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満州写真館 満州農業その2

拓士


柳絮吹きこむ窓の内、
僕らは地図をひろげてる。

僕らは思ふ開拓を、
千古不鉞の大森林。
資源の分布、交通路、
都市村落を、平原を。


北原白秋の詩集、満州地図
日本文学電子図書館 から引用)

                        
こちらのページではでは農業を中心に、満州開拓移民の様子を紹介してまいります。

さて満州は豊かな土地で有り、開拓を待っているという認識が広くありました。
また、日本国内で小作人などを中心に、自分の畑を持つ事の憧れから、大陸は満州へ大勢が渡りました。

当時の、満州への移民を促す広告には
『一平方キロあたりの日本の人口密度は百八十一人、満州国の人口密度は二十七人だ。』
とあり、如何に満州国が広々としているかを訴えていました。

昭和16年当時、満州国三千九百万人の内、日本人は約八十万人でした。
これは満州国全体からしましてもわずかでした。
また満州国へ移住し住み着いている「半島人(朝鮮半島からの移住、いわゆる朝鮮人)」については
百万人とあり、半島からの移住者の方が日本人より多いことがわかります。

満州国が設立した昭和七年に日本の拓務省から北部満州の松花江の川べりに近い、桂木斯(チャムス)に第一次開拓民が送り出されました。
このときの人数、わずかに500人でした。
大いに注目されたこの開拓民、当時の報道にも
『当初、日本の拓士が成功するかは疑問とされたが、開拓民の成績は良好で将来有望とされた。』
とあります。当初は、試行錯誤だったのでしょうか、成功するかの疑問は、報道でも指摘がなされています。
画像は、満州の大平原に青々と葉を繁らせる畑と、開拓民の合成写真です。
当時の開拓民は、どの資料を見ても、皆、勤勉であったとあります。

少年拓士
一九三八年(昭和十三)より満蒙開拓青少年義勇軍が編成され、満州開拓のために移住しました。彼らは少年拓士と呼ばれました。
国内での訓練、満州での現地訓練所における農業教育、さらに軍事教練に従事し、そして畑を耕しました。
15歳から19歳の少年らを対象に、国内の訓練は三か月間で、内原訓練所※にて行われました。そして三年間の満州での現地訓練を経て、義勇隊開拓団へ移行していきます。
画像のキャプションですが
『訓練所を巣立ってから既に一年、僕たちの村づくりもいよいよ軌道に乗りました。
村づくりの喜びの前には如何なる困苦も物の数ではありません。
広い耕地、伸び行く作物、鋤の使い方も一人前に働く僕らの張り切りようを見てください。』(尚家義勇隊開拓団)。
とあります。なかなか勇ましく覇気に溢れたものですが、しかしやはり大変な苦労を重ねています。

※茨城県東茨城郡内原町に設置されたもので、今日、史跡として保存され、資料館があります。

一般に開拓団に青少年が投入される場合、いきなり荒野に放り込まれてはいませんでした。あらかじめ先遣隊がおり、住居や炊事隊が出来ているところへ送られています。
そこで先遣隊が生産した物を食べ、開拓に勤しみました。食事の量は山盛りで若人の旺盛な食欲を満たした、とする資料もありますが、しかしながらほぼ高粱が主でした(いわゆるコーリャン飯)。副食も最初は乏しく、味噌や豆類程度で、肉や魚などは、最初は全く無かった状態でした(これでは満州の地元農家の方が豊かな食だったとも言えます)。ただ、当時の体験談でも食べ物の印象は大きかったようで、ジャガイモが大変な豊作となり、これを石油缶(いわゆる一斗缶)で炊いて、腹いっぱい、ほおばりながら食べたのが嬉しかった、といったものもあります。満州にはどこにでもたくさん居た野兎を獲りこれを食料にしたり、近くの沼での釣果を食事の足しにしたそうです。
こうした開拓団に共通で、且つ、大きな苦労は、冬場の寒さだったようです。薪を使い果たそうものなら、雪をかき分けて燃料になるものを探さなければなりません。さらに、ほとんどの開拓団は冬になると風呂にも入れなかったようです。その為、虱(しらみ)に悩まされました。さらに娯楽が乏しく、暖炉を囲んで皆で歌を歌い、それに飽きると、今度は思い思いに虱を捕っては灯りのランプの笠でそれを焼いて暇を潰していたとも聞きます。
望郷の切なさに苛まされたという話も多く残っています。さらに夜になれば満州全土に出没する狼の遠吠えも聞こえたとのことで、孤独感をいっそうかきたてられたことでしょう。

開拓を待つ大きな大地
牛に農具を引かせて、畝を作っています。
『日本の高地に依存している五百万農民を二十年間に満州に入植し、満州の開拓を進めると共に日本農民の人口を緩和しようとするものである。またに地満共同防衛と共存共栄の立場から開拓の手が届かなかった北の満ソ国境地帯の開発と国防の完璧に力を注ごうと言うのである。』
この国防の壁が、後の悲劇となります。

満州国は五ヵ年開発計画を昭和十三年に実施、満州国自体の自給自足を図ると共に日本における生産力をカバーする事を目指していました。
トウモロコシ、高粱、キビ、大豆、ジャガイモなどが広く栽培され、畜産も盛んでした。また北部に開拓へ入った開拓村では、必ずしも水稲の耕作は行われていなかったようです。

新しき槌に生きる若き拓士青少年義勇軍
こちらは鍬でせっせと耕しています。

満州で開拓に関わるにあたって、開拓地の生産施設というと農業用具から加工設備までそろえる必要がありました。
開拓団は、まず満州現地の農作業を習得し、農業用具も満州の農具を多く使っていました。
当時の開拓団を訪問した際の記録に
『工作には犁丈(リージャン)という日本の鋤に似たものを使う。
地ならしの耙子(バーツ)、除草には鋤頭(チウトウ)という「ホ」の字の形をしたものを用いる。
刈り入れも満州式の大きな鎌を用いる。
刈り入れ後は、振り上げて、くるくると回して穂をたたく連枷(レイシャ)を使用する。』
とあります。満州式に倣っての農業を行うことが意識されていることがわかります。
それにしましても、郷に入っては郷に従え、ではないのでしょうが、農具も現地式としたのは興味深く思います。これは土地には土地ならではの知恵があり、それが道具を生んだのだ、と考え積極的に取り入れたからでは、と思います。

開墾できた土地から、続々と収穫が得られました。
大きなトマトが実っています。

満州は、第二瑞穂の国
稲穂の刈り取り風景です。左の人はゲートルを巻き、また右側は長靴に見えます。
未開の土地を開墾、土地を改良し水を引き水田を作った、この収穫は格別であったものと思います(昭和松陰塾開拓団)。
無論、土地の開墾は一筋縄ではいかなかったものと考えられます。
開墾を行っている写真は少ないのですが、別途『上興発』にて紹介しております。

満鉄鉄道自警村
町と町の間は荒野ですので、途中に何らかの保線拠点を作るとなると、その拠点は自営できたほうがよりよいといえます。
そこで開拓と鉄道警護の拠点作りを兼ねて、自警村が作られました。こうして邦人移民を入植させた鉄道警護村は鉄道の沿線二十三ケ所に設けられました。目的どおり沿線の開墾と鉄道警備という一石二鳥の効果をあげた、とのことです。
あと警備犬と伝書鳩の育成も行ったそうです。その自警村に入植した人たちの農作業風景で、牛が農具を引いています(鋤と思われます)。遠くにいくつか建物が見られます。画面右、大型犬がお座りをしています。警護犬でしょう。

開拓の日本人村にて井戸水を汲んでいるところです。
かなりの重労働に見えます。
開拓団が現地で開拓をすすめて自活が出来るようになると、次に花嫁が要るということになりました。
開拓地で所帯を持ち、子供を生み、さらなる国作りとして発展していくことを目指したものです。
この流れに応じ、女子拓殖指導者講習会が日本各地で開かれた様です。

日本人女性拓士です。
女子のこれらの動きはいわゆる「大陸の花嫁」と呼ばれるもので、やはり養成訓練が行われて現地入りしました。
大陸にて生活する大陸の花嫁の訓練につきましては、『五常』にて紹介致します。

やや、やらせに見えますが、豊かな実りを誇らしげに両手にかかえる男女です。
大きな実はかぼちゃと思われます(大きなものは、食用ではなく、飼料にします)。

開拓団でのスナップです。
現地の民族衣装に見え、現地先住の人を移したもので、またおそらく満州族ではと考えます。

同じくスナップ、
左側の女性は、朝鮮の民族衣装に見えます。

粟の豊かな穂が見えます。

わらを山の様に積んだ馬車です。後ろにも何台かの馬車が連なっています。
冬季の為の干草では、と考えます。
開拓団では、畜産も盛んで、牛も多く飼われていました。開拓村には、その為に乳加工場を持っていました。また鉄工所、機械修理場も備え、管理棟には電話も敷いてあります。
衛生を管理する棟もあります。
ここに開拓士で衛生を学んだ人を配置し、怪我の手当てや看護を行っています。開拓村によっては医者が常駐できていない場合もあり、そこへは医者が巡廻していました。

開拓村では自作農同士で組合も持っていました。
組合が大きくなるにつれて、大規模な農具も導入、脱穀精製は組合が行うこともありました。
また農産物の加工は組合の加工部を作って、醤油味噌、酒、高粱酒、大豆油、大豆製粉なども行われていました。

開拓の手は湖までも伸びる(鏡泊湖漁業開拓民)
ではここで、農業以外の開拓を。

大陸国満州国では、実は漁業も盛んでした。
海に面した地域でも大いに行われ、また大河や湖での漁獲も多いことが満州の特徴です。
日本の河川とは比べ物にならない大きな魚が多くすみ、また食材としても魚は人気があったようです。
鏡泊湖は現地読みでジンポーホウです。吉林の東、北朝鮮国境近くの山あいにある、火山によって牡丹江がせき止められた湖です。幅4キロ、長さ45キロの大きな湖です。

林業開拓に勤しむ拓士たち
満州というと、平原を思い浮かべますが、山間部も広くあり、ここには豊富な材木資源がありました。

豊沃な我らが拓土(東海村開拓団にて)
再び農業です。

二組の男女が実りをならべ、畑をバックに写真に納まっています。
手前から大根、カブに見えます。右側の女性は手にキャベツを、さらに右から二番目の男性はかぼちゃを持っており、またこのかぼちゃは実に大きなものです。

雪に閉ざされる満州の開拓村で元気に遊んでいる子供たちです。
恐らく、満州で生まれたであろう子供たちと想像しています。

左側、頭だけ見えるのは、段差を塹壕に見立てての兵隊ごっこでしょうか。

遠くには開拓村の家屋が見えます。
平屋ばかりの様です。
これら開拓団の建物は丸太、藁、粘土での手作りでした。また窓は小さめに作っていたそうです。
また電気はあまり行き渡っていなかったようです。

ちなみに戦後、1980年代後半にかつての拓士が開拓村跡地を訪れてみると、現地の農民が当時の建物をそのまま使っていたそうです。電気などは新たにしかれていたそうですが、急作りだった割に頑丈には作ったので、まだまだ現役であったことに驚いたのだとか。

当時のポスターです。
子供、鍬、そしてたくましい拓士が描かれています。
左上、満鉄のマークがあります。
満州の開拓は、国策もあってか、大いに宣伝、特に現地への視察・見学ツアーが組まれました。満鉄はこれに大いに協力したようです。
ツアーの広告にも
「千里の沃野は招く、土の戦士を!まず実情を監察し、国家百年の大計を認識せよ。」
「野菜も子供も豊作だ」
とあります。

これら、開拓団の写真には、子供も含め、実りに顔をほころばせる人々が登場します。
これらが撮影された何年か後に満州国は崩壊、日本軍幹部は戦線を南部へ下げるとして、朝鮮半島や日本へ逃亡、結果として在満邦人などを見殺しに(後々、軍は一般の「開拓団」をほったらかしにして逃げたといわれる所以)、一方で国境付近を中心に踏みとどまった日本軍将兵は、死闘を繰り広げました。陣地に据えた大砲が撃ち続けた末に割れる程の激戦、とのことですが、最終的には突破されてしまいます。そして捕虜の末、シベリアに抑留され、国に帰れない絶望の中、飢えと寒さで命を落としていきます。
勤勉であったことが伺える開拓団の人達の写真からはたくましさを感じますが、この後に悲劇があることをまだ知らないのだ、と思うと、なんとも言いようの無い悲しさも感じます。

大農法の試み・満鉄王楊機会農場
広い土地のある満州は、広く大きな耕地ができるかわりに、
これらを効率よく耕すにはどうするかは大きな課題でした。
そうなりますと、当然、農具も大型化させたいところですが、大きな道具の導入は
開拓団では難しいものだったようです。

当時、拓士らも、様々、現地で研究をしたようです。
例えば当時、ロシア人農家も満州全土に広く生活していたため、彼らに学んだ例もあった様です。当時の書籍から
『開拓団はロシア式農法を研究して取り入れているところもあるとのこと。ただ、ロシア式耕作具だと、たとえばヤンリーというものは数頭の馬雅必要になり、大規模となってあまり開拓団には向いていない。』
とありました。道具も大きなものともなると、やはり簡単に導入とはいかなかった様です。

画像は、黒々と肥沃な土地を一気に耕すトラクターです。

様々に農法を考案していくなかで、やはり広い耕地を耕すのは、やはり大きな機械を導入するのが適当と考えられ、満鉄などは大型機械の研究も進めていたようです。
さて、画像は大きなトラクターが二台、広々とした土地を耕しています。
満鉄のマークが付いていますが、どうもあとから書き足した様に見えます。
また、ラジエーターの上ふちは、不明瞭ですが「McCormick Deering 」と読め
アメリカのMcCormick Deering Tractor を用いている様です。まるで、土木工事のブルトザーを思わせる外見です。
また、この角度から特定するのは困難ですが、McCormick-Deering社のT20型では、と思われます。
この頃のアメリカも大型機械を投入する大規模農業が発展をしており、McCormick-Deering社だけでも、いくつものトラクターを開発しています。

別途、満州農業その1にも掲載しておりますとおり、日本の拓士以外に満州国民の富農も機械化を行っていました。こうした満州国の機械化は、日本国内よりはるかに進んでいるといっていいかもしれません。
機械化はいよいよ本格化した様です。当時の書物の記述に
『規模が大きくなると、場合によっては苦力や使用人も使う場合もあるが、トラクターで子供を脇に乗せての作業ぶりだった。』
とあります。
機械を導入した農業は、ますます活気を得たものと想像します。

試験場で試運転されるトラクターです。こちらは小型です(恐らく公主嶺での撮影)。
こうした小型のものであれば、取り回しは楽ではと思われます。
ただ、想像ですが、写っているのは試作機ではないでしょうか。機械類がむき出しで、また操縦手の椅子もむき出しであることからの印象です。
確かにトラクターは無骨なデザインですが、風雨に晒される農地で使用するにはいくらなんでも動力系にはもうすこし覆いが設けられていると思いますのと、座席は背もたれなど全く無く、車体が揺れるなどして操縦手が転げてしまうと、たちまち農具に巻き込まれてしまいます。
さて、こうした小型化したトラクターは、ニーズが大いにありそうですが、どこまで普及したか(あるいは量産されたか)は把握できていません。

トラクターの利点は、単に土地を耕すだけでなく、トラクターから動力を引き農業機械を動かすことが出来ることにあります。
こちらは脱穀でもしているのでしょか。山の様な収穫物が見えます。
また左に見えますトラクターについては、メーカーの特定は未だ出来ておりません。
ひょっとすると日本製かもしれません。
日本トラクター株式会社がトラクターを販売しており、また、ホイール式とキャタピラー式の両方が販売、大馬力で飛行場での大型機の牽引や土木作業にも重宝されました。

こちらのトラクターはさらに大型で、操縦手の座席に二名が乗っているのが見えます。
操作は1名でしょうが、指揮を出す人員が同席できる大きさでは、と考えます。また後ろに大型機械を牽引、3名の操作員が見えます。この機械は刈り取りをしている様に見えます。
さて、この大型トラクターですが、ドイツLanz社製からの輸入です。
また、この車種はLanz Raupenbulldogです。
Lanz社は戦前戦後と優秀なトラクターを生産しました。そのほとんどが車輪を装着したものです。
稀にキャタピラを装着があり、それがこちらの画像のものです。
横にぐっと突き出した棒の先にヘッドライトをつける特徴あるデザインで、画像でも画面右端に右側のヘッドライトが写っています。その特徴があります。
参考まで、海外ウィッキペディアに画像がありました。
http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Lanzraupe_D7567_15.6.85.JPG
またこちらにも掲載があります(同じ写真です)。
http://www.bbbahn.eu/lanz.htm
信頼性の高いトラクターだったのかLanz社のトラクター、そしてこのキャタピラー装着タイプはドイツ軍でも採用され、不正地や極寒の地での牽引任務についています。
動画サイトYouTubeにもLanzで検索しますと、動画がでてきます(クラシックトラクターのファンイベントでの撮影と思われるものが多く検索出来ます)。

さてこちらで紹介いたしましたトラクターは、いずれもキャタピラーを装着した車両です。
実は私が調べた範囲でもMcCormick-Deering社、Lanz社共に、ラインナップはほとんどがホイール(車輪)を装着したもので、キャタピラーはごく一部です。
おそらく欧米ではホイールが主流、一方で満州では車輪よりも重く燃料を余分に消費するにもかかわらず、キャタピラーが主流であったと言えます。満州関連で入手した画像がキャタピラーばかりであったことは、道路事情などによるものではないでしょうか。欧州では道路網が発展している一方で、満州ではひとたび雨が降れば泥濘が発生する広野であったことが背景にあると考えられます。

当時の開拓村を見学した際の感想に、企業化という方法は日本人拓士には向かないのではないだろうか、というのがありました。
まず、この感想は日本では小作人という使用人であった人が、ここではきちんと自立していけることを述べたものでした。
一方で、向かないとされた"企業化"ですが、この企業化とはなにか、については特に記述がありませんでした。よってこれは何を意味するかは、想像するしかありません。
これは恐らくアメリカの大規模資本による大農場をさしているのでは、と考えました。
大規模農場といえばスターリンが大規模に展開した第一次五ヶ年計画の中核ともいえる集団農場、つまりコルホーズがあります。
が、これらは計画経済でのもとで行われるため、満州などで導入できるかは不明ですし、もともと共産体制の概念は無かった(コルホーズは国有地を無料で耕作し、主な農機具・家畜等は共有)、またコルホーズでの急速な集団化にあたって多くの犠牲者が出たことは既にしられており、考察に値しなかったのではないでしょうか。
一方で、アメリカの大規模農場も1930年代から、大型機械の導入により、さらに近代化がなされ、これも広く知られております。
大資本により小麦やなど換金性の高い作物を、少ない人出で効率よく生産するため、機械化と大型化が進められました。
1950年の絵葉書にもアメリカの大規模農業を紹介したものがありました。日本の農村での風景とはかけ離れたもので、飛行機で種を撒き農薬を散布し、そして巨大なトレーラーが走り、穀物を貯蔵する巨大なエレベーターと、徹底して大型化と効率化がなされています。これは戦前から顕著で、トラクターは大規模農業の象徴として捉えた報道写真があります。
こうした大資本運営を、企業化と言ったのではないか、と考えます。また、いわゆる小麦戦略もこうした大型化企業化の一環で、日本も戦後すぐ、この小麦戦略に組み込まれます。戦後に穀物メジャーと呼ばれる様になった大資本も、この企業化の一連と考えられます。
アメリカは、当時、既に自動車などの機械製品の量産において、世界のトップでした。
大型トラクターもこうした自動車産業の技術がバックにあると理解できます。大きな車体と大馬力のトラクターは、文字通り、アメリカの農業を牽引したといえます。

アメリカではこの頃の大型トラクターは保管展示されており、またレストアしているコレクターもおり、クラシックなトラクターがあつまるイベントも開催されています。このことから、この頃の農業の機械化、大規模化はアメリカにおいても偉大なこととして捉えられているものと理解できます。
こちら満州でもいよいよ、機械化と隊規模化が現実のものになったものと考えられます。
そして、日本国内でも経験の無い大型農場はどういう運営が良いか、様々考察されていたことがわかります。

こうした日本人による開墾で、中には当てが外れたという話もあります。
それは上興発のページでもありますとおりの荒地であったことから、当てが外れた、というのがあるかと思いますが、それだけではなかったようです。
実は、与えられた土地を開墾し、それを売ってその儲けを持って日本に帰るという、いわば満州で一旗あげる、といった人も少なからず居た様です。
しかし、農地の売買は規制がかけられており、一儲け、というのは出来ませんでした。
これは農耕可能な土地を開墾するという方針は新しく出来た満州国の国策であり、この成果を投機の対象するわけにはいかないといった事情があった為です。
満州国が国作りをするにあたり、それに便乗し、儲けを日本に持ち帰るというのは、良いこととはとらえられなかったようで、これを叱る記載が当時の書籍にあります。

こうした開拓村は人々が増えるにつれ、学校も建てられました。
この学校建築でのトラブルについて紹介いたします。
当時の報道から、満州の紀州村という開拓村で学校用地買収での出来事をピックアップしてみます。
『小島前副学長が、土地を買収したのは、大竹という日本人の土地、朝鮮出身某の土地だった。買収が済んで後、某が、値が安いと不満をいい出し、内情に何事か合って小島副学長は逮捕され』
とあります。日本人だろうと誰だろうと金銭トラブルで訴えられて逮捕されるわけです。では金銭面ではトラブルだらけかというとそうでもなく、同じく紀州村では、道路を作るにも土地の人を雇い、賃金をきちんと払う、笑顔で接するなどして信頼関係を築くことに勤めたそうです。

最終的に食糧増産の日本の国策に呼応し、満州での農業は大規模化していったようです。
満州日日新聞 1941年の報道に
『大農場経営方針により特設農場一段と強化
食糧及び同加工品を統制する諸会社を中心とする諸機関の特設農場制度創設は満洲農業に画期的影響を及ぼすものとして大きな反響を喚起している。』
とあります。
これに呼応して、酪農経営に既に五ヵ年の実績・経験を持つ鐘紡(カネボウ)が大資本三百万円を投入して、牧場を開拓、経営しました。しかも飼料を自給自足するというものです。
鐘紡(カネボウ)は、今日では化粧品で親しまれていますが、繊維、食料を様々生産しています。戦前、国内の岡山工場には岡紡厚生農園がありました。こうした農業への関心の高さから、酪農の実績を満州で実践、また新しい国が出来たことに農業発展の機会を見出したとも理解できます。

画像は、地平線までひろがる農地を耕す大型機械と、そして拓士との合成写真です。


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