| 奉天は歴史ある街でもありますことから観光都市でもありました。
特に各種の満州国の駅にはジャパンツーリストビューローの支店があり、邦人の旅行に貢献しました。
こちら奉天には駅前に支店があるほか、城内の四平街にも出張所を設けていました。
奉天は古くからの中国文化の雰囲気を持つ街ですので、市街地そのものが、まず観光の対象となっています。
満州の代表的な都市では、旅行者向けのバスツアーを準備していました。
ここ奉天にもそのツアーはあり、駅前を出発、まず市街地をぐるりと一周し、それから人気のあった観光地である北陵、あるいは東陵へコースをとっていました。
このバスツアーは奉天市街地へもどっての終着が百貨店のものもありました。こうしたお土産購入がコースに入っているのは今日と変わらないようです。 |
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| 奉天が南満州の都として開かれたのは清朝時代です。
奉天、吉林、黒龍江三省とし、その総督所在地をここに定めてから、軍政の中心となりました。
奉天は満鉄本線沿線のうちもっとも枢要な位置にありました。
満州国設立からも主要な線路である安奉線、奉山線、奉吉線は、いずれもここを通っています。 |
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| 北陵は清の太宗・文皇帝とその妃を祭っています。
正式名は昭陵で、奉天市街地から西北の方向、約6キロのところにあります。
1651年完成。清朝の時代に立てられました。周囲8キロにも及ぶ大きなものです。
ここには見事な彫刻品や壮麗な建物が並び、清王朝当時の豪勢振りを忍ばせます。
画像も右側に馬や駱駝(らくだ)、象、獅子の大きな石造、が並べられています。これらは画面左側にもありました。 |
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| 北陵は、かつて支那(当時の中国)の軍閥が駐屯していた場所でもありました。
満州国設立以前に満州方面へ修学旅行に行った当時の中学生の作文に、奉天北陵内にのんびりと駐屯している兵士達を見かけた記述があります。また奉天には当時の最新鋭であったフランス製ルノー戦車も多数配備、さらに飛行場も設営して輸入した戦闘機を配置しているなど、当時の軍閥の装備は日本軍を上回っていました。
奉天の清朝時代の三大史跡は城内の故宮、北陵、東陵とあります。
北および東陵は、満州でも最大級の規模のものです。規模の大きさ、そして優美さから、清朝の盛時がうかがえます。
満州国設立後も、人気の観光スポットでした。 |
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| 左右に石造を配置した荘厳な門に続いて、さらに奥に門が見えます。この門をはじめ建物は黄金色の瓦、朱色の壁と、豪華な色彩でも合ったようです。
『きらびやかな古の栄華を偲ばせるに足る北陵は蒼く茂る松樹の陰に優美に残っている。』 |
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先ほどの門に近づいてみます。
細かな意匠をこらした門であることが判ります。
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| さらに右側のレリーフを見ています。
左下の人物と比較してもとても大きく、そして大胆勝細かなレリーフであることがわかります。
奉天北陵を訪問した人の手記を記します。
「華麗な聖域北陵へ、奉天より自動車を駆って美観を聞いていた北陵を拝観した。
清朝第二代太宗文皇帝とその皇后を合葬した御陵で丹壁碧瓦に金色緑釉を配した華麗な幾多の楼門殿閣が晴れた日の秋陽を受けてきらきらと輝いている様は、全く言語に絶した美観で、日本の簡素な古い寺院とはまた違った、満州古建築の美しさにはじめて興味を呼び起こされたような気がした。」 |
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| 『松林の間に黄金色の瓦を配した三層の大朱楼で、当時の文化の精髄を凝らした燦然たる一大芸術人であり、帝業を偲ばしめる歴史の遺跡である。』
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| 中庭部分です。
画面上側、左側の建物の屋根にはずらりと動物の置物があります。
瓦、そして柱ひとつひとつにも意匠がほどこされた贅沢なつくりであることがわかります。 |
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| チャイナドレス風の女性二人です。
満州観光キャンペーンの写真で、この他、和服の女性と一緒に写っているものもあります。 |
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| 彩色写真です。
色は印刷の際に任意に選ばれるため、現物と同じ色とは限りませんが、
一応は参考にしているものと思われます。
ご覧の通り真っ赤な建物で、如何にも満州風です。 |
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| 東陵は清の太祖・高皇帝とその妃を祭っています。
正式名は福陵で、奉天市街地から東12キロ、運河の右岸にあります。ここも北陵と同じく、満州には珍しい松林が広がっています。
東陵は1626年完成、規模や建物の配置は、ほぼ北陵と同じです。
東陵は壮大さも、建て方も北陵と良く似ております(東陵を北陵と誤って紹介している書籍があるくらい、似ています)が、北陵よりも豊かな松林に囲まれていました。
画像でも松の巨木が多く写っています。 |
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| 一寸、大きさがわからなくなるくらいの大きな門ですが、門の下、階段の大きさからかろうじて大きさが想像できます。
画面中央右に赤くスタンプがあり、奉天駅と読めます。観光客が旅の記念に購入した絵葉書なのだな、と想像しています。
正面に松の巨木が見えます。右上から垂れ下がっている木も松です。
松は日本から朝鮮半島にかけて多く生えますが、満州では少ない一方で、何故か北陵、そして東陵では立派な松が生えています。
さて実は東陵の画像は、入手が困難です。戦前の書籍や写真集でも不思議と東陵は省かれており、また絵葉書で探しても見つかりにくいものです。
当時の観光バス路線を調べましても北陵と同じく東陵のコースもありますので、同じく観光地としてのニーズはあったと思いますので、これは不思議なことです。
もしかすると東陵は北陵ほど訪問者が多くなかったのかもしれません。
想像しますに、北陵より奉天市街地より遠いことが挙げられます。
東陵へ、延々と高粱畑を横切って行くよりは(高粱畑は、旅行者には珍しいにせよ、ずっと続けば飽きるでしょうし)すこしでも近い北陵の方が訪問しやすかったのではないでしょうか。その結果、絵葉書や書籍での紹介が北陵に集中しやすかったのでは、と想像します。 |
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| こちらも東陵で、石畳の外廊です。
東陵の写真はまだあまり入手できておらず、簡単に比較はできませんが、印象としまして東陵は木が多く、また建物は良く似ているものの、先の隆恩紅門以外は、東陵のほうが小さめに見えてしまう感じを受けます。 |
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| さて、満州国から時間と場所を大きく変えまして、こちらの画像は大正時代の日本の東京、上野は不忍池のそばです。
ここで第一世界大戦が終了したのに伴い、平和記念東京博覧会が開催されました。
上野の第一会場、そして不忍池の周辺を第二会場とした広い博覧会場に様々なパビリオンが建てられ、大盛況でした。
それらパビリオンは現在の博覧会と同じく、様々なテーマで造られており、その中に満豪館として大陸をテーマにしたものがありました。
そして、その建物は北陵を模したものでした。
画像がその満豪館ですが、色については着色絵葉書ですので、実際の色を反映しているとは限りません。しかし派手な色あいであり、北陵の印象が如何に大きいものであったかが伺えます。ちなみに、手前の水面は不忍池です。
実は当時の新聞に、この派手な色合いに興が失せるとクレームをつけた記事が載っていたことがあります。当時の文化人だったらしいのですが、建物のモデルとなった北陵の絢爛さを知らない為の発言と思われます。 |
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