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満州写真館 奉天同善堂



                        
満州随一の慈善事業 奉天市同善堂之影
満州国の政治と経済が安定するに従い、福祉関係も発展をしました。奉天その4頁でも紹介いたしましたが、満州国設立と共に多くの宗教など様々の団体が満州へ慈善の活動を展開しています。
その中で、満州国設立前から慈善活動をし、満州国設立後に大規模な建物をそろえて福祉を行った同善堂を紹介いたします。

画像がその同善堂の正面玄関です(絵葉書にしては珍しく、雨の中での撮影の様です)。

さて奉天同善堂ですが、最初、左宝貴という清代に活躍した軍人が私財をなげうって天然痘予防疫製造所を創設してスタートしました。
その後に、規模を広げつつ、貧困者救済の社会事業も展開します。この門をくぐれば、後ろに病棟や施設が広がっています。

奉天市同善堂は満州の中で数ある福祉・授産施設の中でも最も大規模なもので、失業者・貧困者などに仕事を与え、生活をたすけ、就労や技能修得のための機会を与え、自立を助長する活動を大規模に行いました。
貧困で通学困難な児童を収容。識字・学習を行い、さらに職業習得の為の木工所・鉄工所・被服縫製所を持っていました。縫製所には織物機やミシンの実習教材が教室にギッシリと並べられていました。
当時の資料にも『五千余坪の地内には孤児、養老、乞食、娼婦、捨子を収容する。』とあります。貧困層を対象にしていたことが伺えます。
特に婦人矯正に重点を置き『娼妓を救済して更生することで売春防止に貢献した』とのことです。

奉天市同善堂 救生門
さて、先ほどの画像の右上、円内をクローズアップします。
これは奉天市同善堂の救生門です。キャプションには『捨児受付にてこれを養育する事は世界に類無き事業で、必ず一度は観覧する必要あり。』とあります。
これは、今日で言う赤ちゃんポストです。 育てられない赤ちゃんをこの中に入れるわけです。中にはスイッチとベルがあり、赤ちゃんが入ったことを知らせます。また中は暖房が効いていて、赤ちゃんが凍えることはありません。また、写真から判りますとおり、低い屋根と引っ込んだ壁になっていて、周囲には目立たないように作られています。

さて、ここへ入れられた赤ちゃんは堂内の乳児施設に収容、さらに成人するまで同善堂で育てられ、さらに成人後の社会自立支援を行い、さらに身元引き取り人の希望受付や婚姻希望者に便宜をはかっています。
驚くことに戦前、社会人として自立するまでの一貫した福祉が行われているのです。
かつて冬場には餓死者が出ていた大陸で、満州という国づくりにおいて貧困から立ち上がろうとする民衆と、社会規模で善行を行うというベクトルが一致していたともいえます。

赤ちゃんポストといえば、先日より日本国内で様々議論がありました。
時代背景が違いますので、当時と単純比較するのがいいことだとは思いませんが、こちら満州にあった赤ちゃんポスト・救生門とは随分異なる印象を持ちます。
先日の赤ちゃんポストの議論は、今日の豊かな社会、飽食が当たり前と言っていいくらい豊かな今日の日本社会で、育児放棄を扱うものです。ですので、こちら満州での福祉とはそもそも異なるものと言っていいかもしれません。同時に、実は、今日の赤ちゃんポストには、釈然としない違和感を持ってしまいます。

同善堂 救生門
救生門を後ろ側、つまり投入された赤ちゃんを受け取る側です。
被いが設けられて、中は良く見えません。風が通らない様、防寒の工夫と思われます。
ここでの記録に、1年に246名の児童が収容されたというのがあります(注:この数値は赤ちゃんだけの数値と思われます)。
当時の記述で
『50%以上は何れも離乳期以前に相当の家庭に養子として縁組せり。嬰児は離乳と同時に育児ホームへ入り、代母に依って養育さられ、学齢に達するや小学堂に於いて四ヵ年の普通教育を受け、さらに各人の健康特性に応じて、本堂内付属各工廠に徒弟として修行せしむ。』
とあります。(嬰児:えいじ/生まれて間もない子供。乳児)

救生門があることから、当時は救生門が要るほど赤ちゃんが捨てられていた、とだけ考えては、早計と考えます。
養子縁組として救う人が多く居た事、そして救生門を設置するにあたり、同善堂はそこから社会人としてひとり立ちできるまでの養育や学習をシステムとして作っていることがわかります。
幼少期に無駄に怠惰に過ごすと、大人になってからの社会参加に支障がでるとされます。こちら同善堂においては、社会人として自立すべく、幼い時には養母が付き、大きくなるにつれ、適切な学習と職業訓練が施されていることがわかります。
こうした、困窮者を社会参加まで育てるという考え方こそ、注目すべきと考えます。 (★)

同善堂 救生室
さて、救生門の後ろ側の続きです。
こちらはさきほどのものほど画像も荒くなく、判別しやすい画像です。
さて、この救生門ですが、赤ちゃんを入れることでその重みでスイッチが入って電鈴(ブザー)が鳴り、同善堂内の各所からすぐに赤ちゃんを受け取りに駆けつけるシステムとなっています。
ただ画面左は寝台と布団、枕、椅子の上には急須まであり、ここで待機することも可能であることがわかります。

同善堂 救生門
では赤ちゃんを受け取る部分をクローズアップ、先ほどの荒い画像では布の様なカバーが付いていますが、こちらにはその覆いがなく、蓋がはっきり見えます。
さて扉の形状、赤ちゃんを入れる部分は底を丸くカーブさせていることがわかります。
また蓋は常に閉まっており、赤ちゃんを投入する側は内側からまったく見えない構造であることが改めてわかります。蝶番は上についています。恐らく、赤ちゃんを抱えたまま差し入れて、蓋は自重でぱたんと閉まるという形と思われます。

さて、右側ガラスの引き戸が見えそのガラスには人物と思われる影が反射しています。
これが人物の反射であるとすれば、その大きさから見てやや離れた位置におり、この部屋は割と奥行きがある、といえます。

また門の上は小さな棚であることがわかります。先ほどの写真は、なにやら看板の様なものがおいてありましたが、こちらはあれこれと小物が見えます。
さてこの棚の上に円筒状のものが見えます。
このラベルは『RED SEAL』と読めますが、残念ながら、これが何かは判断がつきませんでした。唯一、考えられるのは同じ名前のアメリカ製のタバコです。アメリカ製の嗜好品や玩具は満州でも日本でも輸入されていました(セルロイドの人形などは、玩具の中でも贅沢品でしたが、子供たちの憧れでした)。タバコも舶来品は贅沢品であったものと想像しますが、購入できたもののと想像します。
こちら救生門に待機している間、タバコをふかして暇をつぶしていたとも考えられます。
赤ちゃんを扱うところでタバコというのは今日ではあり得ない事ではあります。ただ、当時は未だそうした禁煙の概念も特に浸透していなかったかもしれません(戦前、健康の概念から禁煙を広めたのはナチスドイツが有名です)。

奉天同善堂の正門
今一度、奉天同善堂の正門です。
これは推定ですが、正門の撮影時期はこの写真が最も新しいのではないでしょうか。といいますのも、こちらの写真のみ、それぞれの門柱の上に外灯と思われます丸い球状のものがあります。最初の門の写真、そして次にも紹介します正門の写真はこの丸いものがなく、周囲の支柱だけになっています。

さて当時の報道によりますと1934年にも、奉天では大々的に社会資本の整備計画を立てています。
そこでは市街地のゴミ(市内塵芥)汚物整理場を郊外に増設、市内各所にコンクリート製の芥箱(ゴミ置き場)を配置、便所の汲取励行と共同便所を改善、保健防疫体制確立のため市立病院の拡充と分院設置の実施、衛生相談所を増設、下水道の大施設が挙げられ、これらに並んで同善堂の内容充実等を計るとあります。
同善堂は社会資本として、奉天市の予算に組み込まれていた事がわかります。

同善堂事務所
さきほどの正門と同じ絵葉書セットの写真で、天候や日陰の具合から同じタイミングで撮影された様です。
植木鉢が等間隔においてあります。
レンガの壁と、屋根は波打った形に見え、どうやらスレート板の様です。

奉天同善堂の正門
さらに今一度、正面玄関です。門からバスが見えます。ニッサン自動車の22人乗りバスと思われます。

こちらは門柱の上の丸いものが全てなくなっており、もっとも後の撮影と思われます。
こちらは、門の両側にあった門番小屋が無くなっています。また正門には看板が掲げられています。
左は同善同病院、右は同善堂慈善院と読めます。

同善堂創設者左宝貴
では奉天同善堂の歴史を振り返ってみます。当HPでは奉天同善堂が発行した奉天同善堂要覧をベースにまとめております。一方で、奉天同善堂の創立など歴史について、戦前の資料には『判然として詳しからざれども』と匙をなげた記述をする資料があります。これは複数あった複数の慈善施設の統廃合を重ねたため経緯が判らなくなったというのが実態の様ですし、確かに統廃合については、経緯は良くわからない様です。

さて、もともと同善堂の様な福祉施設は清の時代からいくつかありました。
善行を行うことで死後の世界での評価を高めたいという宗教的な動機なども背景にありました。
そうした中、同善堂は、天然痘予防疫製造所として作られました。
当時の福祉は施粥(せじゅく)、つまり食料配布が主だったようで、それからしますと、福祉施設としてはやや異色な駆け出しという印象があります。
さて、創立者、左宝貴(以下、左公)ですが、山東省の寒村に生まれ最初は伊斯蘭教を信仰していました。幼くして両親を失っています(奉天から見るとはるか南、丁度、大連の黄海をはさんだ反対側です)。
当時は清の時代であり、揚子江方面で匪賊の討伐に活躍していました。
熱河地方(後の満州南西部)においては匪賊討伐の守備隊長を務めています。

当時、匪賊の中でも馬を用いた機動力のある馬賊は庶民に対して暴虐を極めていましたが、左公は同じく騎馬隊で出動してこれを撃退、左公は広く民衆の支持を得ていました。
これらの功績により八旗馬隊長に任命され、奉天方面を護っていました。
この頃、左公は父母の命日に、私財をなげうって奉天同善堂を設立します。この場所はその後も移転せず、そのまま満州国時代にも順次広がりながら内容を充実していきます。
最初の天然痘防疫製造所の次に、育児所、養老所の開設と順に増設しています。 同善堂については、左氏がつくった諸々の善学合組を統合したという
経緯もありますが、詳細不明です。また基督教の救護施設とも統合したとする資料もあります。
ちなみに満州国設立後に奉天同善堂を整備した際の堂長は王有台氏という方だったそうです。
(★)

同善堂付属病院
病院の正面です。

さてふたたび、同善堂の歴史を清の時代にさかのぼってみてみます。
同善堂では天然痘の予防、育児保護、難民救済に努め、さらに学校を建て、民心の教化に務め、さらに奉天付近で、土地が低く水害がたびたび発生していた地域に対し、軍と協力して堤防を築いています。

一方、左公は平行して国防にも活躍、その頃に大規模な匪賊の住民襲撃があり(白蓮教という宗教団体が匪賊化)十余万人が犠牲になりました。左公は軍を率いてこれを撃退、治安を復興して、叙勲されています。これの戦績から、匪賊も左公の出動とわかると、戦意を失ったという話もあります。
その後、清皇帝の騎馬隊を率い、日清戦争でも日本軍と衝突しています。ここでは左公は敗れていますが、その勇猛な戦いぶりに戦後、日本軍は、誠忠武士の鏡だとして、左宝貴の表忠碑を建てています。 (★)

紅十字病院
同善堂の絵葉書から、紅十字病院の病院内付属薬局です。
壁に引き出しの沢山ある棚があり、恐らく漢方がぎっしり入っているものと思われます。
紅十字とありますが、英文にRED CROSSとあり、赤十字のことです。
そうなりますと先の同善堂付属病院と同じものかどうか
つまり同善堂の付属病院を赤十字が行っていたか、同善堂付属病院とは別に赤十字の病院があったかについて知りたいところですが、残念ながら試料を見つけておらず、詳細は不明です。

ちなみに、この上に万国旗が飾ってあります。この写真の絵葉書シリーズには、この万国旗が見えますが、このシリーズ以外の同善堂写真に万国旗が飾ってある例はなく、またこうしたものを日ごろから飾っている、というのも不自然に思われます。恐らく撮影に当たってのヤラセと考えています。

紅十字病院
同じく紅十字病院です。
この写真を観察しますと、壁はさきほどの同善堂付属病院と同じレンガ積みで、さらに窓も形も上側のアーチや窓も付属病院の窓に良く似ています。つまり同じ建物である可能性があります。

さて一方で、3枚の写真で紹介しました門を思い出してください。
二番目に紹介しました正門は紅十字病院と記載のある絵葉書と同じシリーズの絵葉書ですので同時期の撮影と考えられます。
そしてもっとも後に撮影されたと推定される門には、奉天同善堂病院の看板がありました。
つまり最初は、同善堂の病院は紅十字(赤十字)であったこの病院も、後に同善堂の管轄ということで同善堂病院と名前が変わったと考えます。

さて、この写真中央には石畳が敷かれており、またこれが遠くまで伸びていることがわかります。同善堂の敷地はかなり広そうに見えます。

同善同内の嬰児
さて、左公は最初、天然痘防疫製造所を作りました。これは天然痘が猛威を振るっていたことによります。清の時代に天然痘の病原地帯であった山東からの移民に防疫を施す目的があったため、まずこれが最優先であった模様です。

さて画像は満州国時代の同善堂内部で保育所における太陽燈室です。
当時、赤ちゃんの病気にクル病というのがあり、骨の育成に障害を生じ、骨がまっすぐ育たなくなります。
原因として非衛生的環境、大気・日光の不足が挙げられます。
当時、日の光が、幼児の育成に良いことは既に知られており、こうした太陽燈も開発されていました。(★)

同善堂 孤児嬰児室
赤ちゃんが収容されている部屋です。
天井からはゆりかごがいくつもぶら下がっています。
画面左下、そして右側のゆりかごは、ゆれているためか、ぶれて写っています。
また右のゆりかごの赤ちゃんは、お乳をもらっているものと思われます。
この写真からも赤ちゃん一人に乳母が一人充てられていることがわかります。

同善堂 配乳室
こちら、同善堂に収容された幼児はすべて母乳をもって育成、赤ちゃん一名に乳母一名を充てており、そして常時、百数十名の乳母という人材を確保していました。
が、流石に母乳が十分でなかったのか粉ミルクも用いていました。
興味深いのは、配乳室として粉ミルク専用の部屋が設けられていたことです。これは、おそらく当時の粉ミルクが溶けにくかった為、ミルクの準備を厨房での作業のついでに、というのでは不便だった為ともいえますが、同時に専用の部屋で行う体制であることは、同善堂が赤ちゃんへ乳を与える事に、如何に本気であったかが伺えると感じます。
一般に赤ちゃんに与えるのは母乳が良いとはいえ、乳の出具合によってミルクで補うことはあります。
赤ちゃんの育児においては、なかなか保守的な側面があるのか、身体的に母乳が出にくい母親に、乳が出ないのはあたかも愛情という根性不足といわんばかりの責めをするといった話は、今日においても尚、見聞きすることですが、やはりこれは母親を焦らせ追い詰める行為です。
こちら満州では、既にご覧のとおりの科学の恩恵が展開しています。

さらに満州医科大学関係者の助言を得て、赤ちゃんには山羊の乳がもっとも良いとして、はるばる長野県から優秀な山羊を導入しています。授乳の体制は、組織を挙げて行っていることがわかります。  (★)

同善堂 救産所
救産所は、いわゆる授産所とは、趣旨がことなっています。
写真のキャプションから。
『救産所は分娩の資なき者、或いは未亡人もしくは未婚者にして外聞を憚かる(はばかる)妊産婦にして助産保護を求めたる者を収容す。
収容者に対しては原籍住所氏名妊娠関係等は一切触れる事を避け無条件にて保護分娩せしむ是れ創始者の目的が現在諸外国に於ける授産所の如き産婦を救済する目的のものと其の趣旨を異にし本救産所は未来に於ける人間を保護する事業として現在体内にあり未だ此の世に出てざる胎児の保護を主眼として設置せらる出産後は慣習等の例外を除き二ヶ月間は自らの母乳を持って育成し期間経過後嬰児は本堂保育所に移し本人のみ出所す』
つまり救生門に投入されそうな境遇の赤ちゃんは、生まれる前から保護をするというわけです。誰が産み落としたかは一切触れないようにし、安全に同善堂内で出産させます。この誰かを問わないというのは、丁度、救生門が赤ちゃんを投入したのは誰かを問わないのと同じにしたわけです。また救産所は、産みっぱなしではなく、一定期間の母乳を与えるなど愛情をもって接する期間を設けています。

ちなみに画像ですが、窓が高い位置にあります。画像が不鮮明で申し訳ないのですが、大人が背伸びをしても中を覗き込むことは出来ません。恐らく、前述の『外聞を憚かる(はばかる)妊産婦にして』を配慮しての構造では、と想像しています。

当時の満州では子売りとして、児童の売買が行われるという、今日の我々から見ると奇習がありました。しかし、それは社会全体が児童を軽んじているという事でもなく、やはり産む赤ちゃんが育てられないというのは大変に辛いことであり、そうした背景がこれら施設の設置と利用に繋がったとも考えます。
そうした、子を育てられない辛さは今日の我々の社会もきっと変わっていない、とは考えます。 (★)

同善堂内育児ホーム
離乳後に引き取られる育児ホームの風景です。
皆、満州の服装です。
育児ホームで生活しながら、子供たちは堂内の学校へ進みます。
さて奉天同善堂の特徴は幼児保護施設だけでなく、幼稚園、小学校を併設している事が挙げられます。
さらに女子実業学校、救養学校、習芸学校、歯科専門学校、産婆学校、さらに視聴覚障害者の訓練所を持ち、優秀な人材を育てていました。 (★)

同善堂孤児院
男の子が二人、見えます。

同善堂孤児院付属小学校
付属の小学校での授業風景です。
撮影は授業の真っ最中なのか黒板には足し算と引き算が、また先生は横へぶれてしまっています。
さてこの写真のキャプションには孤児女講授とあり、英文にもOrphan Girls(孤児の少女)とあります。
ただ、この画像右端にも男の子と思われる生徒が写っており、何故、女子小学校としているのかは不明です。

同善堂養老所と救護所
扶養者の無い老衰者、体の不自由な人や発病その他で正業不能な人々を収容した場所です。
収容にあたっては男女が別の棟でした。画像は女性用です。

ここでは保健を目的として、日光浴と堂内の清掃を仕事として与えていました(無為に過ごさせては、かえって健康に良くないわけです)。また封筒張りなどの簡単な仕事を準備し、工賃を支給していました。さらに煙草も支給されていました。 (★)

同善棲流所内部之影
キャプションには『同善棲流所内部之影』とあり、同善収容施設内部の写真のことです。
建物の真ん中を、白いテーブル状のものが位置しています。これは恐らくオンドル(暖突)と思われます。煙突を水平に部屋の中へ配置し、焚口の反対側に垂直な煙突を配置、水平部分の煙突で部屋全体を暖めます。通常はこの上に床があります。

同善棲流所貧民棲止之影
キャプションには『同善棲流所貧民棲止之影』とあり、同善収容施設に身を寄せる貧民の写真のことです。
ここでいう「棲」は、鳥が巣に住む、あるいは鳥が木に止まることです。
また「棲流所」は清代から民国初頭くらいまで使われた言葉らしく、老人、不具者、難民、孤児などを収容して世話をするところをさします。「棲止」は、鳥が羽を休めるように身を寄せること。「影」は写真のこと。英訳も併記してありますが、そのまま訳してある様です。

こちらの写真では、このオンドルの上に人が腰掛け、また丼と箸が等間隔においてあるのが見えます。
当時の満州にはあちこちにキリスト教の協会や仏教寺院にも同用の慈善施設があった様です。

同善堂 済良所
まずは画像キャプションから。
『芸酌婦が抱主の虐待に耐え兼ね或いは家庭の不和または夫婦喧嘩の結果、本堂に保護を求め来れる者を収容す
これ等収容婦女に対し、出所後、一家の主婦として恥しからさる様、普通教育は勿論、特に訓育を施すと同時に家事裁縫ミシン手芸を教習せしむ。その結果、本堂収容婦女は社会より好感を持って迎えられ、相当の家庭より多数結婚の申し込みあり。その際は申込者の身元を厳重に調査士適当なりと認めた場合、係員立会いの上見合いを行う。』
つまり、ここは暴力被害者の救済の施設です。いわゆる駆け込み寺の延長でしょう。
ただ、駆け込み寺の場合は出家させてしまいますが、こちらでは社会復帰を目指し、必要な教育を施しています。 (★)

同善堂 済良所
さきほどとおなじ済良所で、机など同じに見えます。
授業に出ているのは、皆さん、さきほどの写真と違う人たちです。順次、卒業していくのでしょう。
また画像の女性たちに纏足はみあたらず、この風習は廃れてしまっていることがわかります。

同善堂 済良所
生徒さん達の配置(ヘアスタイルで追ってみて)も同じですし、同じタイミングで撮影されたものの様です。

同善堂 木工廠
同善堂が誇る職業訓練所のひとつです。
印刷所、絨毯を編む工房などいくつもありました。
これら技術を習得する、つまり学習を受ける経験は、就職してからの新たな技術取得などに役立ちます。実社会に出てからも学習葉必要なわけで、それが学習を経験した人ほど、スムースなわけです。それは今日も同じです。
同善堂の卒業生が、就職口において人気があったとされますのは、こうした学習の経験を積んだ事にあると考えています。

さて、同善堂の頁の画像のうち、キャプションの最後に(★)をつけておりますものは画像の粒子が粗く、見づらいものとなってしまっており真にすみません。これは奉天同善堂要覧という冊子から引用、またこれは写真をドットの集合で表しているため、スキャンして投稿しますとどうしてもこうした荒い絵となります。
ちなみにこの冊子ですが、編集は奉天同善堂、そして印刷も奉天同善堂の印刷所です。つまり、職業訓練所のひとつである印刷書で刷られた冊子です。恐らく、この写真の様に、職業訓練をする生徒さんたちの手によるものでしょう。 (★)

同じく職業訓練所です。
ミシン(ソーイングマシン)の操作中で天井から電燈が乱暴にぶら下がっています。
こちらで授業を受けているのは女性の様です。

同善教養工廠織科之影
機織り(はたおり)機の訓練風景です。
男性の職場なのか、左二名は男性に見えます。また右端には男の子です。
なるほど、これの操作は重たそうに見えますし女性にはこの操作はつらいのかもしれません。

絨毯工廠
こちらはじゅうたん工場です。
左、一列に並んで若い人から少年までがじゅうたんを編んでいます。手やからだが動きでぶれて写っています。
画面右奥に少年が二人、撮影にあたり、きをつけ、をしています。

同善堂組織図
組織図です。
必要な役割がきっちり分けられています。
学習の工廠がいくつもあることがわかります。

満州国設立時、当時の日本陸軍の参謀が同善堂を視察、経営方法に関し、深い理解を示しました。
この時点で、基本財産二百万円があり、これは一時期奉天市公署に移管された後、基本財産へさらに九十万円を加えて財団法人とし、当時の奉天市経営の市立病院と貧民収容所を統合しました。

ここに、新たに奉天同善堂が誕生しました。
ちなみに旧清時代の軍閥に一部の基本財産を取られていた模様ですが、これの回収に成功しています。
病院の増設、診療機関の充実、産授業を拡張、育児方法を改善、世界的社会事業として創始者、左公の設立の意思を引継ぎ、発展をしていきます。

ちなみに経費は年額予算約六十万円で、これは奉天市が工面しました。
また各地にあった基本財産二百万円はお金ではなく不動産もあったようです。
これらは土地家屋で、これの賃貸料が入ってきた様です。さらにお墓も持っており『霊柩保管料他に拠る』と記述があります。
つまり、これら財産を消費するのではなく、これを有効に運用しての収入があり、同善堂の運用へ役立てることが出来たわけです。奉天同善堂は奉天市のバックアップと、同善堂自身が持つ自立した収入とで成り立っていると理解できます。

同善堂へは寄付金も多く集まったことからか、資料によっては有志の寄付金を元にといった紹介や、政府などの補助を受けずという紹介があります。
しかし、これだけの組織を運営するにはきちんと予算を確保していたと考えられ、又それはきちんとした収入に支えられていたと考えるのが自然です。それは、善意の寄付だけを当てにしていたとは考えにくく思われます。

さて同善堂の収容者数について康徳5年(満州国が帝政に移行して5年後)1938年、昭和13年でのデーターがあります。
収容者数2千5百二十三名が収容、出所者数は二千二百二名が出所しています(但し、病院や老衰などの死亡者を含みます)。人は集まってくるだけでなく、自立しており、それが数値でわかります。
つまり、組織が困窮者を抱え込むのではなく、社会復帰のために育成、そして実際に大勢が社会へ巣立っているわけです。

この他、病院での患者数(治療を施した人数)は、康徳5年の一年間で十万九千人、またさらに施療(つまり貧民への治療)が八万三千人でした。

ちなみに副所長に日本人が就任したこともあり、日本からの就学旅行や満州国見学に同善堂をルートとして組み込む際の窓口を務め、さらに満州国に進出した日系企業からの寄付を受け付けるなどしていました。

ところで『娼妓を救済して更生し、売春防止に貢献した。』とする資料は婦人矯正院を設けてこれを行っている、と記載されています。しかしながらこちらの組織図にはその組織がなく、この組織図以外にも組織があるものと思われます。

同善堂に順ずる福祉施設は、清の時代もいくつか作られています。当時から必要とされていたわけです。
しかし、いずれも破綻しています。
これらの施設は主に施粥(せじゅく/せしゅく、おかゆ類の炊き出し)を行うところで、食料をいきわたらせる事が主体でした。
しかし施しをすると、それを受ける側は食事を受け取るのが当たり前となってしまいます。民衆は当たり前に食事を集りに来る様になり、結果、お金が無くなって破綻するという繰り返しだったそうです。

同善堂が単に施しをするという施設でなかったことが、これら破綻した施設との違いだと言えます。
前述の通り、入る人も多いのですが、巣立つ人も多くおり、そしてそれら巣立つ人が多いということは、社会が歓迎して受け入れた事もわかります。実際、そうした記述も当時の書物に見受けられます。そのために、収容された人は手に職をつける訓練をこなし、社会もその価値を認めていたと考えます。
同善堂は、成功した福祉施設だといえます。

いまひとつ、同善堂の特徴であり、これは成功の要因と考えますのは、受け入れた赤ちゃんの手厚いケアです。

今日の日本でも熱意と愛情を持って不遇な子供たちを救い、里親を勤める方は大勢いらっしゃいます。
しかし、子供に情緒的問題があるケースもあり、里子による反社会的行動や家庭内暴力から、家庭崩壊に至る例もあります。
普通、赤ちゃんは生まれた時点から特定の人間との間に、濃密な信頼関係を持ちます。これは非常に重要です。この信頼性が出来ているかどうかが、この問題の背景にあります。
人間は、生まれたときから人として生きています。そして生まれて最初に母子の愛情が築かれ、それは人間らしい情緒の原点だといえます
その大切な期間に、もしも母親という存在となる人から引き離された赤ちゃんは、どうなるでしょう。そして施設に入り、数が足りず時間経過で交代に順繰りにやってくる保母さんの世話では、勿論愛情を持って接したとしても、次々入れ替わると、赤ん坊が混乱し、結果、情緒の発達には遅れがでるというのは想像できます。
この点、同善堂における代母の多さは大きな特徴です。
さらに奉天同善堂が、救産所にて無償で実母と赤ちゃんが接する期間を設けているというのは、こうした赤ちゃんの精神衛生上、極めて優れたものといえます。

今日の日本の福祉施設とも、内容を比較してみたいものです。今日の飽食の世の中で、もし「親が育てられなければ施設へ」という発想があるとすれば、それはあまりに安易すぎる発想だといえます。
今日、21世紀の日本の施設は、前世紀の満州国同善堂よりも進歩した内容であればいいのですが。


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