の第一人者)も、満州視察で
『日本国内は貧弱なのに、満州は欧米に劣らず道路衛生教育施設のごときは、はるかに新式である。』
と驚いています。

奉天平安広場
奉天市街地を、町並みからみてみます。
まずはロータリー、人や車が行きかっています。
街路樹のある中央分離帯の真ん中に街灯があります。
後ろ側、ビルの一階部分は大きなショーウィンドウが見えます。
左側、歩道には整然と並ぶ街灯が見えます。
右上に見えますビルの一階は、カフエーでもあるのでしょうか、洒落た日よけが取り付けられています。
この一帯は繁華街がひろがっているようです。このロータリーを別の方向へ撮影した写真を見たことがあるのですが、様々なお店が並んでいることがわかります(例えば、画面左下方向には自転車屋さんがあります)。

左側をクローズアップしてみます。
路線バスが見えます。看板には森永チョコレートとあります。

奉天千代田公園
奉天には、春日公園、千代田公園など公園設備が整っていました。これは新市街地に新たに設けられたものです。噴水が設けられ睡蓮が植えられた池がありました。画面右側には記念撮影屋さんが居ます。
この公園に隣接して市街地に水を供給する大きな給水塔がありますが、残念ながら写っていません。
さて如何にも日本的な名前の公園ですが、日本が建築した町並みや通り、そして公園には、大抵は日本名を付けています。
これは奉天に限ったことではなく、満州国での共通といっていいわけですが、一方で、満州の地名や町の名前は、基本的に満州古来の土地の名前がそのまま付けられています。現地に名前があるものは、そのまま使っており、これも共通しています。
奉天にはこのほか、奉天公園、長沼公園がありました。

瀋陽千代田通り
正面に奉天駅が見えます。
街路樹、歩道をそなえた立派な町並みで、これら街の完成度は外国人旅行者を驚かせました。
写真のキャプションにも
『三十間幅の千代田通りは電車の敷設を行わず、両側はすべて洋館建とした。』
とあります。緑豊かな街路樹と歩道、高さがほぼ同じに見える建物が並んでいます。

奉天中央広場
奉天のロータリーです。キャプションにも『文化的大都市の風貌、輝かな奉天』とあり、整然とした市街地は文化都市としてふさわしいものでした。
給水塔も大規模なものが造られました。市街地には浄水が行き渡ったわけです。
かつて、奉天に限らず、満州では浄水と下水をわけるという習慣はなかなか定着していませんでした。明治時代に夏目漱石がこの地を訪れた際、水が汚染されていたことから『茶を飲むと、酸いような塩はゆいような一種の味がする。』と、不快感を「満韓ところどころ(旅行記)」に書いています。
しかし、奉天市街地建設に伴い、これらは解消しました。画像は入手できておりませんが、大きな給水塔も建てられました(撫順の発電所の給水塔と同じくらいの規模/ちなみに奉天の給水塔は今日も残っています)。
こうした上水敷設は奉天のみならず、満州全土で実施されています。

さて画像ですが、瀋陽の日本人街の中心にある中央広場です。これを取り巻いてヤマトホテル、公会堂、医科大学、警察署、正金銀行、東洋拓殖会社などの高層楼がずらりと立ち並んでいます。
中央に記念碑、正面に白い奉天ヤマトホテルが見えます。

先ほどと同じ位置と角度で撮影した写真をもうひとつ、やや右側まで写っています。
左上、ヤマトホテルの屋上にガーデンと思われるものが見え、また看板があって「祝」と読めます。
道路に沿って遠くまで、そして写真右上方向にも、いくつものビルディングと煙突が見え、広々と市街地が形成されていることがわかります。

この写真をいくつかクローズアップしてみます。
まず画面したにロータリー中央が見えます。ここには観光客向けの記念写真屋さんでしょうか、いくつもの三脚とカメラ状のものが見えます。広々としたロータリーは、旅行客向けの記念撮影にもってこいなのでしょう。

奉天ヤマトホテル
白亜の、西洋風なお城を思わせる、凝ったデザインのホテルです。
観光都市でもあった奉天には、ヤマトホテル以外にもホービルホテルなど様々のホテル、そして旅館、民宿があり、旅行客をうけいれていました。

平安広場より青葉通りを望む
広々としたロータリーとバスや馬車が見えます。
こちらにも下側にカメラ屋とおもわれます三脚が見えます。
整然とした町並みには大勢の人々が行きかい、歩道には屋根も見えます。
どうやら繁華街の様です。
繁華街といえば、当時、紅茶や珈琲、さらに軽食を提供するカフェーが、日本国内だけでなく、満州でも大いに流行りました。お洒落で手軽な社交場でもあったようです。それぞれの店は客へ配る為のマッチを作り、そのマッチ箱の意匠をこっていました。こうしたマッチ箱を収集されている方に伺いますと「収集できた範囲のマッチ箱をみただけでも、奉天や満州国首都の新京にそれぞれ数十件のカフエーがあったみたいだ。」とのことです。

左側をクローズアップしてみます。
伊藤運動具見千、京都物産紹介所と看板が見えます。建物には大正生命保険満洲支社とあります。また建物の上の看板は「酒八源氏」と読めます。奉天の清酒では、と想像しています。

新装なれる奉天満州電々会社

奉天市公署の偉容

瀋陽満州図書館
『満鉄における貢献は実に大きい。土地開発のためにはあらゆる文化施設をなし、公園、ホテルまでも設立した。瀋陽の満鉄図書館もそのひとつである。』

奉天銀座
奉天の新しい市街は面積三百四十六万坪もの広さになります。
当時の市街地の説明には
『概して長方形をなし、千代田通りを中央に浪速通りを中央に浪速通りの二大道路を放射せしめ浪速通り、千代田通りの二大道路は商業区として、特に浪速通りは法人の商店多く、一名、奉天銀座と呼ばれ商業繁栄を極める。いまや満州国の統治下に移り、満州国唯一の要都として将来の繁栄、いっそう盛なるべし。』
とあります。銀座、という名称は、繁華街に好んで付けられ、日本国内にもあちこちに銀座と呼ばれる場所はあり、こちら満州でも同じく銀座という名称が好まれた様です。勿論、それなりに盛況であることの証でもあります。

奉天の銀座
『奉天駅前をまっすぐ千代田通りを行き途中で当方区へ左折れすれば、春日町に出る。
奉天の銀座と一流の商店軒を並べ、滑かな通りは絶好のプロムナードである。』
様々な商店が軒を並べ、看板も沢山見えます。盛況振りがうかがえます。
そして行き来する多くの馬車、自転車が見えます。また御者ですが、服装から満州の土着の人では、と想像します。
画面右側、こちらに向かってくる馬車の足元が左右で色が違って見えます。光を反射して見えることから、色が濃いほうは濡れているようです。一方で道路右端はその様には見えません。
このことから考えて、道路の中央へ散水をしたのでしょう。また、この散水は道路の埃を押さえたかったものと想像、また市街地中を散水車が回っており、とりあえず道の真ん中を水で濡したのだと思われます。

奉天の盛商区、春日通りの賑わい
右下、和服の女性の一団が見えます。
町並みは街灯があり、また沢山の自転車がおかれてみます。中谷時計店、ビスコなど、様々な日本語の看板が見えます。
両側には歩道が確保されており、また歩道を覆う張り出しのテント状の屋根が設けられています。これら点とは高さがまちまちです。どうやら各店が任意で張り出しているように見えます。

先ほどの通りの反対側です。
右側は日本料理店でしょうか。看板は「千里十里」と読めます。また玄関は日本家屋を思わせる形に瓦で形どられています。
店の前には大勢の人が行き来しており、こちらは男性が多く写っています。真ん中あたり背中が見える白っぽい服は満州人っぽい服装に見えます。その左隣、さかい呉服店とあります。
街灯があり、大きな電灯がぶら下がっています。一帯は、夜も明るく、さぞ賑わったものと想像します。

奉天東難波通り
整然とした町並みです。
歩道は四角いブロックを敷き詰めたつくりです。
バスが走っているのが見えます(アメリカ製車体のバスの様です)。

満州国商工の中心大都市市街地全景
同じく整然とした町並みです。

先ほどの写真の中央上をクローズアップ、バイカルCO.と読め、また屋上にも看板があり、ロシア飴製造とあります。
満州国は、白系ロシア人も多く住んでいました。
ロシア国境からは離れている奉天ですが、ロシアの雰囲気もあったのでしょう。

奉天警察署
右上に、西塔がかすんでみえます。

奉天の新市街と城内との間に十間房といわれる区画や西門外付近は商埠地とよばれ、各国人が雑居していました。
この地区について記述したものがあります。
『有名な、いはゆる商埠地を通つた。諸外国人が自由に住んで商業を営むところ、別荘風の美しい建物が著しく目につく。説明によると、以前は犯人などもこゝへ逃げ込んでゐれば国際問題がうるさい為捕へられる心配はなかつたものであるといふ。』
奉天も満州国設立に伴い、治安はよくなっております。

奉天国立博物館
博物館です。
中国古来からの財宝を収集保護して四散を避け、これらを陳列し、満州国民に歴史遺産を公開していました。
建物は、かつて東北で勢力を誇った軍閥湯玉麟の私邸です。豪勢な資産をもとに、この豪華絢爛な建物を建てましたが、満州国設立後は湯玉麟は国外へ逃亡、空き家となった建物は国立博物館として利用されました。
白亜の三階建、全部で二十二の部屋に分かれ、三千五百点もの展示品を陳列、特に清朝乾隆帝時代の仏像仏塔は黄金に輝き、清朝時代の華やかな全盛期を偲ばせるものでした。
清朝以外にも、遼、渤海時代の遺物が陳列されています。陳列品は様々で、巧みな銅板画の芸術品、金や玉の宝座、歴代皇帝の御宸筆など実に貴重な遺産が集められていました。
見る人を大いに驚かせたようで、奉天観光の目玉のひとつにもなっており、修学旅行でも大勢の学生が訪れています。

展示品のひとつ、黄金に輝く像です。
仏像ではありますが、日本に伝来している仏教とは修派が異なるためか、独特の雰囲気を感じます。


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