| まずはこちら、人力車です。
馬車や人力車が駅前で客引きをする賑やかな掛け声は満州(あるいは当時の中国全般)ならではの風景でした。
こちらも待機中の人力車の様です。面白いのは、こうした人たちの客引きはお金持ちをねらって行われることでしょうか。また見た目で大きなかばんを持っている人など、こうした客引きがあつまっていました。当時の満州国民は、旅行となると大きな鞄を持つのが好きだったようで、駅のホームでもポーターに運ばせている写真をよくみかけます。なるたけ軽装に、という考えはなかったのかもしれません。
なので、日本の旅行者が鞄を小さくまとめて持っている、あるいは先に目的地に送っておいて身軽で移動してしまうと、荷物を持っていないことからお金持ちに見えないために、客引きや人力車の人夫には無視されてしまった様です。 |
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| 満州特有の一輪車です。
この形の一輪車は満州で多くみられます。また、様々なバリエーションがあり、桶を積む為に固定治具を付けた水屋用もあります。画像は屋根を付けた一輪タクシーです。 |
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| こちらも一輪車のタクシーです。
真ん中に手すりがあり、車輪の左右に座るのが特徴として挙げられます。
ハルピンでの風景を描いたものです。 |
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| 一輪車で重い荷物を運ぶ時は、菱形の帆を立てて追加の動力にすることもあります。余り大きな帆ではなく凧程度ですので、気休め程度だと思われます。
画像は戦前の児童書、キンダーブックの絵から。この絵は元になる写真があり、そこには何台もの一輪車が帆を立てて道を進んでいる風景が写っていました。 |
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| これも満州、そして当時の中国で広く使われた駕籠です。
駕籠は当然ですが車輪がついておらず、抱えあげる必要があります。
通常、前後に1名の計2名でしょうが、こちらではさらに1名づつが配置されています。
こうした形の駕籠は当時の中国全般でみられた様で、支那(当時の中国)絵葉書にも、おなじく梶棒を追加した駕籠が写っていました。特に、近代化が進んでも尚、山間部などで使用された様です。
さてこちらの駕籠ですが、ご覧の通り装飾がなされており、これは嫁入りの籠です。中流以上の家庭の娘が嫁ぐ際、楽隊がついて行進曲を演奏しながらこの駕籠を先導します。さらに画像のものは嫁入用ですが、こうした儀式でも好んで使われた様で、当時、満州にいた人が、真っ赤に装飾した満州国民の花嫁駕籠を見かけたといった話もあります。
満州では中国全般でそうであるように、お金持ちは冠婚葬祭を重んじ、結婚式でも大いに散財したようです。
このほか駕籠では、前と後ろにロバを配置してこの背中に乗せた駕籠でのんびり、といった風景もありました。
これが朝鮮半島では大金持ちや権力者用に一輪だけついた駕籠があります。底板に棒が突き出ていて車輪が一つだけついていますので、誰かが支えていないと倒れてしまいます。使用人が常に傍に居る権力者ならではです。 |
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| まず御者にご注目ください。
おでこがやたらと広く、また後ろ髪は長そうです。これはもしかすると辮髪を解いたところではないでしょうか。
また馬車の上、小さな部屋の前には敷物が、窓にはひさしが、また馬の上までホロがかけてあり、なかなか贅沢なつくりです。
これは想像ですが、お金持ちか権力者かが使用した馬車かもしれません。
さて、キャプションから
『満州の野を旅するものの一度は、必ずお世話にならなければならぬ蒲鉾馬車である。最近は自動車が盛んに用いれるが、市街地を出ると、この種の乗り物が依然、幅を利かしているのである。』
ちなみに蒲鉾(かまぼこ)馬車とは、日本人がつけた名前とのことです。部屋に人は座って乗り込みます。さて当頁を編集するにあたって調べた範囲では現地の言葉で馬車以外に、この形をした馬車をさす言葉を紹介したものはみあたりません。おそらく当時の満州では馬車といえばこの形だったため、この形の馬車を指す言葉は無いのかも、と想像しています。
さて、やや話が脱線しますが、風俗風習で『支那風俗』といわれるものと『満州風俗』といわれるものはよく似ており、満州国を境にきっぱりと風俗や風習などが違うということはありません。生活で使っている道具なども当時の中国は全般に同じで、『支那風俗』といわれるものと『満州風俗』できっぱりと異なるものは、あまり無いように思います。
一方で、実はこの形の馬車は、満州国内で撮影されたものは画像で見たことがありますが、満州の地域以外で撮影されたものは未だ見たことがありません。 |
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| キンダーブックからの挿絵です。
これにも「カマボコバシャ」と記述があり、この名で知られているようです。
御者は、どっかと胡坐をかいて座っています。 |
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| 画像は、宿舎の前で客待ちをしている馬車で、馬車の屋根が布張りであることがわかります。写真のキャプションから。
『轎車。支那(当時の中国)一体で広く行われている旅客用の馬車である。日本人は、その形からこれを蒲鉾馬車と呼んでいる。
下手に乗ろうものなら、僅か半日で頭を瘤だらけにしてしまう。』(轎:"車"偏に橋の右側)
どうも、この記述からしますと、この形の馬車は満州だけでなく、広く中国全土で使われていた様です。
また揺れは激しかったのでしょうか、あまり乗り心地の良いものでななかった様です。 |
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| こちらの馬車も広く使われたもので、足回りには板バネがあり、椅子も大きく、乗り心地は良かったものと思われます。
写真は建設進む首都新京での撮影です。西公園付近の撮影だそうですが、公園らしいものがある雰囲気ではなく、工事中なのでしょう。遠くに給水塔が見え、右手奥には建物が建設中です。
道路は、どうやら舗装は終了していない様ですが、何故か外灯だけは先に出来上がっています。 |
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| こちらも西公園正門前の馬車で、彩色絵葉書です。
すでに新京の町並みは完成したのか、公園は綺麗に整備され、そして道路は舗装が行き届いているように見えます。
馬車は御者席と客席が分けられ、またシートが設けられているのが見えます。
周辺は人々が行きかっています。左には、和装の女性も見えます。
馬車は庶民に広くタクシー代わりに利用された様です。 |
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| ハルピン郊外で撮影された馬車です。
冬場はご覧の通り、橇を付けた馬車の出番です。
ハルピンなど北部では冬になると窓を二重にして寒さを防いでいますが、白系ロシア人はその中をこうした馬車で積極的に出かけたそうです。
また馬具で馬の上に大きくカーブした支柱を持つものは、旅客用馬車で大く見かけます。 |
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| 農作物の運搬、実りの季節、農作物を運搬する風景です。
遥かに広い平野は何度もぬかるんでいるのか轍がいくつもみられ、馬車はなかなか順調には進んでいない様です。 |
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| 大きな車輪を持つ馬車で、満州の写真でよく見かけるものです。
後ろに御者と思われます大変長い鞭を持った人物と、さらに3名が見えます。ただ、鞭はあとから手修正で書き込まれたものに見えます。 |
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| 5頭ほどが牽引するところ、行きかう人々を上から捉えた珍しいアングルの写真です。撮影は、城壁の門の上から見下ろしているのでは、と想像します。
左上、画面外に馬車があるものと思われます。馬具は簡素なものに見えます。またそれぞれの馬に紐が繋がって居て、馬同士を横に並べる馬具は見えません。
また地面は道なき道といいますか、わだちがくっきり出来ており、周辺は随分とぬかるんで、でこぼこしており、まるで舗装がなされていないように見えます。 |
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| 『満州全土にはまったくといっていいくらいに橋梁がない。馬力によって川の中でも何でも無理に往来する。』
満州で、橋といった社会資本が本格的に作られるのは近代になってからです。また満州国設立後に、多く建築されていた様ですが、広い満州では、満州国設立後も、まだまだこうした風景があった様です。
写真が不鮮明のため判別しにくいのですが、一人の御者が11頭から12頭の馬が連結されている様です。また馬の後ろで見えませんが、かなりの重量物を牽引しているのでしょうか、馬の足元は水しぶきがあがっており、相当に重たそうです。
川面は穏やかで、また水深も浅く、渡河のスポットなのかもしれません。 |
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| 太く大きな材木を運ぶ馬車の姿です。
人手で乗せられ馬に引かれて運ばれている様ですが、それにしても見渡す限りの材木の山です。 |
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| 馬による交通を紹介していますが、これは一見、牧歌的ではあります。しかし、やはり大変な輸送力を持つ手段です。画像は首都新京駅で野積みされる大豆ですが、ご覧の通り、大きな大豆袋が見渡す限りの山積みです。左下から何頭もの馬が荷物を運んできています。
撮影は既に相当に寒い季節なのか、労働者は厚く着込んでいます。 |
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| 『奥地の交通、即ち運搬には馬車によるほかない。図は貨物集散地の馬車宿で、一軒で五千坪の邸内をもつものは珍しくない。』
当満州写真館の松花江で氷上の宿を紹介いたしましたが、こちらは馬車運輸向けの宿です。広い土地に馬小屋などが配置されています。屋根は白っぽく、もしかすると雪が降っているのかもしれません。
遠くには広野が広がっています。馬車で貨物を運搬する人の、オアシスの様な存在だったのでは、と想像しています。 |
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| 松花江の支流牡丹江での撮影。
馬で渡れない川ではこうした小船が登場します。
幅の狭い小船で、渡し板の上の2名を合わせると7名見えますが、それぞれ荷物を持っており、船の上はぎゅうぎゅうになるのでは、と思われます。
またワイヤーが左右にはってあります。
船の右端、川に片足を突っ込んでいる様に見える人物は、想像ですが船頭ではないでしょうか。そしてワイヤーを手繰って反対岸まで行くのでしょう。 |
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| 当時、南船北馬といった言葉があったそうです。
これは当時の中国での旅は、南方では船、北方になると馬をたよりに、という事を指しています。
これは大河があり、川での交通が重要であったことをさしていたとも理解されます。
北方に行くと大きな河が少ないから馬が交通手段となるわけです(川を利用した水運が無いわけではないのですが)。
さて満州には大河がいくつもあり、これを利用した水上交通が盛んでした。
こちらジャンク船がうつっており、これは当時の中国全般に利用されていたものです。こちら満州でも物資・貨客の輸送業務を担っています。
ジャンク船は非常に古くから用いられてきた木造帆船で、今日でこそ廃れていますが、満州国があったころはまだまだ主流でした。
こちらは栄口付近での遼河での撮影です。
小型のジャンク特有の大きくて四角い帆を1本掲げています。
船底は平らで河で用いられる船の特徴がみてとれます。
一方で船の上側は船べりに沿って蓋をするように平らな板があり、そして貨物を載せるところは四角くに開放されています。
沖で帆を広げている船を見てみますとこの四角い部分は幌がかけてあり、また周囲の平らなところに櫂をもったり舵をもったりと船を操作しています。
ジャンク船は様々な形があり、全てのジャンクがこの船体ではありませんが、この小型のジャンクではこうした船の上面の縁をひろく設けてあるものを多く見かけます。 |
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| 安東市街地の北、鴨緑江のデルタ上に出来た町での風景、水上交通の要所の様です。
ジャンク船の構造がわかる一枚です。
またジャンク船の帆柱のてっぺんはすべて三角の小さな旗がたっています。鴨緑江のジャンク船、大連港に居たジャンク船にもこれを付けていると思われるものが多くあります。何の旗か、大いに興味のあるところです。 |
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| 同じく鴨緑江での撮影で、遠くにジャンク船が待機しています。手前は、帆柱がなく、風力ではなさそうです。これは想像ですが、何かに牽引される、あるいは竿で押して進むのではないでしょうか。 |
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| 『夏季の満州は交通甚だ不便である。それは膝をも没するという泥濘に往路を阻まれるからである。満州における交通機関の王者は冬の凍野を軽快に行きかう橇である。』
大きな牛に引かせている橇です。スピードは出そうにありませんが、重たい荷物も運べそうです。 |
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| さて、満州の交通をになう河は、冬になると凍結してしまいます。そうなると出番になるのが橇(そり)です。
こちらは遼陽で撮影された氷上の橇です。一人がひとつの橇を操って進んでいます。
凍った河は自由に行き来ができるので、先ほどの様な河を渡る渡し舟は不要となります。
一方で、春先に氷が溶け始める頃、氷が割れて水に落ちる事故も発生しました。
目撃談として、春先の朝、川面の氷に黒い塊があったのだとか。これは人の頭だったのでびっくりしたそうです。夜に酔ったまま川を渡ろうとして氷が割れて川に落ち、冷たい水のショックで即死、体は縦のまま朝には割れた氷も凍結し、川面の氷に頭だけがひょっこり出ていたそうです。お酒を飲んで判断を誤ってしまったのかもしれません。 |
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| 『北国の冬は、水あるところは総じて銀板と化す。わけて河上は交通路となって往来自由自在。これは哈爾濱松花江上の冬。対岸の部落へ行く人を待つ橇の一群。
河の中央に一列になって走っているのは大豆を満載して輸送する牛馬である。』
松花江のページでも紹介いたしました橇です。
ずらりと並んでいる中、一台が客を乗せているのか、離れたところにいます。おおよそ通るところは決まっているのか、氷の上には道の様な模様が見えます。
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| キンダーブックからの引用です。
恐らく鴨緑江の風景かと思われます。
橇にジャンク船の様な帆を立て、棒で操りながら進んでいる様子が描かれています。
風速で進むためか、あまり重い荷物は載せていないようにも見えます。 |
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| 『雪の満州で幅をきかせる交通機関はやはりそりである。
殊に珍しいのはぴつしり氷結した河の上を走る船のような帆橇である。それは氷上を走る一種の快走船ともいうべき爽快なものである。』
こちらは氷に接しているのが前後だけのものです。人が乗る部分は小さく、貨物運搬には向いていない様ですが、恐らく相当なスピードが出るのでは?と想像します。キャプションにも飛ぶと表現してあります。
背景に鴨緑江代鉄橋が見えます。 |
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