| ハルピンの続きです。ハルビン、またはハルピンと呼ばれる場合もあります。
ちなみに当HPでの記載はハルピン、ハルビン、哈爾濱と混在したものとしております。
これにつきまして、まずハルピンを優先して使っておりますが、これは当HP管理人が満州国におられた方からお話を伺った際に、この街をハルピンで覚えておられたことによります。
一方で、画像についていたキャプションやソースの書籍にはハルピン、ハルビンの両方があり、さらに哈爾濱の記載もみられます。そうしたソースからの記載を流用しております場合は、その記述を優先させますことから、結果として、ハルピン、ハルビン、哈爾濱の記述が混在した記述となっております。
これら複数の記述は、全て同じ街、ハルピンをさしますが、故意に記述を混在させております点は、何卒、ご容赦いただきます様、宜しくお願いいたします。 |
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| さてハルピンの特徴はなんといってもロシア人が多いことが挙げられます。
写真を見てみても、アジアとは思えない雰囲気をもち、また他の満州の街にはないお洒落さと活気に溢れていました。
まずはこのハルピンの成り立ちについて、当時の書籍から引用します。
『ハルビンの市街は過去における歴史の示すが如く、もと西暦1896年、ロシアが清国に東清鉄道を敷き、此の地を中心に工事を進めたことに始まり、当初、純然たるロシア式市街として建設されたもので、そのスケールの大きさに於いて北満に君臨している。』
満州におけるロシア権益の確立において、作られた街、そしてそれは大規模に作られたことがわかります。
かつてこの満州に勢力を伸ばしたロシアですが、このひたすら広い満州において、交通手段の確保は重要でした。
この地域は松花江といった大きな河川が交通の要所でもありました(松花江は、満州中央を北上して黒龍江へ合流、東へ流れて海に繋がる河で、船を使った交通に置いて、大動脈と言ってよい位置にあります)。
一方、ロシアは鉄道を敷き、交通手段を広げる形で勢力拡大を図りました。
当時の帝政ロシアは、まっすぐ南下する鉄道を敷くにあたり、この松花江と交差する場所に駅を、そして街を造りました。
鉄道が河を横切るということは、水運という交通手段とが交差するところでもあります。この交差する交通の要所に都市ができました。
ハルピンは、駅を中心に計画的に都市が建設されました。『モスコーに並ぶ街、ペテルブルグ(レニングラード)に続く計画都市、』として帝政ロシアでも注目された街でした。事実、大きなロータリーを持つ区画整備の行き届いた街並み、美しく巨大な教会がいくつも作られ、後々に大都市となるハルピンの基礎となります。ハルピンは埠頭街、新市街、伝家甸、旧哈爾賓という区域ができます。
さて地図を見てみます。
ハルピン駅周辺に大きく三箇所の町並みが見えます。これは昭和5年(1930年)の地図です。
ハルピンは満州国設立後、大きく拡大したのか、地図に描かれている地域はすべて市街地としてひとかたまりとなっています。 |
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| ハルピン駅で、白亜の駅舎です。アールヌーボー式とよばれるものです。
ところでハルピン駅として絵葉書になるのはこの画像右側にある出口あたりが撮影されています。この前にロータリーがあり、ここからの撮影がもっとも絵になるのでしょう(この写真では画面右奥方向にあるロータリーも含め、写っていません)。また駅前ロータリーで駅舎に向かって右側には広告塔が立っており、これを画面に入れた写真の絵葉書もあります。
一方、ロータリーから離れた位置で駅舎を捉えた画像の絵葉書は、私が知る範囲ではこれのみです。
この写真から判りますとおり、駅舎は横へ大きく広がっていて、駅舎の前は広場の様な広い道路であることが判ります。
1903年(日本では当時、明治36年)ハルピンから旅順間まで鉄道が開通、そのときに駅舎も完成しました。この時、平行してキタイスカヤ街、モストワヤ街の建設も始まっています。
さてハルピンは、農作業加工を主に軽工業、製粉、砂糖、酒精、油、ビールなど様々産業がありました。
食生活は、ロシア的であった為に麦粉の消費高が多かったとする資料があります。また周辺では小麦も多く生産されていた様です。
一方で、練炭が奉天に比較して割高であったという話もあります。輸送してくる物については物価が割高となっていたともいえます。 |
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| ではハルピン市街地を見てみます。
ハルピンの絵葉書で必ず登場する中央寺院で、尖った屋根を持つ独特の形状です。
この中央寺院はご覧の通り大きなものですが、実はハルピンに多くある教会の中では、さほど大きいものではなく、もっと大きなものはいくつもあります。ただ駅前から伸びる主幹道路のロータリーの真ん中にあるためか有名だったようで、多くの写真がのこっています。
内部の祭壇は非常に豪華絢爛で、贅を尽くしたものでした。多くの宗教画や彫刻があり、かつての帝政ロシアの勢いを偲ばせるものでした。また、大変な予算と手間隙をかけており、例えば木材をアメリカからわざわざ輸入していたとのことです。林業の盛んな満州でも優秀な木材をわざわざ輸入したわけで、そうとうなこだわりを持って立てられたことがわかります。さらに釘を使わず、木材を組合せて建てられており、やはりこだわりが感じられます。
これらロシア人のこだわりは、彼らの膨大な資産のお陰です。満州国が出来たころにはロシア人は凋落してしまっていますが、もともとは大金持ちが多く、かつてのハルピンには欧米の商社がいくつも活動拠点を置いたほでした。
ちなみに、この中央寺院はニコライエフスキー大寺院とも呼ばれます。また大寺院をサボールと読み、絵葉書によってはサボールとだけ記載される例もあります。
この美しい中央寺院ですが、戦後、文革の時に取り壊され、現存していません。現在もロータリーはあり、その真ん中にぽかんと空き地があるそうです。 |
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| ハルピン新市街中央寺院と博物館先ほどの画像を広く見てみます。街並みは、いかにもロシア風です。
左側の建物は博物館とのことです。
歩道と建物の間に気が植えてある小さな庭と、いくつもの小さな階段が並んでおり、まるでアパートの様です。このほか、中央寺院のあるロータリー周辺には、ホテルニューハルビンやアパートがありました。
このロータリーの東には奉天街や花園街といった繁華街がありました。
駅から北、北東方面(松花江がある側)には新城大街、地段街、買賣街、そして一番の繁華街、キタイスカヤ街(中央大街)がありました。
キタイスカヤとは中国人街の意味で、かつては埠頭区の建設時に中国人労働者が多くおりました。ロシア語で中国を「キタイ」と言います。キタイスカヤ街は「中国人街」と言うことになります。ハルピンに於いてロシア風な街が中国人街と呼ばれていたのは、興味深く思います。
ただ日本人の多いところについては、内部は日本式だったようです。
登喜和百貨店というデパートが地段街付近にあり、これは内容を日本の百貨店と同じにし、売るものから食堂に至るまで内地と同じに揃えました。つまりずらりと日本品をそろえたわけで、これは在満邦人の人気をあつめました。また日本からの旅行者もここの買い物に夢中になったという話しもあり、相当な品揃えであったことが判ります。 |
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| では、中央寺院をクローズアップしてみましょう。
寺院は外周を木で囲まれており、遠くからは屋根しか見えません。
こちらの写真で壁、そして入り口と思われる階段が見えます。
壁は丁度、ログハウスのように木が組み合わせてあります。これなら釘を使わずに建設できるわけです。 |
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| では、さらに屋根をクローズアップ。
特徴のある十字架、丸みのある飾りも細かく意匠を凝らしてあることがわかります。 |
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| 欧風のビルが並びます。また道路は広く確保されています。また道路ですがハルピンの都市部は舗装が行き届いていたはずで、こちらも舗装、あるいは石畳で路面を固めてある物と思われます。
さて、ハルピンですが、今日の中国の歴史では中国がこの街を造ったことになっています。
もともと松花江で漁業をする寒村があり、それをロシア人が広げたということでロシア人起因ではないことになっています。
確かに戦前の書物にも
『鉄道開通以前は、一寒村にすぎなかった哈爾濱も、哈爾濱の東方経営の大策源地となってこれらの急速の発展をなし、一時満州の中心となでなった。西洋風の市街としては、立派ではないが、三十余国の民族が雑居し、国際都市の観がある。』
と記述があります。寒村と記載される小さな村がここにあったことは確かな様です。
ただ、一応はロシア人の街と理解するのが妥当か、と考えます。
まず、計画都市をつくるにあたって、例えば新京や奉天は古くからある交通の要所にあり、且つ古くからある大きな街に隣接させて都市を作りました。つまり、従来からある都市を拡大したわけです。
一方で、ハルピンは、鉄道交通が敷かれた際に、水運と交わる要所という背景をもって造られた街です。つまり鉄道がきっかけで街が出来たわけですし、その核になったのが漁村というのでは、不自然に思えます。
勿論、漁村はあったと思われます。この松花江流域は漁業が盛んで、ぽつぽつと漁村がありました。これは松花江、そしてこれが合流する黒龍江でも同じでした。川の付近の平地で羊を飼い高粱を作り、そして魚を取って樽や壺に塩漬けの魚を作ってこれを船で運んで売り、生計を立てていました。つまり、ハルピンに限らず漁村が点在していたところです。鉄道交通を差し引いて地図を見た場合、後の大都市の核となる漁村がここにだけあったとも考えにくく思われます。 |
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| 引き続きモストワヤ街です。二階から大きなベランダのついた建物です。看板はロシア語と中国語が見えます。
こちらは石畳が見えます。 |
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| 引き続きモストワヤ街です。
キャプションに『壮麗なビル櫛比する』とあります。
綺麗に舗装された道路にバスや人力車が行きかうのが見えます。白い壁と手すりの付いた出窓がお洒落です。
建物の右上、明治キャラメルと、日本語の看板が見えます。この他、画面中央やや左に「味の素」の看板があります。 |
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| 巨大な鐘をもつ寺院です。如何にもロシア風な、たまねぎ状の屋根が並んでいるのが見えます。
実に大きく荘厳な建物です。
豊かで贅沢な帝政ロシアの名残とロシア人の敬虔な信仰心との融合でしょうか。 |
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| 彩色写真です。
歩道までブロックが敷き詰められた舗装となっています。
またハルピン市街地の写真では珍しい、和装の日本人が写っています。振り返っている方の女性は、なにやらすれ違った女性の帯を値踏みしているように見えます。
ハルピンにも日本人は大勢居ました。これについて、1935年(昭和10年)の満州日報に『目ざましい邦人の北満進出』として記事を掲載しています。
『遠大な希望と不撓不屈の決心の下に北へ北へと進出する邦人の数は逐年増加しつつある。
従来邦人の姿さえ見なかった奥地への進出は目覚しいものであるが、殊に牡丹江(※ハルピンの東、松花江の下流、黒龍江にある)に邦人三千百五十名もあるのには驚かされる。
北満で異常の発展をしつつあるハルビンは同年六月に比し三千人の激増である 。』
では、満州国設立前に何人の邦人が居たか、については未だ資料を見つけていませんが、まとまった数の人たちがハルピンなど北満へ移住をしていることがわかります。またそれが本格的になったのは満州国設立後であったといえます。
一方、かつて日本とロシアは日露戦争で衝突し、その結果、ロシアは帝政の威信を大きく傷つけられ、国の崩壊の遠因となりました。さらにハルピンに多く居るロシア人は帝政ロシアの流れを汲む人達(いわゆる白系ロシア人)ですから、ハルピンへ移住するにあたり、彼らの対日感情を心配した、という話もあります。
しかし対日感情は悪くなく、むしろ当時、ハルピンにおられた方の書物からも、とても友好的に接していることが判ります。
互いに言葉を覚えて交流し、日本人はロシアの食生活を大いに楽しんでいます。 |
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| 大きなショーウィンドウの有る店舗です。
右側ショーウィンドウには上半身だけのマネキンが見え、服屋さんの様です。
画面右側の右へ向かう白っぽい服の紳士は子犬を連れているのがお解かりでしょうか。
真ん中のショーウィンドウは、道路のこちら側の風景が写りこんでいる様です。
さらに画面左側、歩道にはベンチが見えます。
そのベンチの左上、ガラスの文字はカタカナで、カフエーと読めます。
そのほかの看板は全てロシア語ですが、ここだけ日本語です。
ロシア人はハルピンに多くおり、人数は5万人から10万人と言われました(人口の増減もあったのか、資料によりロシア人人口は、まちまちです)。
ここを訪れる日本人は、この街の雰囲気に面白みを感じてか、より街を楽しむべくロシア語を覚えた様です。ロシア人も親日の雰囲気があり、日本語を積極的に覚えていたようです。
日本からハルピンへ来た夫婦がアパートを探す際、幼い子供連れで部屋が借りにくいかもしれないと心配していたところ、大家のロシア婦人が、子供をかわいいと抱きあげて部屋に案内してくれた、といったこともあったとかで、互いにごく自然に接し合っていたことがわかります。 |
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| ハルピンを代表する繁華街です。キャプションから引用します。
『代表的繁華街キタイスカヤは埠頭区にあり、各国の代表的商館も多く此の通りに集まっている。
洗練された街観を有してア・ラ・モードを街に振りまくキタイスカヤの夜を訪ねれば、パリのモンマルトル、ロンドンのピカデリ等の気分を湛へて(たたえて)豊かな異国情緒を遊子の胸に印する。』
日本で言えば銀座でしょうか、パリやロンドンも引き合いに出される繁華街です。
ここにはキャバレーも多くありました。当時のキャバレーは、今日のイメージとは違い、楽団と踊り子のショーや、ダンスホールを兼ねた社交場です。 |
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| 寒そうな冬の朝の光景です。
路面は石畳に舗装されています。ハルピンは満州のほかの地域と同じく、あまり豪雪地帯ではありません。また除雪でもしてあるのでしょうか、雪や氷は見当たりません。
右側、広告塔があり、思い思いにビラが貼り付けてあるようです。
この広告塔がみられるのは、満州ではハルピンのみで、ロシア人的発想の産物なのでしょう。
さてロシア人は豊かな食文化があり、それは日本人の憧れでした。
ハルピンに移り住んだ人、旅行で訪れた人々もこれらロシア料理を楽しむのが常でした。
そうしたロシア風の食文化は、いくつもの書籍にも登場します。黒パン、サラミ、そしてチョコレート、今日では我々にはなじみのあるものですが、当時はやはり珍しく、また大変、好まれた様です。
チョコレートを例にとっても、色とりどりの銀紙に包まれた、一口サイズのチョコレートも、珍しさと好感をもって受け入れられました。綺麗な包装紙をそっとはがし、チョコレートを口に入れ、包装紙はしわを伸ばして大事にとっておいたとか。
当時もチョコレートはひろまりつつありましたが、板チョコか、あるいはかなり厚い塊をかなづちで叩いて食べるといったものでした。ハルピンでのチョコレートを宝石箱と書いた書物もありますが、なるほどとも思います。
さらに洋酒入りなどの様々なチョコレートを量り売りするなど、日本人の眼にもめずらしいものばかりでした
またお茶も人気で、またそのお茶にお湯を供給するサモワールは旅行者にも在満邦人にも印象的だったのか、様々な書籍に登場します。
サモワールは中に石炭を焚く小さな燃焼室を内蔵したポットで、小さな蛇口から常に沸きたてのお湯が得られるという優れものでした。レストランやカフエー、そしてお客として呼ばれたロシア人の家にサモワールがあり、沸かしたてのお湯がコップに注がれる、これは愉快な驚きを与えたものと想像します。
これは今日、簡単に温水器からお湯が得られる時代と違い、欲しい時にお湯が得られるサモワールは嬉しい贅沢品だといえます。湯気の立つサモワールひとつとっても、ハルピンは、日本人にとって異国情緒を楽しむところでもあったのです。 |
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| 冬場のキタイスカヤ街です。
道路の向こうに、とんがり屋根の建物が見え、これは松浦洋行です。
さて、ハルピンのロシア料理は、旅行者にも住んでいる在満邦人にも珍しく、また人気のあるものでした。
寸胴鍋に肉と野菜を入れて煮込む(ブイヨン?)、スープ類(ボルシチ等)、あるいは大きな肉の塊を丸ごとオーブンで焼くローストビーフなど様々な目新しい食べ物がロシア料理にはあり、これらはとても珍しかったと思われます。 |
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| 先ほどの撮影場所から左側の歩道を松浦洋行へ進んだ場所での撮影です。
さて、満州では日本本土より肉類は豊富で、ここハルピンも肉類は豊富でした。そのため、肉屋は印象深いものだったようです。
まず冷蔵庫に大きな肉の塊があり、これをざっくり切ってステーキにするなど、今日ではおなじみでも、当時は日本人の眼には珍しいことだったようです。
さらに鶏肉ですが、これは店頭には陳列していません。鶏は生きたまま肉屋の裏に飼ってあり、注文を受けると鶏を捕まえて客に肉付きを確かめさせた上で、その場で絞めて捌いて(さばいて)渡してくれるそうです。慣れたロシア人は生きたままもって帰って家で捌く事もあったのだそうです。
日本でも鶏を捌くというのは昭和40年初頭まで田舎では普通に見かけられた様ですが、今日では馴染みのない光景です。 |
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| さらに松浦洋行へ歩んだ場所での撮影です。
キタイスカヤ街はロシア風の建物が並びます。そのなかで、同じくロシア風の建物の松浦洋行(松浦商会)がひときわ高い建物です。背が高いことから、この最上階の眺めも良く、キタイスカヤ街を見渡す写真は、ほぼ、この松浦商会の最上階の円筒ドームの窓からの撮影です。
建物の角はカーブを描く優雅なデザインで、またこの写真では写っていませんが、女神のモニュメントもあったそうです。
人通りは多く、またロシア語やアルファベットの看板に交じり、中央ホテルの看板があります。 |
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| 『翠緑の並木、舗道に玉露が雫る。白日が、今日も笑う、光南崗直街の付近。躍如たり、哈爾濱の面目』
同じくハルピンの街並みです。路面電車も通る広い道路の両側にはグリーンベルトがあり、広い歩道もあります。
道路沿いの建物に白く四角いものが並んでいますが、歩道へ張り出すテント屋根の様です。この下にテーブルを出したカフェーがあるのでは、と想像します。
こうしたカフェーにはアイスクリームを出すところもありました。これも日本人には珍しく見えた様です。 |
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| ハルピンの銀座といわれたキタイスカヤ街を見下ろします。
幅広い歩道を持つ舗装された道路がみえます。
左側ビルは窓の日よけのデザインが統一されています。
また歩道に沿って日よけと思われますひさしが並んでいます。
広いショーウィンドウが並ぶハルピンならではでしょう。 |
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| さてハルピンは、ロシア料理のレストランがいくつもありました。
当時のメニューにコーカサススープというのがありました。店頭の看板に、カタカナでランチの案内に「コーカサススープ」と記載があったのです。残念ながら、これがどういうスープかわかりません。当HP管理人は料理には疎く、今日、ずばりこの名の料理があるかどうかは把握できておりません。ロシア料理は多くがシチューやスープですし、そうした物の具がコーカサス風、つまりソ連のコーカサス地方、中央アジア風ということでしょうか。
ヤマトホテルではロシア料理、和食、そしてコーカサス料理というジャンルがあったそうです。これは羊の焙り肉であったそうです(シシカバブでしょうか?)またハルピンにはコーカサス料理の居酒屋(ビストロ?)があり、これも羊肉であったそうです。
2005年に日本は名古屋で開催された愛地球博ではコーカサス共同館があり、コーカサススープというものを食べることが出来ました。これはトマトやたまねぎを煮込んであり、薄いナンが添えてあったそうです。
しかし、私は当時の満州のコーカサススープは、こうしたあっさりしたものではなかった、と考えています。
まず愛地球博の場合、今日の我々のイメージを優先した事が挙げられます。コーカサス地方には長生きの人が多い、放牧の土地柄であり乳製品がさかんで、これは健康に良い。いわゆる今日風な"ヘルシー"のイメージがあります。コーカサス由来ということでいえば、ケフィアというのがあり、日本でも商品化されましたが、これは牛やヤギ、羊の乳で作られる発酵した乳飲料をさします。これも今日、飽食の我々が言う、いわゆる"ヘルシー"をイメージするものです。
一方、満州国では、当時、乳製品が日本人に馴染んでいない、ロシア料理としては肉類が人気を呼んでいたことから、今日で言うところの"ヘルシー"をイメージするものではないと考えます。
そこで、私なりの想像ですが、ごく普通の肉類のスープに、コーカサスを連想させる食材を使ったものではないかと考えております。
はるか内陸の中央アジア、当時の日本人には馴染みのない異国でもあります。そうなると牛や鶏といったものではなく、もっと異国の雰囲気で、且つ馴染みの薄い肉類を、例えば羊の肉を使った事が挙げられます。さらに保存が利き、痩せた土地でも育つ豆類を入れるとそれなりの料理になりそうです。つまり羊肉と豆のスープでは、と想像します。
但し、羊の肉の臭いに当時の日本人が馴染んだかどうかが不明です。戦後ですが、古い料理の本に羊料理の臭いを"むせる"と表現したものがあり、なかなか馴染めるものではなかったかもしれません。そこで、ハーブなどを放り込んだかも、などとあれこれ想像しております。 |
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| 冬の街並みです。
路面電車が走り、そしてその架線や電柱がまっすぐな道路にそって遠くまで見えます。
さて、ハルピンでの市街地ですが、多く地下室が作られています。
地下のダンスホール、地下の洋食屋など様々に利用されていました。
一方で松花江は水が溢れ出し洪水を引き起こします(水兵さんの見たハルピンを御参照ください)。
この増水は、太陽島およびその周辺の人々の家を水没させてしまいます。
しかし、市街地に地下階があることから考えましても、こうした洪水は市街地までは及んでいなかったのでしょう。
ちなみにこの洪水は何故か夏を過ぎると増水しておきた氾濫だそうです。しかも日本の河川と違い、濁流が一気に流れ込むのではなく、ゆっくりと流れる松花江の水位がどんどん上がってくるものでした。
別途掲載しております「水兵さんのみたハルピン」での洪水も、屋根の上に避難している人が厚着でないことから、この夏過ぎの増水を捉えたものかもしれません。 |
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| 沢山の看板が見えます。そして自動車も多く見えます。自動車の形は古く、1930年代初頭の撮影では、と想像します。
看板はすべてロシア文字で、日本語や中国語はみあたりません。
また建物の様子をクローズアップしてみましても、何屋さんかは一寸、判別がつきません。
ロシア文字が読めますと、まだ何屋さんかがわかるかもしれません。
さて、こうした表通りには大抵、カフェーがありました。この中のどれかもカフェーかもしれません。
カフェーと言えば、ハルピンの洒落た店では紅茶、レモンティー、氷をたっぷりいれたアイスティー、ミルクティーなどが楽しめました。これらは今日、我々にはなじみのものですが、元々ロシア式だったわけです。明治製菓が営業する喫茶店もあり、ここではロシア菓子を出していました。レモンティーとの組み合わせに人気があった様です。ロシア由来の食べ物は今日も多くありますが、ティーに関しても、もしかすると紅茶の本場とされるイギリス経由ではなく、満州のロシア人経由もあるかもしれませんね。 |
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| 同じくハルピン市街地で、馬車をクローズアップしています。馬具がアーチ型を描いており、この頃の満州の馬車の特徴です。
さてカフェーや料理屋を営むロシア人の中にスターリンに容姿の似た人がいました。ご自身も容姿が似ていることを自覚してか、ヒゲまでそっくりにしてお客を愉快に驚かせ、人気を呼んだそうです。ハルピンのどのあたりか、までは把握できませんでしたのと、最初、これは露西亜料理店で聞いていましたが、カフェーでは?という話も伺っており、実際はどうだったかは把握できていません。
ただ、既にソ連における大粛清、コルホーズ政策の失敗による餓死、そして民衆の亡命は報道でも広く知られていました。特にロシア人の故郷であるソ連では、ホロドモールといった大失政もおきています※。
ロシア人にとって、粛清の無い満州国でスターリン(もどき)の給仕する料理やお茶を楽しむというのは、恐らく在満邦人にも、今日の私たちにもわからない感慨があったものと想像します。
※ホロドモールについては、ウィッキペディアに詳しく記載があります。またHolodomorで検索するとその惨状の記録も多数見ることができます。 |
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| 北満ホテルと読めます。またこの建物には左側にドームがあります。
手前の支柱は路面電車の架線のものです。 |
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| 『これ以上、余計なことを言ったらすつかりぶち壊してしまいそうな美しい雪の道、憂々の蹄の響きも静かにう案が進む。仲睦まじい夫婦の散歩姿。』
平和そうな光景です。
当時の新聞では、ハルピンよりはるか北、ソ連との国境では、生活に困窮したロシア人が決死の覚悟で冬に凍った河を超えて満州へ亡命してきていた有様が報道されていました。革命後も飢えた生活に変わりが無かったわけです。
同じロシア人でも、こちらハルピンののどかなロシア人の後姿からは、ロシアの惨状は想像がつきません。 |
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