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満州写真館 満州の産業その1


                        
一望千里の春
こちらの頁では、満州の産業をクローズアップしてみます。

では、まず最初に農業から。

満州国が設立した当初、満州全土の四分の一は耕作の可能な土地でありながら、まだその半分くらいしか耕作されていませんでした。
満州国設立後、農業の発展は国策として展開され、飛躍的な発展を遂げます。また当時、日本の食糧問題解決の主要な役割も期待されていました。
農産物としては大豆についで高粱、粟が挙げられ、その他、陸稲、綿花など、多くの作物賀栽培されていました。
満州は、全土で日本に比べて少雨で、特に北部は少なく、そのため北部では南部ほどに農業は発展していませんでしたが、広く平らな土地であることから、満州国設立後、大規模農場がいくつも出来ており、今日も続く農業の基礎が作られました。

北部満州は、大豆、粟、高粱、小麦の順で生産量が多く、中でも大豆は突出した生産量を誇っていました。
一方で、南部に行くほど、作付けは高粱が増えます。南満州では高粱が最も多く、大豆や粟がそれに続く割合です。

画像は「一望千里の春」とキャプションにあり、春先にいよいよ畝作りを始めたところです。
地平線まで遮るもののない風景、そして耕されたばかりの肥沃そうな黒々とした土がみえます。

粟(あわ)
粟は大豆、高粱と並んで満州農産の主幹で、満州全土で栽培されていた、粟は満州全土での常用食です。
画像は金州での撮影(大連の近く)で、『高粱とならぶ主要食物』とキャプションにあります。

収穫
粟などの穀物の場合、脱穀は、収穫した粟の穂を叩き、粟の実を外して行われます。また、おおむね、回転する棒の付いた、長い棒を使っていました(連枷/れいしゃ)。
長い棒の先の棒をくるくる回し、せっせと穂をたたいていくもので、日本でも用いられました。

もうひとつ、収穫された穀類の穂から実りを取る方法として、こちらの画像の方法があります。穂を踏みつけながら、ローラーを引き回して押し、こうして強く叩くことで、穂から実を分離します。
こうした家畜を用いての作業は、広く世界で行われており、今日でも機械を導入していないアフリカの農家での収穫で行われており、TVでも紹介されていました。
ただ日本では、昔からあまり、家畜が踏んでの収穫風景というのは見たことがありません。
これにつきまして満州などと違い、乾燥していない環境であることが挙げられます。また日本では土地が狭く、実りは全て無駄なく収穫したいと考えるでしょうから、家畜が踏んだり曳いたりするという、どうしても雑になる作業は好まれなかったのではないでしょうか。さらに実りを踏みつけるというのが日本の感覚では馴染まないのかもしれません。
日本では江戸時代の農具を見ても、木製ながら様々道具が開発されており、これらは人力で操作されていました。また家畜の力を用いたものはあまり多くなかったように思います。
これについて想像しますに、日本ではさほど家畜が多くなかったことが挙げられます。例えば畑の畝を作るため鋤を引くときや、荷車を引くなどの大きな力が必要になる以外で家畜の使用頻度は、満州などに比べて低かったと考えます。

満州の果樹園林檎
満州国設立後、果樹栽培が盛んになりました。
これは、満鉄農事試験場の積極的導入がきっかけとなり、林檎をはじめとする果実の一大産地となっています。

林檎
満州で収穫されました林檎です。
キャプションには
『年々産額増す近代満州名物、冬の寒い日、ペーチカ団欒で味わう冷たいりんごの味は格別』
とあります。

、手前に物差しを置いて大きさが判るよいうにしてあります。
左上、二つに割って実を見せてあり、これを見る限り、我々が知る林檎より、やや縦長に見えます。
もしかすると、日本で一般的な林檎とは種類が異なるかもしれません。

かつて大連に住んでおられた方が、満州は大連の林檎を懐かしんでおられたと伺いました。
日本の林檎は真っ赤になる様、手間隙をかけますし、またかつて林檎はもっと酸味が強かったと聞いたことがあります。このことからすると、かつての満州の林檎の味を日本で探すのは、むつかしいかもしれません。

原田農園、葡萄畑の景
満州南部では果物の種類も多く栽培されていました。
こちらは金州の日本人農家での葡萄の収穫風景です。まるでイタリアを思わせる風景です。画像は着色絵葉書で、葡萄が妙にくっきり紫色になっています。

キャベツ
別頁でも紹介いたしました農事試験場による新しい農業の試みは、広く満州に定着して行ったようです。
キャプションには
『農事試験場での新しい作物の導入により、農作物は年々盛んになっていく。それらの農産物広い地帯で産されているのである。』
とあります。

サクサン(柞蚕)
クヌギ、柏、楢の類の着の新しい葉に放育する山繭のことです。
蚕とおなじく芋虫ですが、サクサンは特に色青く醜悪です。また通常の蚕の三倍大きさがあります。かつてこの糸は製糸方法が稚拙であったために三分の一がくず糸となり、非常に安価に取引されていました。
この柞蚕は満鉄中央試験所の研究実験により、漂白して生糸同様と出来たことから商品価値が高まり、飼育が流行りました。

得られた糸の染色法も進み、日本へも輸出されるようになりました。
満州サクサン糸はほとんどが日本へ輸出され生糸に混ぜ、あるいは絹と併せて布として製品となります。
これは、さらに満州や当時の中国へ輸出されます。満州へ旅行に行ってお土産として布製品を買ってみたら日本製だったということもよくあったそうです。

飼育中のサクサン
写真は柏の木に飼育されているところです。マユがぶら下がっていますが、サクサンそのものは写真には写っていないようです。

ずんぐりとした芋虫であるサクサンは見た目の悪い虫ですが、蚕とちがって雨風にも堪えられます。日本で飼われる蚕は室内でのみ飼育可能であることとは対象的です。

画像をご覧になればおわかりの通り、飼育といっても、日本の蚕と比べると、放育といっていい印象があります。

サクサンは孵化したての時、すぐに林間に放って飼育されます。が、飼育といっても露天の山間のため、風雨にうたれ、鳥に食べられてしまい、繭となるのは三分の一だけです。
飼うというより、ほぼほったらかしですが、商品価値が上がるにつれ、鳥を追い払う為に空砲を鳴らすなどして農家も努力を始め、安定した生産が得られると共に、農家の副業としてもてはやされました。

高粱(コーリャン)
高粱は、日本で栽培されることはごく稀ですが、寒暖に強く、痩せた土地でも育つ、便利な作物です。満州北部の寒く痩せた地域に至るまで広く栽培されていました。

高粱はいわゆる「モロコシ」の事で、イネ科の植物です。中国での穀物は「コーリャン」と呼ばれます。
ここでは高粱と記載いたします。

以下、ウィッキペディアから。
『イネ科の一年草の植物・穀物。熱帯アフリカ原産。熱帯、亜熱帯の作物で乾燥に強く、米、コムギなどが育たない地域でも成長する。主要な栽培食物のひとつであり、穀物としての生産面積では世界第5位である。日本で栽培されているものの大半は飼料として用いられている。
現代の中国名は高粱(こうりゃん、カオリャン)で、白酒(パイチュウ、中国酒の一種である蒸留酒)の原料ともされる。
草丈は、野生種でおおむね3メートルに達するが、栽培用品種では1.5メートル程度のものが多い。葉も長さ1メートル以上で幅10センチメートル程度になり、茎は太さ3センチメートル程度で芯の詰まったものとなっている。
夏になると茎の先端に穂が出る。一つの穂で3000程の小さな穂を付ける。なお、実の千粒重は25グラム程度。その色は紫や赤に近い。』
さて、画像の高粱畑は、後ろに熊岳城の目印である望児山が見えます。
高粱は、農民よりも背が高く、かなり密集して植えられています。これはカラー写真ではなく手彩色と思われ、高粱の先端の穂先は濃い紫で塗られています。

高粱の刈り取り
高粱は満州に限らず広く中国では食用でした(いわゆるコーリャン飯)。ただ高粱を常食とする資料がある一方で、主食としては人気が無い、こればかり食べているわけではないとする資料もありました。常食とはいえ、これだけが主食ではないのでしょう。
食用としては在満邦人の体験記として、路上販売で粉に挽いた高粱を焼いたもの(クレープ状のもの)を食べたという話はあります。
満州国当時、特に在満邦人ではこれを炊いてご飯代わりに食べられることはありませんでした。満州国崩壊後、緊急に手配した食料で高粱を食べたと言う話はよくありますが、ぽそぽそ、ぱらぱらとして食べにくいものだったそうです。
画像は高粱の刈り取り風景で、高粱の背の高さがよく判ります。

高粱刈り取り
今日、高粱はかつての満州国時代ほどは生産されていない様です。
また今日では、お酒の原料と飼料での利用が主です。
一方、満州国時代から特にお酒の原料や飼料への利用が多くありました。
これは日本人の口にも合うのか、満州におられた方が常飲していたというお話を伺いました。ただ、アルコール度数が高く、すぐ千鳥足になったそうです。

さて中国では今日も高粱を畑で作りますが。やはりお酒の材料か家畜の飼料で、まず中国でも食べていないそうです。
先日も、中国を旅行し、高粱を粉に挽いて麺にしたものを見かけたというブログがありました。しかしこれらは主に観光客向けで、地元の人は食べていないとのことです。
世界中で今日も栽培されている高粱ですが、やはり食用にしているところは現在ではなくなっている様です。

高粱をたたく
キャプションから
『満州人の常食は高粱である。秋ともなれば日差しを浴びてにこやかに高粱をたたく。こうして冬の食料が蓄えられる。そして茎や葉は冬を越すための燃料となるであろう。今日も男はひねもす高粱を敲く。
高粱の種子は食用に用いられるほか高粱酒に、または飼料に供せられる。またその幹は建築材料に(※)、更には燃料にと、用途がすこぶるおおい。』
※屋根を葺く材料となります。高粱は、実に便利な作物であることが判ります。

高粱の脱穀
高粱の脱穀風景です。
左側には多量に実が集められ、右側には穂が積まれています。
左奥に二つ見える円筒状のものは不明ですが、収穫物を集めておくものと思われます。

満州の農民
高粱畑、農民、そしてはるか遠くに遼陽の白塔が見えます。
高粱は、満州を象徴する作物でした。
満州国建国に功労のあった者へ授与された『大満洲國建國功労章』は、リボンが満州国の象徴の色、(満・漢・蒙・日・朝の「5族共和」を表す赤・青・白・黒・黄の5色でつくられ、そしてメダルは高粱が彫られていました。

大豆
続きまして大豆を。
広々と見渡す限り、大豆畑が広がっています。

大豆の収穫
続いて収穫風景から。
馬に小さなローラーを牽かせ、殻を砕いて実を落としてるところです。

風選
続いて、風選の風景です。
大豆を、砕いた殻ごと空中へ放り上げて、風で選別しています。豆は下に落ち、殻や葉などは風で飛ばされるわけです。
満州特有の収穫風景です。

大豆の集積
さて大豆は大豆油と豆粕という、満州の農産物の輸出の主幹です。

満州国設立後、新たに開墾された農地では大豆が多く栽培され、これは工業原料でも活用されました。そして大豆は満鉄農事試験所の品種改良と無料配布で大増産となり、世界の六〜七割を占めるほどの生産量となりました。
一方で、高粱は畜産資料など様々に利用される価値の高い作物です。
つまり利用価値の高い作物の割合が多いことになります。
また大豆は大連など南端から輸出されます。つまり主要な生産地と輸出されるところが、それぞれ満州国の北と南に離れていることになります。
これは南北を繋げる交通網が貢献していると考えられます。
鉄道をはじめとする交通網を造ることで国が発展するという思想の元、国作りがなされた満州ですが、北部満州の大量の大豆の生産は、その成功例のひとつと言っていいかと思います。

農事試験場でも紹介いたしましたが、大豆は満鉄資本により品種改良が進み、これの希望者への配布により、作付け面積も拡大、収益も拡大、そして発展した交通鉄道により油工場へ送られ、そして輸出されました。
さて画像ですが、集積された大豆置き場です。地方の小さな駅の前に集められた大豆の山です。
まるで、かやぶきの家の様な、貯穀場です。

鉄嶺の野積
改めましてて、集められた大豆を見てみます。
こちらは鉄嶺での撮影ですが、満州の主要な駅の貨物エリアにはこうして大豆が積み上げられました。
こちらは積み上げた袋に右上のように布をかけて、テントの様な形になっています。
新京や奉天他、様々な場所で、こうした山積みの大豆がみられました。

大豆袋の集積
円筒状に積み上げた満州ならではの大豆の集積は特に印象が大きいのか、多くの写真が残っています。
いくつかを紹介してまいります。

さて満州国の統計で、大豆の用途を示したものがありましたので紹介いたします。
大豆生産が3千5百万石(※)であったとき、地方で消費されたのが6百万石(食用にされたものと思われます)、大豆油として絞られたのが1千万石。約1千8百万石が大豆のまま輸出されたとあります。
後々、大豆油はマーガリンの材料として注目され、遠く欧州(イタリアなど)に大量に輸出され、油を取る大豆の量はさらに増えたものと思われます。

※:1石は、体積の単位で、100升にあたります。
1升=約1.8039リットルですので、1石は約180.39リットルということになります。

大豆袋の集積
同じく集積された大豆です(撮影場所は不明です)。
人の高さと比べても、積み上げられた大豆の量の多さがわかります。

開原に集められた大豆
開原に集められた大豆です。
開原は奉天市の北、90キロにある農業の町で、穀物の集積所で、ここの駅から鉄道で運ばれます。開原は、農業の発展と共に、経済発展をしました。
この他、ここ開原には日本酒の醸造所、製紙工場、さらに何故か紙幣工場があったという資料があります(造幣局は、必ずしも都市部につくられるものではなかったんですね)。
右上の方では足場を組んで収穫の袋が積み上げられています。袋を積み上げてから、帯状のムシロを巻いて円筒状にしていることがわかります。

満州貯穀場絵葉書
撮影場所は不明ですが、こちらも積み上げられた大豆です。
周囲を巻く帯状のムシロも見えます。
左から二番目(奥側)は四角いムシロをぶら下げた形になっています。
屋根も丁寧に作られています。

水圧式の油坊
満州名物の油を絞る工場の内部です。
油坊とは油屋さんのことです。
油坊は、日本語としては使われていない言葉ですが、中国語の辞典によれば、自分のところで油を搾って自分で売る、小規模な油屋をさしていることがわかります。
都会ではそういう小さい店はなくなってしまったことからも言葉としてはあまり馴染みがありません。

さて、こうした油は主に大連から広く輸出されました。前述の通り、豆油は欧州へ輸出され、人造バター(マーガリン)の他、サラダ油、ペンキ、石鹸の材料として利用されました。

豆粕の船積み
大連の埠頭における豆粕の積み出し風景で、大連の引込み線に繋がる倉庫から、船へ積み込まれるところです。
豆粕とは大豆を圧搾して豆油をとった後に残る、搾りかすです。
満州全土の豆粕は当時のお金で一億円以上の生産にもなりました。

豆粕は主に大連から輸出され、約三千二百万枚の豆粕のうち、八割が日本向けです。

さて、こうして物流が盛んになると、次々と新しい商売が生まれ、産業は活発になります。
かつての満鉄社員が、港で運搬される穀物が零れるのを看て、即日会社を辞めて港内の清掃会社を設立、清掃と称して零れた穀物を回収して飼料とし、内地に輸出したという事例を御所解いただきました。大いに成功されたそうです。大連、満州がビジネスチャンスにあふれていたとも言えます。

船出を待つ豆粕
大連の倉庫に山と詰まれた豆粕です。
満州全土の豆粕は当時のお金で一億円以上の生産にもなりました。
ほぼ、日本へ輸出されて肥料に用いられました。腐葉土と同じく豆粕を土と共に腐敗させて肥料とするもので、いわゆる有機肥料です。
豆粕は主に大連から輸出され、約三千二百万枚の豆粕のうち、八割が日本向けです。豆粕は主に肥料に使われましたが、そのほか、乾燥させて家畜飼料として活用したものがあります。これは欧州へも輸出されました。

この他、珍しい使用法として、豆粕を原料として味の素の製造に成功したとする資料があります。この原料で量産をしたかは不明ですが、農業の発展は農産物のニーズに支えられ、またそのニーズは科学技術の発展と共にあったといういい例だと考えます(ちなみに当時の味の素の原料は小麦です/参考まで、味の素は関東大震災の際に製品の原材料である小麦を救援物資として無償放出し、大勢の被災民を救っています/参考まで、今日の味の素の原料はサトウキビです)。

では、次に、酪農など、他の産業を見て参ります。


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