| 松花江は二千トン級の船も行きかう大河で、黒龍江と合流するまで二千キロもの全長があります。
松花江は満州の代表的な河で、いくつもの満州の代表的な都市を横切っています。
途中にあるいくつもの港から林業、工業、農業の製品を運搬する水運交通の要でもあります。
この松花江の周辺の様々な風景は、日本人にとって印象深いものなのか、いくつものスナップ写真があります。
これらから、いくつかをピックアップしてみました。
松花江はスンガリーと呼ばれます。当時、満州におられた方からお話を伺った際も日本語読みの「しょうかこう」とは呼ばず、地元読みでした。
ではこの松花江の由来について、当時の書物から引用します。
『満州語でスンアリウラという。スンアリは天を、ウラは河である。昔はキーリンウラ(キーリンは吉林)とも呼ばれたが、明の宣徳帝のとき、松花江・スンホアカウと改めた。』
さて画像ですが、おそらくハルピンで撮影された貨客船です。
「たいあん」と書かれています。またキャプションによりますと外輪線とのことです。
河で運用する船だからでしょうか、海のように大きな波がくることもないため、船の1階部分は水面に実に近い位置にあります。
河を利用し、こうした船で、いくつもの町を結んでいました。
例えば戦前の旅行記に、ハルピンから外輪船に乗って松花江を二日二晩下り、佳木斯(ちゃむす/じゃむす)という日本人入植地へ向ったという記述があり、随分とのんびりした移動であることがわかります。
ということはこうした船の中で寝泊りをしたかもしれません。中で雑魚寝しながら目的地まですごしたのでしょう。
ちなみに松花江は満州の中央を貫く交通の大動脈であったことから、同じく戦前の書籍に「哈爾濱(ハルビン)が全満の中心になりつつある。」と記したものがありました。
松花江という水上交通と鉄道が交わる交通の要所がハルピンであったことからの記述です。 |
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| 『夕日の影あかきとき、猟師が細流に操る四つ手網の情趣。
吉林は、満州には珍しい水の都で、長白山に源を発する松花江に臨んでいる。
吉林はまことに山水の美に恵まれている。
大江悠々の趣はないが清澄の水は背景の山容と相俟って(あいまって)吉林の
都雅を心ある旅人に与える。』
松花江の上流、吉林での撮影です。川幅も狭く、源流に近い上流か支流でしょうか。
網は垂直に網を持ち上げるタイプで、日本にもある漁法です。有明海や諏訪湖など波の静かなところで行われるのが一般的で、小魚など一気に救い上げることが出来ます。
こちらの写真でもほとんど流れも波もなく、この漁法が有効なのでしょう。 |
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| 松花江は、吉林付近で西へ向かってから北へぐるりと大きくうねっています。
吉林までは、松花江は山の間をくぐり、勢いをもって流れますが、
こちらの写真のとおり、一旦、平野に出ればゆったりとした流れとなります。
筏がいくつも見えます。これは材木を下流に運ぶため、その木材を筏に組んでいるところです。松花江は、こうした林業の要でもありました。 |
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| 乗り合い船で、これも吉林での撮影です。
松花江も、大変に川幅があり、渡し船によるほか通路がなさそうです。
服装は朝鮮半島風にも見えます。のどかな渡し舟の風景です。
またやはり水面は穏やかで、波も見えません。
松花江は、日本の河のイメージと違い、全体的にゆっくり、ゆったりした流れです。 |
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| さて河を下りまして、ハルピンでの撮影、船が着く埠頭での撮影です。広々とした川幅です。
遠くに東支鉄道の大鉄橋が見えます。川中にはいくつも船が見え、またこれらの船は柱が立っており、帆柱と思われます。またレジャー用のヨットでもなく、貨物用でしょう。帆を立てる貨物船(つまりエンジンなどの動力が無い)は、海の大連港にも多く居ましたが、河のハルピンでも多用されていると言えます。
また右下、貨客船が見えますが、板をわたしてあり、この上を歩いて船に乗る必要があります。板には手すりは見えず、踏み外して落ちないか、とても不安を感じます。 |
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| 冬の松花江です。冬の5ヶ月から6ヶ月にわたり結氷して交通手段としての船は使えなくなります(11月頃に凍りつき、4月頃まで凍りつく)。
こちらはハルピンでの撮影で、全ての船が氷に閉じ込められています。
船の周りの氷は取り除かれており、船が氷で押しつぶされないようにしています。左上、何隻もの船が氷に閉じ込められています。
手前、馬車が通過しています。凍った河は、こうした車両の交通手段となります。分厚い氷は、こうした車両の重みにも耐えます。 |
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| 冬、長い期間、松花江は凍りつきます。
その間の交通輸送手段は橇(そり)が主役となります。
画面左の中ほど、橇が進んでいます。
また画面中央は、そうした橇の運搬を手がける人たちの為に氷の上に作られた宿屋です。
実に商魂たくましく、こうした季節商売があるわけですが、それだけ何日もかかる氷上交通があったわけです。当時の書物から。
『結氷中は河上はもっとも安全な、もっとも平坦な車馬、自動車の交通路である。
氷上に臨時宿泊所が設けられる点、バイカル湖と同じく、北満でなくてはみられぬ光景である。』 |
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| 凍ってしまった河に穴を開け、水汲みを行っているところです。
河の底のほうは凍っておらず、水汲みに使えるわけですが、こうした水汲みの穴は夜明けには凍ってしまうので、毎日、氷に穴を開けなおす必要がありました。
遠くには橇の隊列が進んでいます。 |
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| 冬の松花江、ハルピンでの撮影です。
手前に並んでいるのが椅子付きの橇です。
またボートが並んでおり、ボートでわたってきた人たちが橇へ乗り換えるところでしょう。
先に河を横切る渡し舟の写真を掲載しましたが、冬の間は、これが橇になります。
河を横切るだけの場合、小さな橇に椅子を固定しただけの簡単な氷上タクシーとなり、川べりでこの渡し橇の客引きが出るのも冬の風物詩です。川岸にこの橇が客待ちをし、客引きがわいわいと煩いのも、冬の風物詩でした。
ハルピンで撮影されたこの橇は2〜3名程度しか乗れない小さなものですが、大きさとしては鴨緑江のものと同じくらいです。また椅子が据え付けてあるのが、ハルピンでの特徴です。また客がこれに座ると毛布をひざにかけてくれるそうです。極寒のハルピンならではのサービスです。またこの渡し橇ですが、一本の棒ですいすいとコントロールされ、驚くほどのスピードが出て、初めて乗ると、思わず悲鳴を上げるほどだったそうです。
ちなみに、ハルピンでこの橇をしばらくチャーターし、周遊のため、河をどんどんさかのぼったという話があります。ハルピンは市街地から離れると、ぽつぽつと小さな家のある平野部でしたので、恐らく広々とした白い広野を見ることが出来ただろうと想像しています。 |
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| 冬に凍った河では、この氷を切り出す満州ならではの風景がみられます。この氷は冷凍施設など有効に活用されます。
零下二十度にもなる満州では、固く緻密な氷が出来ていた、とのことでした。
こうした氷は透明度も高く、川底に1メートルはゆうに越える雷魚がじっとしているのが見えた、という話もあります。
川面を覆う厚い氷は、春先には溶けます。ですので春が近づくと、河の横断など氷の上に乗ることの禁止の札が立てられたりします。そして、さらに春が近づくと氷はどんどん割れて細かくなり、ある日、突然流れ始めて、あっという間になくなってしまうそうです。 |
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| 松花江は、交通に利用されるだけでなく、豊富な漁獲をもたらしました。
画像は樽に魚を塩漬けにしている風景との事です。こうした魚は塩辛く、また漬け込みのたんぱく質特有の風味(臭い)があったそうですが、保存食としてニーズがあったと思われます。黒龍江付近とあり、松花江の下流で、黒龍江と合流する付近と思われます。
川幅は相当に広く見えます。
さて、松花江の漁業ですが、実に量も種類も豊富だった様です。
当時の書物から
『島国人(日本人のこと)には想像もつかない魚がいる。その種類も名前も、大きさも、驚くばかりである。タマハやクウシン(巨大なサメ、フカの類)、白魚は淡水のコノシロともいえる高価な魚で、正月の頃は、二尺の大きさのものは三十円にもなる。淡水のメバルに似たケツギョは春先の名物である。』
白魚については、お正月の価格が紹介されており、新年のお祝い物としてもてはやされたのでしょう。二尺は約60センチ、三十円というと、例えば当時のヤマトホテルの献立ではカツレツは50銭、サーロインステーキが1円50銭、つまり一流ホテルのステーキの20倍ということになります。東京の相場と比較しますと牛丼が35銭、さらに東京ではアンパン3個が5銭ですので、単純計算でお正月価格の白魚は日本のアンパン1800個分となります。正月を盛大に祝う満州国民ならではの大出費です。
この他、サメは5メートルにもなるものが取れたそうです。これも、卵まで食べつくされます。 |
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| こうして松花江は満州国民の生活と共にありました。
この他、松花江の川辺では洗濯もしています。
ところでハルピンでの話しですが
「松花江はアルカリ分が強く、つけておくと自然と漂白される。」
という話があります。
日本ではまずありませんが、実際にアルカリ質の強い水というのはあります。
ただ、この松花江のアルカリ分については、どこまで強いアルカリであったかは不明です。というのも、漂白できるほどのアルカリだと、人の肌や飲用にとって大丈夫とはいえないと考えるからです。特にハルピンでは水泳などで、大勢が水に親しんでいます。
ただ、浸け置きしておくだけで石鹸が節約できるのであれば、興味深い事です。 |
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| さきほど、船で訪問した入植地として記しました佳木斯の街並み、銀座通りです。満州開拓移民団がここへ入植したのは1932年(昭和7年)の満州国成立の年でした。この時、松花江が記録的な氾濫をしたという報道もあります。
ちなみに佳木斯はもともと松花江の商港として発達した町で、貿易で栄えていました。
画面中央に松屋呉服店が、また画面右側の歩道には街灯が見えます(電球がはずしてあるようにも見えますが)。
佳木斯は黒龍江省東北部、黒竜江川、ウスリー江、松花江がまじわる平野部で、ここに組織的な満蒙開拓移民団が入植、この佳木斯は入植のモデルケースとして注目され、ここでの農業は絵葉書になるなどしていました。稲穂を刈り取る写真もあります。極寒の地でありながら、水田があったのは驚きですが、どうも稲作の北限の様です。
さてこの写真ではさほど大きな町には見えないのですが、佳木斯は大いに発展をしたようです。
佳木斯には佳木斯銀座と呼ばれる繁華街があり、カフェーが軒を並べ、ジャズが流れていたそうです。
銀座というと、東京の銀座ですが、繁華街に銀座と名づけるというのは日本国内のあちこちにあります。満州でも日本人にて作られた街並みには日本名がつけられることはよくあり、また満州でも一番の繁華街は銀座と名づけられていました。 |
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| 松花江最大の支流の川、牡丹江を紹介いたします。
大きな船の航行が可能な為、海運も栄え、海からの船も遡ってきました。
水産も豊かで、流域の農耕地を潤しているなど、松花江と同じです。
淡水の真珠も取れました。
画像は渡し場と牛車で、こちら牡丹江でも松花江と同じくほとんど流れを感じさせない穏やかな水面が見えます。
また河ならではの底の平らな小船が見えます。 |
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| 牡丹江駅前通太平路の風景で、河川の名前、牡丹江に由来する牡丹江の街並みです。
牡丹江は最近、東はソビエト沿海州に接する牡丹江省の首都で、木材の集散地でもあります。
街路樹もそろった綺麗な街並みです。トラック、リヤカー自転車が見えます。 |
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| 鉄筋の建物の並ぶ繁華街です。
看板も沢山見えます。松屋フトン店と、日本語が読めます。 |
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| さらに満州国の発展に伴い、近代的な風景も登場します。こちら、松花江水力発電所ダムの建設風景です。
巨大なクレーンが、画面内でも5基は見えます。 |
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| 左側クレーンをクローズアップしました。
窓の大きさ、手すりからおおよその人の大きさと、それに対するこのクレーンの大きさを想像しましても、大掛かり
なクレーン、そして大掛かりな工事であることがわかります。
この松花江に作られた人造湖は、世界第二位の規模だったそうです。
河をたどって見ますと、満州の生活や満州の発展が同時に見ることが出来る興味深いものです。 |
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