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満州写真館 奉天その4


                        
満州国設立と共に多くの宗教など様々の団体が満州へ慈善の活動を展開しています。
例えば、日本の海の玄関でもあり、大都市に成長した大連でも多くみられました。ここにはまず大連大慈園がありました。また慈善鍋で有名な救世軍は大連支部を置いて救済事業を展開。その他、大連保育院、託児所、大連聾唖(ろうあ)学校、児童養護機関、阿片中毒患者も収容した大連救療所があり、さらに大連智光院は無料宿泊所を設置していました。その他、貧困者や身障者への救済事業は満州に広く展開しています。

奉天施粥
さて、こちら奉天では奉天初代市長の土肥原賢二が各宗教団体に呼びかけ、これら協賛をうけて、食糧の無料配給と施粥(せじゅく/せしゅく、おかゆ類の炊き出し)を行っています。
その後、奉天は経済の発展をし、それに伴って、奉天盲人福祉協会など様々な団体も設立しています。他の満州の都市と同じく福祉は進みました。

さて画像ですが、救援物資が届いたところです。
道路は舗装されており、奉天市街地と思われますが、大きな建物は全く見えず、市街地の外れでしょうか。また路上に交通整理とおもわれます一名ほど銃を背負った人物が見えます。遠くで小さくしか写っておらず服装の様子はよく判りませんが、色が濃く、どうも日本兵ではない様に見えます。

配布風景です。
手に手に物資を受け取っている満州国民が見えます。
また持ち運びやすくパッケージされていることがわかります。

先ほどと同じ建物での入り口付近です。順番を待つ少年が中を覗き込んでいます。また物資を受け取った少女は家路を急ぐのでしょうか、ブレて写っています。
当時の服装がよく判る写真です。辮髪は清の時代が終わると共に廃れており、こちらの写真でも、一人も見当たりません(ただ、当HPの大連港の頁には辮髪の人物が見えますことから、全く廃れていたわけでもないのでしょう)。
むしろシルクハットに似た帽子が3名ほどおり、流行だったのでしょうか。また左から二番目の人物は中国風の帽子です。

(ちなみに一連の写真では、あまり満州の地元民には並んで順番を待つという習慣がなかったのでは、とも感じています/日本での大正時代、関東大震災で生き残った井戸に市民が水を汲みに集まっている写真を見たことがあるのですが、ぴったり行列ができており、こんなとき、つまり被災して焼け出されているときでもきっちり行列するというのが印象に残っています)。

こちらはまた別の場所で、集まっている人の整理を行っているところでしょう。画像、左上、かすれていて見難いのですが、奉天1で紹介いたしました奉天城小西邊門とそっくりな門がかろうじて写っております。同じ門だとすると、目抜き通りに配布所を設けたとも考えられます。

さて、服装につきまして、情報を頂戴しましたので紹介いたします。
右、背中を見せている2名は日本兵です。奉天ではありませんが、救援物資配布所へ匪賊が発砲した例があり、こうした場所では警戒が必要だったと思われます。また日本兵は腕章をしており「憲」の字と「M」が読めますので、憲兵、MP(ミリタリーポリス)とあるものと判断されます。英語を書いているというのは意外に思います(米軍のミリタリーポリスも腕章にMPとあり、さらにヘルメットにMPと書いてあります)。
さて、この憲兵はライフルなど銃が見えません。丸腰とも考えにくいのですが、左肩から肩紐が降りており、拳銃はもっていたものと推定されます。
一方で、黒っぽい服装で体をこちらへ向けている(顔はこちらから見て左を向いている/物資を手に持つ白っぽい少年の直ぐ横)人物ですが、服装は日本兵と異なり、大変黒っぽく写っています。同じ服装の人物は右手に何名か見えます。
これは中国兵と判断されます。制服のデザインは日本軍に似ており、これは蒋介石の軍服の特徴です。当時、多くの蒋介石の将兵が日本の陸軍士官学校に学んでおり、強い影響を受けていた為でもあります。また場所と時期から国府軍側の軍閥の兵士とも考えられます。
さらにこの兵士に注目しますと、画像が粗く不鮮明ではありますが、写真の小銃はドイツのモーゼルGew1888を中国でコピー生産しました「民国八八式小銃」ではないかとの事でした。
つまり清国以降にこの地域に居た軍閥が、そのままの服装と装備で、日本の物資の集積所にて警備に当たっている風景とも言うことが出来ます。
これら兵士は特に緊張感も無く、日本兵と共に警備を行っています。

ちなみに満州国軍の制服は、殆ど日本軍と同じです。帽章と鍬形の形が違う事と、肩章に違いがある程度です(ここには写っていません)。ちなみに満州国警察も拳銃とサーベルを所持する点で日本の当時の警官と同じです。
軍装で補足しますと、国民党軍や戦後の北朝鮮やベトナム国軍は、日本軍と良く似た制服となっています。

医療風景
さてこちらは奉天での病院風景です(病院名は不明)。
奉天では多くの病院が建てられました。これは満州国設立前からの流れで、広く民間に対し、医療を行ってきました。そうした実績から、早くも大正9年には奉天にあった日本赤十字病院看護婦長の湯浅うめ(※)がナイチンゲール賞を授与されています(この時、日本人ではあと2名、東京と広島で受賞しています)。

(※書籍によっては"湯浅梅子"あるいは"湯浅ウメ"と記載しているものがありますが、当HPでは「湯浅うめ」にて記載致しました。また湯浅うめですが、奉天日本赤十字病院の初代婦長と紹介している資料があります。つまり、奉天に赤十字病院が出来てまもなく評価がなされたとも考えられます)。

病室
窓の明かりが被写体に逆光となっており、さらに看護婦の服装の白に露光を合わせているため、患者は黒く写ってしまっており、また病室内の様子もよく判りませんが、清潔な病室といった印象をもちます。

こちらの画像は、満州国設立直後、奉天での赤十字の移動車両です。予防接種を出張にてあちこちで行ったと資料にあり、車両の導入により機動性のある医療が出来たものと思われます。

ハルピンで活躍されました日本赤十字看護婦につきましての記事は、当HPとリンクしております「鎮魂の旧大日本帝國陸海軍」の「日赤 従軍看護婦関連」にも、ハルピンほかで活躍されました看護婦の紹介がありますので、こちらにご案内いたします。

http://cb1100f-european.web.infoseek.co.jp/redcross_jilyugunkangofu.htm

予防注射風景です。
注射に泣き出す幼い子と笑いながらあやす父親、今日でもおなじみの平和な病院風景です。


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