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満州写真館 新京その2


                        
国務院
ではここで、新京の町並みを見ながら、満州国をおさらいします。

満州は古くから満州旗人、蒙古人、近代になって漢人、北方からはロシア人、半島からの朝鮮人らが移り住み、まさに人種の坩堝でした。
そして馬賊、匪賊の暗黒地帯とも言われていました。同じ地続きでありながら、中国へ進出していたアメリカも、そして中国人たちからも、裏庭扱いでした。
満州国設立後、満州国は一大飛躍を遂げます。
昭和16年には大連六十万人、ハルピン五十五万人、新京四十五万人、撫順二十五万人、安東二十三万人、鞍山二十万人、営口十七万、吉林十四万人、チチハル十一万人、という多くの人々が集まる都市がいくつも繁栄しました。

さて、当時の満州国を紹介する書籍から、満州国の紹介の部分を引用します。

『満州国と言えば、果てしない荒野と禿山ばかりの土地だと思い込んでいる人もあるが満州国の東の半分はほとんと山脈地帯で、昼間でもなお暗い森林がある。
山脈はおもに北東から南西に走り、国境線を形成。半島との国境にある白頭山の海抜二千七百メートルを除けば、千メートル以上の高山は少ない。
植物の種類は、北海道、樺太と緯度が近いからか、共通なものが多い。
たんぽぽ、れんげなんども咲いている。
これらの山野には虎、熊、狼、山猫、猪、鹿、鼠、兎が多数すんでおり、狩猟家にとって天国である。』

動物のうち、狼は満州全土に出没、特にえさの乏しい冬場には人を襲うこともありました。

満州国はおおむね、以下を国策の基本としていました。
・悪い軍閥や官使の腐敗を廃し東洋古来の王道主義による民族協和の理想郷を作り上げることを建国の精神とし、資源の開発が一部の階級に独占される弊を除き、多くの人々が餘慶をうけられるようにする。
・門戸開放、機会均等の精神で広く世界に資本をもとめ、諸国の技術経験を適切有効に利用する。
・自給自足を目指す。
これらを元に、国策が具体化していきます。

引き続き、満州国の紹介を引用します。
『満州国建設に伴う産業開発五カ年計画は修正後、四十八億円の資金増額をうけ、鉄、石炭、電力、液体燃料、自動車、飛行機などの生産に重点が置かれた。
日露戦争前、ロシアの満州経営が軍事的に終始していたのに対し、満鉄は満州の文化経済的開発をその使命として、努力してきた。
満州大豆を世界的商品として欧米の市場に篭城させて世界第一位まで飛躍せしめたのもその一例である。
さらに平均時速八十三キロの流線型国際超特急あじあを運転、この東洋一を誇るこの列車は満鉄経営の鉄道工場にて満州国産の材料と日本人技師の手で製作されたことも深く記憶されなければならない(一部を日本国内の川崎車両で生産した他は、大連近くの沙河口にて生産されました)。
昭和十年にソ連から買い取った北鉄や満州国建築後、新たに敷設した路線を加えて、満鉄で経営される鉄道は昭和十四年には一万メートルを越えた。
この他、松花江、黒龍江などの河川交通や、延長二万五千メートルに及ぶバス路線。国内には満州航空輸送会社によって航空路が網のように張り廻らされた。そして支那(当時の中華民国)の中華航空会社と共同で満州の主要都市から東京、天津、北京への定期航空路設立と相成った。』

これら国策については日満の協力にて行われたものが多くあります。

先ほどと同じ国務院で、先ほどの左端に見えていた柳の左側に回りこんでの撮影です。撮影時期もほぼ同じでは、と思われます。

引き続き、満州国の紹介を引用します。
『満州国土は日本の二倍ながら人口はその三分の一。一方粁(キロメートル)の人口密度は日本の百八十一人に対し、満州国は二十七人、満州国の総人口三千九百余万人の内、満州族は推定百八十万人、蒙古族七十万人は全体の七分を占めるにすぎない。』ここ百年内外には漢人が移住し、全人口の八割五分の三千百万人になる。
日本人約八十万、半島人百万人。当初、日本の拓士が成功するかは疑問とされたが開拓民の成績は良好で将来有望とされた。』

※:昭和16年時の資料ですが、もともと土着の民族であった、いわゆる満州族(かつての女真族)の人達は1割に満たない数でした。これは既に清の時代からだったようです。
一方で、半島人とあるのは朝鮮半島からの移住で、これは日本の移住より多かったことがわかります。
特に北方、満州里付近では多く進出しており、複数の言葉で書いてある商店の看板に日本語はなく、ハングルはある、ということもありました。
この他、ロシア人もおりますが、ロシア人については、別途「白系ロシア人」にて紹介いたします。

康徳会館の壮観
実に大きな建物です。
これは食事や宿、郵便電信のサービスをする場所で、ビジネスマンの利便を図ったものといえます。満州に進出してきた工場や企業の事務所もおかれていました。
ここの地下には人気のある食堂がありました。これの店の名前が「味覚」だったとする資料があります。食堂の看板に"味処"と書くことはあっても、店の名前が味覚とは、あまり日本人的な感覚ではなく、現地の満州国民が日本人向けにつけた名前では、と想像しています。

では、満州国の紹介を続けます。
続いて、住んでいる人達について。
『満州はウラルアルタイ語族に属する満州族蒙古族の原住地であり、古くから民族興亡の歴史が繰り返された。かつて日本が奈良時代であった頃、ここには渤海国があり、遼、金、元、清の諸国も、すべて満州地方から興ったものである。』

おおむね、かつてこの地にいた女真族は後の満州族であり、また満州族は清の頃から進出してきた漢民族におされて少数民族となった様です。
この満州族ですが、戦前図書では、満州国にもともと住んでいる国民、つまり地元民を満州族と書いているものと考えられるものが多くあります(様は漢民族)。また地元民の町並みを満州人街と呼んでいます。
一方で、漢民族が移り住む前にこの地に居た満州民族は満州語を持っていましたが、これは廃れてしまっています。満州国設立時に、既に満州のお役人にも満州語は使えなかったそうです。また西暦2000年頃、満州語を話せる方が亡くなったのを最後に完全に廃れてしまいました。一部、日本の大学で語学として満州語を体系化した例がある以外は、消滅した言語といえます。

満州帝国文教部及び国都建設局
文教部とは、いわゆる文部省です。
第一庁舎とする資料もあり、もしかすると建設当初はそうした機能の建物であったか、とも考えています。
では引き続き満州国について記します。

『満州国は資源に恵まれた国土である。鉄鋼石炭、石油は撫順のオイルシェールの製油や石炭液化工場で盛ん、さらに砂金もあり、鉛、銅、マンガン、アルミニウムが掘り出されている』


『満州は農業に適する気象である。満州は空気が乾燥しており雨や雪が少なく、大連は年に百十四日の晴天(東京は五十七日)がある。
大気は乾いており、気温が幾ら下がっても、ぞくぞくするような悪寒を感じることは無い。むしろ快い冷たさを感じる。
三寒四温というリズムが明確で、案外しのぎやすい。
ただ大陸的気候でもあり、冬は零下三十度に下がるかと思えば、夏は四十度にもなる。寒暑の差は七十度にも達する。』

満州国協和会館中央本部
満州国協和会とは、今日で言うところの政治組織で、国策推進にあたって官民の一体化を図る目的で結成されました。今日の政党にあたる、と紹介する資料もあります。

満州電信電話株式会社
1933年に日本と満州国の合弁により電信電話、放送を営む満州電信電話株式会社が設立されました。これは資本金5千万円もの大企業でした。ここの放送部門には森茂久弥がおり、アナウンサーでした。この他、女性アナウンサーもおり、人気を博していたそうです。
満州では、ラジオが爆発的に人気を呼びました。
当時は契約制で、受信料を支払ってからラジオを聴いていました。これは満州だけでなく日本も同じでしたが、満州では日本よりも早く、ラジオによる広告放送が始まっています。
満州国設立当初、ラジオ局は3箇所ありましたが、5年後には17へ、送聴取者は2千人から45.5万人へ増えました。この頃のラジオは契約制でしたので、人数が把握できたわけです。また昭和四年のラジオの聴取料は月一円であったそうです。ただ、普及に伴い、値段が下がったとする資料もあります(詳細は不明)。
参考まで、電話加入者は満州国設立当初、3.5万人でしたが、5年後には11万人へ増えています。

新京ヤマトホテル
駅前一等地にあるヤマトホテルです。
主要な都市に展開したヤマトホテルは、それぞれ一等地に建てられ、そして建物の玄関が表通りに面しています。ここ、新京ヤマトホテルは門柱のある前庭があります。

西広場と新京敷島高等女学校
満州では全土で多くの学校が建てられました。
いくつか書籍に登場しますものを列挙してみます。
建国大学、大同学院、新京工業大学、新京畜産獣医大学、新京法政大学、新京商業学校。
女学校では敷島高女、錦ヶ丘高女、向陽高女などが挙げられます。このほか、多くの小学校中学校がありました。
画像は西広場に面した新京敷島高等女学校です(ロータリーに面しており、また画像左側は給水等です)。
この女学校は、白亜の大きな建物です。この学校と制服は、少女達の憧れであったそうです。
この校舎の裏側には運動場があり、多くの満州の学校でそうであったように、冬場には運動場に氷を張り、スケート場としていました。
女学生が校舎をバックにグランドを滑っている写真がのこっています。さぞ快活な雰囲気であったものと想像します。

建国大学新京
では、数ある大学から、建国大学の画像を紹介いたします。
満州では次々、大学が作られ、そしてこれら大学で学生達は優遇されていました。
建国大学での資料ですが、学費は不要、賄い(まかない)付き、風呂、冷暖房完備の寮も費用は大学持ちでした。
奨学金も支給され、これはお小遣いとして、ささやかながら飲み食いが出来ました(なので、いわゆる学生アルバイトをする必要も無い)。学生は、満州国民は勿論、在満邦人も居ました。主食は米、粟、高粱が炊かれ、選んで食べることが出来ました(朝日新聞などから参考引用)。
学生のなかには、満州国旗の基本色で満州族の象徴の色でもある黄色の帯を学生帽につけていた人も居たそうです。
在満邦人も進学、さらに内地(日本国本土)から留学した例もあります。

大学について、地域によって大まかな学閥というか、学生の雰囲気に差があったとされます。
港町の大連の大学では欧米風のデモクラシー的な雰囲気、新京では建国の機運に溢れ「満州協和服 (※) を着て闊歩する」雰囲気だったとの事でした。いまいち具体的でなく、判りにくいのですが、学生はそれぞれの大学で大いに胸を張って学業にいそしんでいたのだろうな、と想像します。
また満州の大学は共通して自由闊達であったとされます。例えば、天皇機関説といったものが大いに語られていたそうです。
(※満州協和服は、憂国烈士様サイトに実物の写真が掲載されていますので、ご覧ください。戦前の国民服に似た地味な服ですが、首から紐をさげ、その先端は満州国の象徴である5色の房になっていました。)

さて建国の気運の高い満州では、大学をとても大切にしていたことがわかります。
こうした大学での学問の尊重は、日満一致で行われています。
例えば、大規模で企業経営の農業を行っているアメリカから多量に安く農産物が出来ると、食料がアメリカという外国の影響下に置かれることになり国産の農業と国民生活が防御できなくなります。こうした影響下から国を護るには、農業の振興が必要です。この振興は、単に土地を耕すだけでなく、科学的アプローチができれば、大変有用です。
満州でも日本でも、様々な採算の取れる様々な農業や食料の製法が研究されています。
満州日報1935年に、日本の大阪大学の研究による成果が報道されています。
『高粱を利用してアメリカ小麦を駆逐、阪大工学部の中村静教授澱粉糊製法に成功
阪大工学部では昭和五年以来満洲高梁の利用法につき熱心な各種の研究が続けられ、既に中村静教授によってアルコホル原料として独特の醸製法を完成しているが、更にアメリカ小麦による紡績用澱粉糊を駆逐して満洲高梁を以てこれに代えるべく、昭和七年以来苦心研究中、この程漸く澱粉糊に劣らぬ製品を見事完成し、市内某紡績工場において大量的に中間的実験を行ったところ、非常な好成績を収めたので、いよいよこれを東淀川区海老江北島高梁澱粉研究所に移すとともに、同研究所の一大拡張を行い、大量的工場生産への第一歩を踏み出すことになった。(以下略)』
これがわざわざ報道されたということを考えると、痩せた土地でも実りをもたらす高粱から澱粉を得る手法の確立が、当時、如何に歓迎されたかが伺えます。

新京市街地
では市街地に戻りまして、路面電車を。

満州の大都市に路面電車が走っていること自体は珍しくないのですが、こちら新京ではやや事情が違います。
本ページをさかのぼって最初にご紹介しました町並みには、路面電車が写っていません。
これは新京では当初、町の美観をそこなわないためとして市電を走らせない方針であったことによります。その為、町並みを紹介する多くの絵葉書には市電が写っておらず、その代わり多くのバスが走っています。
しかしながら、人口の増加、また戦争とともにガソリンや燃料の節約をする必要が生じたことから、市電の整備が市街地の完成後に進められました。

新京児玉公園の新緑
では市街地からちょっとだけ離れまして、新京の公園を紹介いたします。
町の区画を作るうえで、これらの広い公園の土地も確保されました。また新京が造られる前にロシア人によって作られた公園もあります。
いずれも緑豊かでひろびろとしています。

西公園長春
続きまして西公園、こちらも先の公園と同じく池を中心に出島を橋でつないでいます。
画像キャプションから
『西公園長春の西公園は満鉄が経営して長春へ寄付したもので、敷地十萬坪の広さと近代的設備完備、日支露国人の国際的遊興地として彼らが何の隔たりなく嬉嬉として和楽せる像は見るだけに心地よい。』

西公園氷上スケート
先ほどの西公園にて、冬場にスケートを楽しんでいるところです。
全面凍結した氷で、子供たちが思い思いに滑っています。遠く、雪かきがしてあり、スケート場として氷の面が整備されたことが伺えます。

西公園の噴水
こちらは季節変わって夏の様です。
勢い良く水が噴出しています。
またこの噴水の皿の下には、どうも電球と思われるものがぶら下がっており、ライトアップもできたのでしょう(漏電は大丈夫なのでしょか?)。
噴水右側にカンカン帽の男性、左側には何人かいる中に陣笠の様に見える人物が見えます。

順天公園
こちらは順天公園です。
遠くに司法部の建物が見えます。
橋を渡っているのは朝鮮半島の民族衣装に見えますが、如何でしょう)。

自然美の楽園 大同公園
大同公園の様子です。左上、東屋の中には満州の地元の人たちと思われる服装の人々が見え、またボートは、いずれも防止から見て学生の様です。

これら公園はほぼ、今日は残っていないそうです。
また、先に紹介した建物はほとんどが戦後も利用され、また2000年頃まで現役で使われていたものが多くあります。
中国がバブル経済になった最近、次々取り壊されて新しいビルになっているそうですが、それにしましても、新京は急速に発展した都市ですが、そこの建築物は戦後も長く充分に使えるものであったことは興味深く思います。

さて、こうした計画都市新京の繁華街における屋台について、触れてみます。
屋台は、だいたい満州のどの都市にも店を展開していました。また、あの極寒の冬場でも営業していたようです。新興都市の新京も例外ではありませんでした。

戦前旅行記に、新京にて秋の差し迫った寒くなった頃の屋台の記述がありましたので、紹介します。
『吉野町に出て、屋台の焼き鳥でいっぱいやった。ビール箱を据えた椅子には風が吹き付けて、すうすうする寒さだった。屋台の女に冬もやるのかと効くと、レバーの串をタレに漬けながら、「冬もやるわさ、冬が何よりの時期だからね」といった。』
とあります。
戦前、日本国内では肉食はあまり多くなかった一方で、屋台は串焼きの肉が主流でした。
一方で満州はもともと肉類が豊富でしたので、屋台でも豊富に肉類が出ていたものと思われます。
こうした屋台のメニューの比較が日満で出来たら、面白そうです。ちなみに、ビールは今日よりも割高で贅沢品でした。しかし普及しており、屋台で手軽に贅沢気分が味わえたことがわかります。

また、屋台が出ていたという点も新京の特徴と考えます。
同じく計画都市で、戦後、壮大なプロジェクトとして建設されたブラジルの首都、ブラジリアについて、ここを訪問した記事を見る機会があり、それと比較した印象です。
まずブラジリアは人々が住むのには向いていないのではないか、という記事でした。その理由は、ブラジリア訪問記に人々が憩うことのできる適当な場所がないという指摘で、さらにそれは人々の流れが淀むことの出来る場所である事が望ましいとあります。
きちんと仕切られた区画に建てられた四角四面な建物郡だけでは、都市としては駄目だということです。
ウィッキペディアにも
『ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便である。』
とあります。

一方で、多数のロータリーを持つ計画都市であった新京には、人々の生活という流れの中で、ちょいと腰掛けてちょいと一杯飲む風景があったことを考えますと、人々の営みや流れの中に、淀みといっていい場所があったことでもあります。つまりそれは、人々が住むのに適している街であったともいえます。
たかが屋台でここまでの考察は無理があるかもしれませんが、しかし新京が単に国の象徴として作られたのではなく、国作りにあたって何年もこの街に人が住み発展することも考えていた、ともいえます。


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