このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




満州写真館 上興発


                        
北満の極寒の土地、ハイラルとハルピンの間にあります札蘭屯駅から30キロも離れた野原の中の上興発に開拓団が入りました。
雑誌からのスキャンで、また元の頁の劣化もありましたが、画像は可能な限り見やすく修正を行っております。

上興発 地図
ハルピン(哈爾濱)から、さらに北へ進んだ場所です。最寄の駅から30キロも離れています。満州国の地図でも、ほぼ省略されている小さなエリアです。

では、開拓団の紹介記事から。
『大阪付近の開拓先遣隊が満州国に入植を完了した。
大陸帰農が唱えられた当時、世間では商業的な営利を求めていた人々が、一朝にして利潤の乏しい自給自足的な生活に入ることが果たして可能なりや否やという疑問を持ちそこに検討の余地があるように思われたものです。
事実、この開拓先遣隊を、以前の職業別に眺めてみますと
会社員4名、職工4名、商業3名、店員3名、自動車運転手3名、市電運転手3名、郵便局員2名、洋服商2名、農業2名、青年学生1名、共済組合員1名、守衛1名、運搬工1名、豆腐商1名、裁縫工1名、ハンドバック製造職1名、無職1名(計34四名)というよう様の経歴を持った人々の集まりで、これだけでも転業者の帰農が問題となったのは無理のない話であった。

しかし転業開拓団の素晴らしい農業経営の即席はこうした推理が単なる杞憂に過ぎなかったことを事実を持って証明しました。
大東亜の裏舞台、興安嶺の麓に立って、遠く故国に呼びかけて入植を待つ転業の戦士の活躍を上興発の書いた駆逐にたずねて見ましょう。』

上興発 『 今こそ 我等は 大地の戦士 』
『みはるかす大陸の沃野、うちつづくわれらの農園。いまぞ味わう父に生きる喜び。』
堆肥をまいているところでしょうか。真っ黒い土が広くまかれています。
単位面積あたりの生産量は、江戸時代に、既に欧州を越えて世界トップレベルであったとされます。それは堆肥を作る工夫にあり、いわゆる人肥の活用が大きな効果を挙げていました。
大豆粕は肥料に活用され、炭坑から得られる化学物質から硫安といった肥料の生産も行われていました。
これら農業技術が、満州に広く浸透していった様です。

上興発
『さあ建設だ。楽しい希望で重たい木材も軽々と肩に乗る。』
どうやら家を建設するのでしょうか。一連の写真では家屋がありません。
実際、農耕可能(井戸がでる)などは事前に調べたみたいですが、原野同然のところへ開拓団は放り込まれました。
なので日本からの道中、満州国民が耕す青々とした畑を見ながら希望に夢を膨らませつつ入植したものの、やはりご覧のとおり、ことごとく手作業でのゼロからのスタートで苦労を重ねたようです。

上興発 開墾風景
『打ち込むつるはし、すくうシャベル。もう誰にも負けない土の戦士だ。』
写真、足元を注意してご覧ください。石がごろごろしているのがお解かりいただけますでしょうか。
言うまでも無く、この土地が全く未開であること、またこのままでは鍬で耕すのも難しい状態といえます。
例えば大型トラクターなど機械化が出来る土地になるまでは相当な手間が要ります。
開拓に意気揚々と満州入りしたものの、直ぐに作物が出来るような土地でもなく、雑草の生えた全く未開の荒れ野であったというのは、当時の体験談にも多く出てきます。
測量増産という掛け声(国策)があったため、新しい畑を作る、というのが最優先であったことも背景にあります。

さて画像ですが、左側、台車の様なものが見え、トラックに石ころを載せているようです。

『トラックが砂利を運んできた。これで道路も立派に舗装されるのだ。』

大きさもばらばらな石ころを荷台から落としているところです。
唯一、トラックが機械であるいがいは、すべて手作業で行われています。

『まだ女手のない先遣隊だ。炊事も軍隊式の飯盒で。』
井戸ばたでしょう、バケツに汲んだ水で飯盒の米を研いでいるようです。
柵で囲まれています。
満州の平野は野生動物が多く勝手に水のみ場にされないように防いでいるのではと想像します。

こうした荒野の真ん中での開拓をしながらの生活には、娯楽はなかなかありませんでした。
そこで日本から慰問団が編成されていました。落語や漫談などの芸人さんが現地でトラックに載せてもらいながら開拓団を訪問、大変喜ばれたそうです。

ただ、こうした慰問団が匪賊に襲われた例があります。

匪賊とは集団を作って悪事を働いた盗賊(ゲリラ)のことで、満州国の前は、取り締りもない状態でした。
徒党を組んで、略奪を重ねた匪賊もあれば、飢饉の時に周辺の村を襲撃するという、その場しのぎ的な匪賊もありました。
さらに清の時代よりも古く、漢民族が満州国に入って遊牧民を僻地へ追いやり、この遊牧民が匪賊化した経緯もあります。
在満邦人が襲撃された資料がありました。それによると、匪賊は銃を持っていなかったらしく撃たれることは無かったものの、襲われた農村側も銃はなく、地元の農民と一緒になって婦人も皆、物陰から夜通し薪を投げ続け、やっと匪賊を追い払ったという話があります。
満州国設立後は激減、これは取り締まりの実施、さらに産業が発展、安定した生活が出来るようになったことが要因としてあげられます。
満州国設立後、それまで30万人を越えた匪賊は500以下になったとする資料もあります。

しかし、匪賊の被害は少なからずありました。
前述の開拓団へ向かう慰問団の中には匪賊に襲われたケースもありました。銃を持った匪賊が慰問団を襲撃した際に、慰問団の芸人達も銃を取って応戦、この銃撃戦で女性芸人が命を落としました。この亡くなった芸人は靖国に祀られています。公務、公に尽くして亡くなったことが祀られた理由で、彼女は浪曲化されレコードとして販売されました。


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