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満州写真館 奉天その3


                        
工業都市、観光都市、学園都市としての奉天
奉天駅西側には日本人の工業地区である鉄西区があります。現在、この鉄西区の画像については画像を入手できておりません。
この鉄西ですが、いくつも立ち並んだ煙突から、もくもくと煙が立ち上る、活気のある地区でもありました。
この土地買収は時間をかけて進められました。大正時代から満鉄による買収が始まり、満州国になってからは奉天商工会議所、奉天工業会がさらに買収を進め、土地の確保と企業誘致を進めました(土地を買い上げれば、借り上げと違い、土地の地権者とのトラブルは避けることが可能です)。

結果、奉天は、満州の豊富な資源を生かした様々な工業が発展します。農産物加工も多くありました。
しかし、戦前図書には『この事業の目的も満州に最も適し経営者も士気を発揮すれば必ず成功し、国家のためにも有利であるはずである。しかし当局者には忠実を欠く者もおり、成功していない。堂々たる大会社がいたるところで日本人の恥をさらしている、』という手厳しい記述のある書籍あります。
戦前、満州国を取り上げた書籍は、満州という場所を生かし、良い国を作るのだという気運を広く紹介していました。同時に、一旗挙げるのだ、という山師的な企業家を叱る雰囲気もあったと考えます。
1935年には税率を下げ、商工の発展を促す政策がとられています。特にこのときは、それまでの税率が杜撰(ずさん)で不合理であるとして、個人営業税と法人営業税を低く見直しています。

鉄西を中心に奉天には様々な種類の工場が操業しました。
電機、製菓、製革、製剤、製粉、塗料、染物、自転車、ゴム製品、製壜、被服、石鹸、醸造(酒、醤油)がありました。

これら奉天の工業に着きまして名前が確認できましたものを紹介いたします(鉄西区以外のものも含まれます)。
まず軽工業から。
満州窯業、奉天窯業、浅野スレート、東洋木材、奉天醤油、満日亜麻紡績、満州明治製菓、東洋製粉、康徳染色、康徳ビール、満州毛織、東亜煙草、満州皮革。
重工業では、満州工業開発奉天精錬所、満州電線、満州住友金属、満州機器(電気機器メーカー)、協和工業、満州日立製作所、満州鉄鋼、満州進和紹介、満州通信機、満州飛行機製造、満州計器、満州工作機械、東洋タイヤ、同和自動車工業、満州工廠、満集積種帰化工業所、満州火薬、日本ペイント、満州光学、満州藤倉工業があります。
また満鉄農業試験所の農業改革と共に砂糖の自給を目指した満州の政策に伴い、奉天には砂糖工場が設立され、甜菜(てんさい)大根からの精製や氷砂糖などの生産を行い、念願の自給を果たし、ついには輸出に転じます。
清酒工場も進出、満州に広まった稲作から得る米を用いた、満州ブランドの日本酒も生産され、それは国内に負けない品質であったそうです(特に日本酒を内地から買うと関税がかかるので、満州産日本酒は価格的にも有利であったとか)。
また、奉天の紡績染物は満州でも突出した生産量を誇っていました。

画像は、再度、奉天駅です。奉天駅前広場の反対側、奉天駅舎の後ろ側にかすかに建物群が見えます。ここが鉄西区です。
鉄西区は、市街地同様、区画整理がなされ、ロータリーもありました。

さて、奉天工業地帯の中心であった鉄西は、大きく発展した工業地帯ですが、当HPの満州写真館準備に当たりまして、この鉄西区の絵葉書は見かけておらず収集できておりません。鋭意、捜索中です。
もしかすると鉄西の絵葉書は少ないのではないでしょうか。
観光向けなどは、その土地ならではのものが素材になります。例えば、鹿児島の絵葉書であれば櫻島、駅、繁華街(天文館)が題材となっています。そして、鹿児島ならではの物産、櫻島大根も絵葉書の題材になります。勿論、工場は鹿児島にも沢山ありますが、鹿児島に行かなくてもどこにでも工場はありますので、鹿児島がテーマの絵葉書に工場は必ずしも登場しません。
鉄西区に工場を建てた記念に絵葉書を出している例はありますので、鋭意捜索中です。

学園都市としての奉天
奉天は、その他の満州の都市と同じ様に、学校が多く建てられました。
春日小学校など多数の小学校、鍋山女専、春日女学校、浪速高等女学校、大和高女、奉天学校、奉天農業大学、奉天工業大学、満州医科大、満州医大付属看護婦養成所がありました。
画像は奉天全満の大学の一部です。大規模な建物であることが判ります。

当HPの満州写真館、奉天その1の最終から二番目の建物が、この右側の建物と思われます。

同じ建物郡を右側から撮影している様です。
建物の前に広い道路があるのがわかります。

同じく満州日支共同の大学である医科大学です。
推定ですが、先の二つの写真の反対側から建物を捉えた写真ではないかと思われます。

農業大学奉天
これも大きな建物が並んでいます。
農業国であった満州国では農業大学は重宝したものと思われます。
ここで、開墾から土壌改良、乾燥や痩せた土地に強い作物についてなど、農業の論文が数多く作成されていました(これらの一部を、今日でも収蔵している日本の大学があるそうです)。

市街地
では、奉天その2に続きまして奉天市街地の風景を少々。
珍しく建築ラッシュを捉えたものです。
画面左は、建物の基礎が見えます。また、右側にはテニスコートが見えます。

同じく建築ラッシュ中の奉天市街地です。
右上の方へ建物郡が見えますが、いずれも日本家屋はみられず、いわゆる文化住宅です。右側下の空き地に集められているのは建築資材と思われます。

これら一連の写真を見て関心しますのは、舗装された道路です。
両側に溝をもった、凸凹も轍もない道路が整備されています。
東京では、戦後、東京オリンピックが開催された時、海外の視察団が道路の舗装率の低さを指摘したという話があります。確かに昭和30年代頃まで、新聞連載漫画のサザエさんにも車が泥はねをするネタがいくつもありました。
この写真の印象だけですが、どうも日本の首都東京よりも道路事情は良い様に思います。

奉天の給水塔です。奉天には複数の給水塔があり、建物郡の間から突出して見え、市街地の遠くからでも見えました。奉天駅からの撮影で、やはり給水塔が写っているものがあります。
これら給水塔の内、今日も残っているものは現役で使用されているとの資料があります。

奉天市街地の一部
公園そばの真四角の建物です。なにかのビジネス用のビルでしょうか。

奉天市街地に新たに作られた千代田公園内部です。
睡蓮が花咲いていたようです。

左側人物をクローズアップ、当時の服装を見てみます。
大柄の男性郡は、いずれも学生では、と推定します。
左端とこちらを向いている眼鏡の人物は学生服、その右の3名は袴で、いずれも学生帽を被っています。戦前、そして戦後しばらく、帽子は当たり前に被られていました。
手前に和装の女性、子供が見えます。
乳母車は金属製で、軽くて丈夫そうに見えます。この乳母車に寄りかかっている幼児は、エプロンで、これは古いサザエさんのワカメもこの服装でしたので、戦前から戦後にかけて定着していたのでしょう。

奉天は工業都市として発展をし、経済も活況を呈していました。一大消費都市でもあったわけです。多くのデパートもありました。そして多くの観光客が訪れ、たくさんのホテルや民宿が営業していました。

一方で、奉天は市街地を一歩離れると、農村地帯でした。水も得られたため、水稲も広く栽培されていました。
こちらは.奉天市街地で、「遼陽の楠山」とキャプションにあります。
なだらかな丘陵地帯に、綺麗に整った畝が作られています。


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