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満州写真館 満鉄農事試験場


                        
公主嶺は古く歴史のある町です。公主嶺の名は、古代の皇女の陵があることに由来します。主嶺駅の北西十数キロのところにある公王陵と呼ばれるものです。この皇女は乾隆皇帝の皇姪で、蒙古王に政略結婚をするなど歴史に翻弄されました。
この陵の写真は、鋭意捜索中ですが、未だ見つかっておりません。
画像は公主嶺停車場です。
満州全土に鉄道を敷いた満鉄は、
『ひとたび、鉄道が開通すれば、沿道は目覚しく発展する。これ大衆を擁し、無限の天産物に富むからである。』
と考えていたことによります。
かつて日露戦争の時にはロシアの兵站基地があり、そのために鉄道施設が設けられていました。その為、公主嶺は満州国設立前からロシア人が多く住んでおり、西洋の野菜が栽培され、大麦畑がありました。
満州国設立に伴い、ここには六十余万坪もの東洋一を誇る農事試験場が出来上がりました。
画像は、公主嶺駅です。

満鉄農事試験場と試験農地
こちらが農事試験場です。
満州の産業開発に偉大な貢献をしました。
これは満鉄総裁、後藤新平伯自身が自らこの設立を決定したとされます。
当時の資料にも
『満州は満鉄の経営地であるから、地主に対する御礼として、地方の原始的農業を改善せしめんと巨額を投じて設立維持させたものである。』
とあります。ここでいう地主とは、元々から住んでいる満州国民を指します。
また、満鉄の直轄の運営がなされ、各種の研究室、温室、展示室がありました。

満鉄農事試験場と試験農地での借り入れ
さて満州の農業、特に南満州は多彩です。
大豆、高粱、粟、とうもろこし、落花生、りんご、梨、桃、杏、ブドウと様々な種類の農作物が栽培されました。様々な畜産も盛んでした。
満州国は大農業国でもありました。それは農業技術の向上に伴う生産の大躍進の結果でもあります。
そしてそれを推進したのが農事試験場で、よりよい農業への科学的アプローチが行われました。
単位面積当たりの収穫量の増加、そして品種改良された畜産、さらに従来はあまり規模は大きくなかった酪農も導入し、発展を遂げました。
画像は農事試験場公主嶺にて高粱の穂を収穫、運搬しているところです。

満鉄農事試験場 試験作物
当時の資料から、農事試験場の創設について引用してみます。
『この土地は北緯四十三度半、札幌とはほぼ、同緯度であるから札幌農業学校の橋本博士を招聘して現北大の南博士、湾大の大島博士も参加。土壌の性質を研究、害虫駆除法を講じ、肥料を施し、その成績を一般農民に示し、また地に適した野菜、亜麻などの試作に苦心した。
しかし、保守的で昇進な満州農夫はそれに感心するのみで実行する英断なく、新農業に躊躇した。
この弱点をみえ、試験場が全力を傾注して大成功したのは大豆種子の改良である。
もともと満州大豆は、粗放な耕作法で栽培されていた。そのため、大豆の種類も様々で、ばらばらに大豆種子を混じていたため、市場取引も安価であった。
そこで、試験場では、なんと八千八百もの大豆苗を栽培してそこから有料品種を選別し、掛け合わせて、改良された一等級大豆を作り、これを希望者に分けた。早速、公主嶺一体の農民は、この一等級大豆を栽培、三割もの増産を成し遂げた。』

大豆は広く満州全土で栽培されていたものの、品種の違う大豆を一緒にして栽培されていたようです。
そうなりますと、例えば油を絞る、あるいは加工するにしても品質が一定しないことになります。
そこで優良品種を配布する事で、一定の品種の大豆がえられ、これらの加工品も品質を一定にする事が出来ます。そうなりますと、市場競争力も増すことができます。結果、高品質の大豆を生産することで、農家は換金性を高めることが出来ます。
試験場では、まず優良品種を無料配布しました。有料ではなく、希望者への無料配布です。そして収穫品を優先して買い上げました。結果、地元農民は新しい技術による農作物の恩恵を得る事が出来ます。

当時の、品種改良大豆栽培のポスターを見たことがありますが、単位面積当たりの収穫量向上を訴えるため、従来品より沢山の鞘がついた大豆のイラストで紹介していました。

公主嶺における大豆の写真は入手できておりませんが、こちらの画像は満鉄公主嶺農事試験場における甜菜です。
砂糖は主に砂糖きびから得られますが、これは暖かい地方でのみ生育するもので、満州での栽培は不可能でした。
そこで、甜菜大根による製糖が試みられました。
砂糖の自産自給は、国家的な目標でした。当時、砂糖は貴重品でした。例えば戦時中の日本国内ですが、税率の議論がなされた際、お酒などは贅沢品だから増税する一方で、砂糖だけは庶民の貴重品なので、税率は据え置きとしたことがあります。
こうした背景からも、砂糖の自給自足には大きな期待が寄せられていました。

南満州製糖株式会社農場
当初、満州は砂糖を輸入していました。この生活に密着した砂糖の安定供給を求める声は大きかったようです。そして、農事試験場の研究の成果により、甜菜砂糖の栽培に採算が取れることがわかりました。
この成果を元に、いよいよ満洲製糖会社が設立、これは資本金一千万円を以て昭和十年十二月奉天に創立しました。
最終的に満州国は砂糖の自給を達成、輸出に転じています。
画像は満州製糖株式会社の甜菜農場です(公主嶺ではありません)。

満鉄農事試験場 家畜
では、あらためまして満鉄農事試験場です。
畜産も改良の対象でした。満州には三百万頭の羊と山羊がいました。
羊は当初、食料と毛皮(もうひ)に利用され、羊毛(ウール)には注意は払われていませんでした。しかも、ウールはわずかしか得られませんでした。
そこで、公主嶺農事試験場では、これを綿羊に改良し、また食用としても風味を落とさないことに務めました。
まず高価なメリノ羊を輸入、在来種との交配を実施、三回の混血を行いました。これにより、一頭からウールも得られ、かつ美味な肉羊を得る品種が得られました。
これも希望者に無料で配布、結果、羊毛の増産を成し遂げ、畜産農家の現金収入となりました。
画像ですが、右手、木の陰に洒落たデザインの建物が見えます。

放牧地より畜産科事務所及び畜舎を望む
ほぼ同じ場所の撮影で、こちらでは遠くの建物が良く見えます。

満鉄農事試験場 家畜
これも公主嶺での撮影です。
豊かな毛並みの羊です。

満鉄農事試験場 牛舎及びホルスタイン種牡牛
牛も研究対象でした。
満州はもともと畜産の盛んなところでしたが、主に粗食に耐える豚が飼われていました。
満州国設立後は家畜の種類も豊富になっています。

満鉄農事試験場 熊岳城試験地の一部を望む
大規模な農事試験場は熊岳城にもありました(温泉があるところです)。
果物や梨が名産になり、そして南満州の気候に適する水田、果樹の栽培、
蚕などの試験を重ね、農事知識を現地の満州人に授けています。

熊岳城には駅が出来て温泉で賑わい文化都市が出来上がりました。
停車場での機関車給水中に客に売る果物だけでも年額十万円に達するほど賑わいました。

満鉄農事試験場 水稲試験地農事試験場熊岳城分場
水稲の栽培は満州国時代に急速に発展、土地を改良し、水を引き、大規模な水田が広がりました。
それはこうした農事試験場での試験を重ねた品種が展開したものです。

満鉄農事試験場 植木見本園農事試験場熊岳城分場
こちらでは植木も試験の対象となっているようです。防風林など、需要があるものと想像します。
白樺に見えます。

農事試験場の主導により様々な農作物が導入されました。例えば1935年には麻(黄麻)の代用としてケナフが導入。ロシア産と台湾産の種子を収集して試作。いずれも作柄良く、また従来の繊維食物との比較を行い、強度と伸度、共に良い成績であったとのことで、今後の活躍に期待されると報道がなされています。
同じ1935年ですが、綿花が不作という事態に見舞われた際、綿花の茎を利用して人絹パルプの製造に成功、木材パルプにも劣らない、優秀な製品の完成に至りました。しかもこれは採算が取れることが判り、満州綿花協会が「綿花栽培に光明を与えるものだ。」として、大いに歓迎したという報道がありました。

満鉄が経営する煙草試験場
タバコ試作場で、大きな葉が見えます(遠くには背の高い作物があり、先端の色が濃く、高粱ではと思われます)。

こうした様々な農業の改良には、農事試験場だけでなく、満州国中に設立された大学も参加しています。
例えば、満州甜菜栽培の意義を考察した奉天農業大学の論文など様々な成果があり、こうした学術的な取り組みが農業国としての満州を発展させました。

公主嶺
では公主嶺の町並みを見てみましょう。
こちらは地元に古くから有る街、満人街です。

道路は歩道があり、歩道と道路の間には排水溝と思われます段差があります。ややでこぼこで、なおざりな造りにみえます。
また、建物からは満州特有の大きく大げさな看板が突き出しています。

左側の看板の門司が判別がつきます。
まず「公興絲房」ですが、これが店の名前と考えられます。また「絲房」につきまして、絲は絹糸・生糸をさします。
もっとも絹糸だけ売るということは考えにくく、絹織物を売っている店ではと想像されます。

続いてその下に見えます看板、「綢緞布荘」と読めます。
綢緞は絹織物、布荘は木綿屋のことと考えられます。つまり絹も木綿も売っているお店と考えられます。
さて、これら二つの看板ですが、やや広角のレンズで撮影されていることから考えましても、同じ高さに見えます。またデザインも良く似ています。
すると「公興絲房」と「綢緞布荘」は一つの店の看板でしょうか。つまり「公興絲房」は「綢緞布荘」でございます、と説明し直していると解釈できます。

大主嶺の学校
公主嶺も、そのほかの満州国の都市と同様、都市が作られ、学校なども目覚しく整備されました。
その中のひとつにつきまして画像を紹介いたします。
画像は絵葉書で満州国から日本へ送付されたものです。
ちなみに、この写真、左側に門柱があります。これをクローズアップしますと、左の門柱には『公主嶺家政女学校』とあり、右側は『公主嶺尋常高等小学校』とあります。
つまり、建物か敷地を分け合って、学校が運営されていたようです。
しかし、実はこの絵葉書のキャプションは万年筆で修正がされていました。
それには『幼稚園』とあります。
このことから想像しますに、女学校も小学校も建物を新たに整備して引越をし、この建物はその後に幼稚園として使われたのではないでしょうか。
絵葉書を購買された方が日本へ送るにあたり、画像のキャプションを訂正したものと考えられます。

窓は、どうも鉄筋窓に見えます。
大きな煙突が三つ見え、暖房が完備しているものと思われます。
この建物は、さまざま活用され、都度、学生や学童らの活気に満ちていたものと想像します。


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