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満州写真館 交通その2

     

                        
さてここからは近代化する交通です。

画像は日本の山口は下関から満州の海の玄関である大連へ向かう航路で、満州の大地が見えてきたところを撮影したものです(とキャプションにあるのですが、撮影した位置がやや海面に近く見えます。海を渡る客船の甲板から撮影したのであれば、もっと海面から高い位置では、とも思われます)。遠くに見えているのは遼東半島と思われます。

大連港貨客埠頭から防波堤を見る
日本の下関から航程約四十数時間で日本の博多などから大連へ到着します。船では一晩過ごします。お風呂なども完備されていました。

大連の旅客埠頭での撮影で、大連のページでも紹介いたしました旅客埠頭と思われます。
また、これは想像ですが、船が到着したところではないでしょうか(出発であれば、船の客と見送りの間でテープが投げられ結ばれるのですが、それが見当たらないことから)。
手前、出迎えの人々も正装している様です。

ここで二つほど、確認が取れていないお話を。
連絡船においては個室が設けられており、家族は一緒に過ごすことが出来ました。が、男女は基本的に別だったそうです。つまり家族で無い男女は一緒の部屋では駄目、子供のいない新婚も別室で、という配置であった、というお話を聞いたことがあります
大連まで叔父に会う為、姉と一緒に船に乗った方が、姉弟だったため同室配置は別に何も言われなかったということでした。ただ、書籍類で男女別室の話は見かけておらず、現在、確認が取れていません。

もうひとつ、当時のお話を伺う機会がありましたなかで、大連港から鉄道大連駅まで地下鉄があったように記憶していらっしゃる方がいました。地図では路面電車があり、また写真でも路面電車とともにバスがあり、これらを使って路面電車で連絡しているものと理解しておりましたが、地下鉄があるのであれば地上の雑踏を避けられますから、実に便利です。大連港、そして大連駅はそれぞれ主要な場所ですから、直通の手段があるのもうなずけます。ただこの地下鉄の話はこの一件のみで、他では確認できておりません。この方は当時、大変幼かったそうで、記憶違いの可能性もあるかもしれません。

大連港 埠頭
遠くには防波堤が、その外と内側には帆を立てたジャンク船がみえます。そしてて埠頭には近代的な貨物船が見えます。こちら大連は古くからの輸送と新しい輸送が同時にある風景が展開していました。

広野をつらぬく鉄道
満州国の動脈である鉄道です。
山中の町の吉林と長春とを結ぶ吉長線です。山間を抜ける線路ですが、写真は平野部に出てきたところの風景でしょうか、遠くになだらかな山が見えます。
写真は丁度鉄橋を写しており、セメントで作った橋脚や周辺を固める石垣が見えます。
また周囲を見ますと、雪が降り始めており、厳しい冬を迎えようとしているところと思われます。

満州国設立後、交通網の拡充が図られました。

まずは南満州鉄道、いわゆる満鉄から記載してみます。これはネットにも紹介があり、早速引用してみます。
『ポーツマス条約によりロシアから獲得した長春以南の鉄道および付属事業を経営する目的で1906年(明治39)設立。半官半民で、満州国成立とともに、同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された。さらに鉱工業を中心とする多くの産業部門に進出した(45年、中国が接収)。』
建国当初からの鉄道の伸び、また鉄道利用者の乗客については資料により数がややまちまちですが、概ね以下の推移の様です。これは満州の鉄道を担った満鉄の資料ですが、乗車人数の推移として明治40年約151万人、これが昭和元年には829万人、昭和3年には970万人であったそうです。貨物取り扱いトン数も飛躍的に増え、明治40年当時148万トンであった貨物は昭和3年には1,932万トンに増えています。

満鉄営業線延長について
本線(大連埠頭〜新京間:70万4千キロ)
安奉線(蘇家屯〜安東間:26万キロ)
旅順線(周水子〜旅順間: 5万キロ)
栄口線(大石橋〜栄口間: 2万2千キロ)
撫順線(蘇家屯〜撫順間: 5万2千キロ)
渾楡線(蘇家屯〜楡樹台間:  4千キロ)
煙台炭鉱線(煙台〜煙台炭鉱間:1万5千キロ)
寛城子連絡線(新京〜寛城子間:  2千キロ)
以上、合計で約111万キロです。

中国資本による鉄道もありました。いわゆる支那(当時の中国)鉄道ですが、こうしてみると、満州には複数の資本・系列の鉄道があったことになります。南満州鉄道の成功を見て、露西亜、支那(当時の中国)は、競って鉄道を敷こうとしていたわけです。
ただ、当時の書籍では、あまり効率の良い利益を上げていない様に書かれていますが、鉄道敷設ブームは大きく、その要因を書いたものがありましたので、引用致します。
『支那鉄道
最近、満州に於ける支那官民における鉄道敷設熱の勃興顕著なるものがある。
東支鉄道敷設にあたり、チチハル省での猛烈な反対にあい、ついに南三十キロを通過するのやむなきに至った答辞に比して、まことに隔世の感なきを得ない。
その原因はひとつにして足らないが、満州に於ける特殊の原因として次の諸項を挙げることができよう。
一、満鉄、そのほかの外国関係鉄道の顕著なる業績が与える刺激、特に満鉄の挙げつつある業績が支那一般人士に大して鉄道業の有利なる事を知らしめたこと。
二、利権熱として、鉄道敷設熱となったこと
三、軍事的影響、すなわち紛乱の絶え間なき支那において、その軍及び軍需品を外国鉄道による輸送する事の不便を痛感せしめたこと。
四、軍閥、官憲、地主の私利的目的。鉄道敷設の美名の下に所有土地の値上がりをもくろみつつある。』

この四番目では、土地の有力者の土地に無理やり線路を曲げて駅を作った例が黒龍江省でおきたそうです。
さらに満州国設立前、かの地で大きな勢力を誇っていた軍閥が大連まで線路を敷く計画を建て(既存の路線と平行して?)利権を独り占めする計画を立て、北京政府が売国線と非難したという話もあります。

この他,、英国資本の線路もありました。日本では明治時代の頃(満州国が設立するよりも以前)、丁度、満州国の南西部の付近にあたります。営業区画はさほど長いものでは無く、経緯など詳細は把握できていません。すくなくとも山海関から新民屯までは線路を延ばし、はるか奉天を目指したもののロシアに阻まれて実現しなかった様です。


では鉄道のスナップをいくつか紹介いたします。
写真は蒸気をふきだしつつ走り始めた南満州鉄道(満鉄)の機関車です。撮影場所は不明ですが、扇情に線路が配置されているのが見えます。
満州では軌道が日本よりも広く、大型の機関車を導入できました。そのおかげもあり、満鉄社員が語る当時の満鉄の盛況ぶりを話す逸話のなかに、全長750メートルを超える貨物列車も珍しくなかったというのがありました。
戦後、日本の貨物列車の最長は約550メートルですので、これよりもはるかに長い列車です。ただ、日本の国鉄の場合は、安全面と長時間踏切をふさぐことへの懸念から、これより長い列車にはしないそうですので単純に比較は出来ませんが、相当な長さの列車です(これを超える長さの列車となると、戦後アメリカの大陸横断鉄道で全長2000メートル超えといったものになります)。

鉄道は、満州国のあらゆる活動の動脈でした。画像は、広い荒野を走る
満鉄の列車で、遠くには高粱と思われます畠も見えます。
満鉄は最終的に広く満州の国土を線路で結ぶことが出来ました。そして満鉄の自慢は
そのダイヤの正確さでした。
これは満鉄のみ成しえた事の様です。
満州国設立前、かつてハルピンへ行く人が長春で満鉄から露西亜が運営していた東清鉄道に乗り換えた時の体験記に、出発時間も到着時間も不正確だというのがありました。

さてここで奉天から首都新京への訪問で満鉄の列車に乗った体験談がありましたので紹介します。
特急ではなく、普通列車です。
まず筆者は、列車の大きさに驚いています。日本より軌道の幅が広く、そして実際に日本よりも大きな車両でした。
『奉天から新京へ
はじめて見る満州の汽車は眞に大きかった。
駅に侵入してきた機関車など見上げるばかりの大きさでいかにも頼もしそうであった。
これはひとつには満州の駅のプラとホームが日本内地のそれに比べてずっと低く、四段ほともステップを登らなければならない所為もあるが、レールは広軌だし、故に車体も大きい。貨車も日本の貨車の様な小さいものは全く見られず、二倍くらいの大きさが標準であるらしい。
客車の内部にはさほど広いとも思わなかったが、天井が高く、全般にどっしりした感じがする。
汽車は奉天を出発、古風な佛塔が市街に1基と背後の山の上に二基建っている鉄嶺をすぎ開原、四平街と過ぎて汽車は公主嶺駅に停車したが、公主嶺というから高い山の上でもあろうと思っていたのに一向に山らしいものが見えない。
やはり見渡す限りの平原で満州では嶺は必ずしも山ならずと悟って呆れたような関心をした。』→続きます。

奉天から新京への電車搭乗記の続きです。
『新京に近づくと赤煉瓦造りにペチカの煙突が何本もつつ立った同じような住宅がぎっしりと並んで立ち、その背後、遥かに国務院や治安部などの近代的な大建築がそびえていて目覚しい勢いで建設し発展しつつ新興首都らしい息吹が感ぜられる。
新京駅では下車客に一人残らずペストの予防注射をやっていた。
私は幸い予防注射済の証明証をもっていたのでその手数は省かれたが、これから寒くなるという時季にペストの予防注射など、おかしいと思ったが、満州では夏よりもペチカで室内を暖める冬場を暖める冬の方がペスト菌が繁殖するからだそうで、これも満州異風景のひとつであろう。』
国内移動でも予防注射が要るというのは、今日、なかなか考えにくいことですが、天然痘など様々な病気が猛威をふるい、人の命を多く奪っていた土地がらでもあり、予防注射は必須だったのでしょう。
また、話題としては脱線しますが、ペスト流行に伴い、役所が鼠を一頭五銭で買い上げるといった対策も実施したことがあります。
これは丁度、「薮入り」といった落語でも丁稚がこれで小遣い稼ぎをしていることでご存知の方もおられるかと思いますが、日本でも行われていたことでした。
さて満州の予防注射ですが、これは証明証を受け取り、これを携帯する必要があります。古道具屋にこの満州での証明証がありましたが、きちんと印刷した様式に判子の押されたものでした。
画像は新京駅のプラットフォームです。大きな機関車に引かれた列車で、客車の先頭は郵便車両の様です。

特急あじあ号
今度は、首都新京から奉天へ。今度の搭乗は、特急あじあ号です。
『奉天に引き返すことに急ぐままに特急列車「あじあ」号のしかも一等展望車の客となって、なにしおう、その豪華さや快速振りを味わえたのは面白かった。
パシナ型機関車に曳かれて新京駅のホームに滑り込んできた「あじあ」は、なるほど大きくて立派な美しい列車であった。
屋根は丸く鋲ひとつ出ていない平坦な車両の外皮は車室よりまだ下の方まで延びて車輪の部分だけをくりぬいて覆っている。
車輪は普通列車の客車は前後四輪づつであるが「あじあ」の車輪は六輪づつで実にどっしりした感じである。
新京を発射してから幸い展望車の最後部の座席が空いていたのでそこに席を占めたが、そこは「あじあ」の快速を味わうには最適の場所であった。
次第に速力が加わって最高百二十及至百三十キロ字という自慢の快速ぶりが発揮されるようになると、沿線の電線も通過する駅のホームも飛ぶような速さで航法へ流れていって全くその速さには打たれてしまう。
しかも満州の客車の二重壁、二重窓の硬貨は車輪の轟音を小さく消音しているので眞に流れるような滑らかな静かな走行ぶりで壮快を極める。
二重窓は冬は暖房によく夏は冷房されて快適なものだそうだが、また列車のすれ違いやトンネルに入ったときにも乗客の耳へ圧迫を与えない効果がある。
「あじあ」は新京から役300キロを三時間二十八分で突っ走って奉天駅へ滑り込んだ。』
画像は新京駅でのあじあ号です。

特急あじあ号
前述の体験記は、「一等展望車の客となって」とあり、最後尾の特等車両であることがわかります。
その乗り心地についても言及があり、満鉄の技術の粋をあつめた車両であることがわかります。
台車(ボギー台車)は振動を減らすため、通常は4輪ボギーであるのを6輪に、これにゴムパッキンの防振材を軸受けや各種バネの上下に採用し、細かな震動の吸収と消音に効果を発揮していました。

画像は不鮮明で判りにくいのですがあじあ号最後尾で、実に大きな車体です。
通常、こうしたサイズでは六十数トンの重さとなるそうですが、あじあ号は徹底した軽量化を図っていました。手荷物郵便車は54t、客車は56.5t、食堂車はさらに重いのですが、やはり軽く押さえ59tでした。
こうした最先端のあじあ号車両の新造費用は特に高く、通常の客車が3万〜3万3千円であったのが、あじあ号では2等車7万1千円、食堂車8万2千円、展望車は最も高く8万4千円でした。アルミニウム合金などを採用したことも要因としてあると思われます。

こちらは戦前の食堂車で、残念ながら満州ではなく日本国内のものですが、当時の車両の雰囲気の参考のため、掲載しております。こちらは車両の横幅も満州のものより狭く、また天井も低い様です。
両側、窓の上に電燈が等間隔にあり、またウェイトレスも見えます。またこの写真は実際に食堂車両が利用されているものではなく、やらせの様です。光の当て方もスタジオっぽいですし、また窓の外などは絵になっています。また、この食堂車両の写真は、別にもう少し右の位置から左手前の家族を撮ったものがあり、その写真も窓の外は絵となっていました。
さて鉄道の発展に伴い、日本国内も満州も、こうした鉄道でのサービスも盛んになりました。が、満州では地方に行く列車で食堂車が廃止になる例があり、そうした場合、客は駅のホームで買い物をしました。
こうした客をあてこんで、ホームは行商で賑わったそうです。また満州の場合、列車の窓まで売りにくるのではなく、客がホームに降りて買い物をするのが特徴でした。
ホームでは地元農民が売りに来るスイカをその場で切ってもらって食べ、喉を潤したりしています。
この他、干しバナナやチョコレートを売っていたとの話もあります。


では当時の旅客運賃の資料がありましたので、紹介いたします。
大連−新京間  3等10円89銭 1等31円29銭
奉天−安東間  3等 4円28銭 1等12円15銭
奉天−山海関間 3等 7円56銭 1等21円00銭
新京−ハルピン間3等 4円36銭 1等12円10銭
東京−大阪間  3等 6円00銭 1等18円15銭
おおむね、3等が1等の三分の一の価格で、それは一番下の東京・大阪間の国内と同じです。ちなみに東京駅で、満州の駅までの切符を買うことが出来ました。

撫順駅スタンプ
南満州鉄道の営業が満州国全土に広がり、産業に活用される一方で、旅客移動も盛んになり、旅行ブームもおきました。特に満鉄は日本国鉄と同じく、列車の運行がダイヤ通りで、これは旅行者に大変好評でした(かつて南満州鉄道が長春までしか営業していない時、ハルピンへ行く旅行者が東支鉄道に乗り換えをした際、この列車は一体何時になったら出発して、何時付くのか、大変な不安にかられたという体験談もあります)。

さて旅行ブームに伴い、各駅は、自身の駅のスタンプを準備していました。今日でもスタンプラリーなどのイベントもありますので、当時の旅行者もこうしたスタンプを押すのは楽しみの一つだったと思います。こうした南万種鉄道の駅のスタンプを集めたサイトもありますので、是非、ご参照ください。各駅が意匠を凝らしています。
画像は撫順駅のもので、絵葉書に押されていたものです。昭和10年7月13日のスタンプです。
煙突、そして縦坑櫓が、そして周辺のぎざぎざは露天掘りでしょうか。
ちなみに昭和、そして撫順駅は左から右へかかれています。これは恐らく、数字に合わせたのでしょう。戦前は右から左、戦後は左から右に書かれると一般的に思われていますが、左から記述は戦前からあります。アルファベットや数字の併記で顕著です。読みよい様に使い分けたのでしょう。

大連は沙河口の車両工場です。
車両の大きさ、整備工場の巨大さと機関車の整備状況がわかる写真で、あちこちの書籍で引用されています。一番手前、機関車のボイラーが置かれています。それにしましても、機関車はメンテナンスにあたり、主要構成部分毎にばらばらにされており、ここまで分解されると、一見して機関車には見えません。
また天井には重たいはずの機関車が釣り下がっている驚きの光景でもあります。

鉄道敷設工事現場で、線路敷設機械が活躍しています。
今まさに鉄道を敷こうとしている側からの撮影です。機械は蒸気機関でしょうか、機械は蒸気に隠れて写っていません。
斜めに延びたアームから線路のレールが下ろされるところです。左から手前にかけて、人の肩にのって枕木と思われます四角い柱も運ばれてきています。
周囲には見物人があつまり旗を振って応援しつつ見物をしています。線路の敷設機械は線路を敷きながら前へ進んでいるのでしょう。またそれは、見物するに実に楽しい光景だったと思われます。

沿細河の鉄橋
大きな河をまたいで鉄橋がかけられ、列車が通りかかっています。
客車を引いているようです。

さて、満鉄の機関車は日本のそれより大きなもので、アメリカの大陸横断鉄道に匹敵する巨大さでした。
当然、日本の車両よりもはるかに力が出ており、貨物列車も全長が750メートルに達するものがありました。
戦後の日本の国鉄の貨物列車は最長で約540メートルです(コンテナ車両)。これよりさらに200メートルも長い車両です。もっとも日本の戦後の場合、様々な保安基準からこの長さを限界としており単純な比較は出来ませんが、いかに満州の貨物列車が長く、その輸送力が大きなものであるかがわかります(これを超える一キロ以上の列車長のものは、戦後のアメリカ大陸横断鉄道などで見られます)。
かくして、満州の産業は、鉄道輸送の力という動脈を得て、発展をしていきます。

公主嶺駅
冬場と思われます公主嶺駅に、大量に集められた物資です。キャプションには『特産物の積堆』(堆積?)とあります。推定ですが、恐らく大豆でしょう。地面へいきなり積み上げるのではなく、柱を敷いています。
包み一つ一つの移動は人力や馬の様ですが、ここから遠くへ運び出すのは、鉄道の出番です。
見渡す限りの物資で、まさに鉄道輸送力の実力を見る思いがします。

安奉線
日露戦争後の条約により、ロシア帝国から日本は譲渡された南満州の長春 〜 大連の間の鉄道施設を得ました。この運営の為、南満州鉄道が作られました。南満州鉄道は、同時に、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線の経営も行いました。ここから鉄道の続きとしまして、この安奉線をみてみます。

満州の朝鮮半島側の国境を形成する鴨緑江にある安東と奉天を結ぶ線路です。
ここに最初に線路が敷かれたのは明治時代で、中国は清の時代でした。この頃、新奉鉄路(新民と奉天を結ぶ)、安奉鉄路、吉長(吉林と長春を結ぶ)などの鉄道路がしかれました。
1911年11月11日、安奉鉄路全線が標準軌線にて敷かれ、また鴨緑江橋梁が開通しています。
日本から朝鮮半島を経由しての満州までは朝鮮半島の南端、釜山からソウル(当時は京城)、平壌、安東を経由しての長い線路があり、これに接続して安奉線で満州へ接続していきます。

安奉線
こちらは軽便鉄道の安奉線です。幅76センチの小型鉄道で、これまで見てきた車両とは随分ことなるトロッコの様な外観です。
また、なにか随分とのんびりとした印象をうけます。遠くの丘陵地帯にも線路らしきものが見え、その間を縫うように走っています。山を削ってまっすぐ線路を通すなどもしていないため、上り下りが激しい、カーブも多い、さらに地盤もゆるいところがあり雨天時にぬかるむなどして脱線も多く発生したそうです。線路が土砂に埋まったときは、客も一緒に線路を掘り起こした、といった話もあります。

最初、明治40年より敷設された安奉線路はこのタイプでした。日清戦争の頃、急遽、敷かれた鉄道です。
丘陵地帯を縫うように走っています。山を削ってまっすぐ線路を通すなどもしていないため、上り下りが激しい、カーブも多い、さらに地盤もゆるいところがあり雨天時にぬかるむなどして、脱線も多く発生したそうです。線路が土砂に埋まったときは、客も一緒に線路を掘り起こした、といった話もあります。
このあたり一帯の鉄道権利は清国より許可を得たロシアがもっていましたが、日露戦争後、日本がこれを引き継いでいます。

この軽便鉄道ですが、広軌道の全線開通後は廃止された模様です。写真はその広軌が敷かれる前の撮影でしょう。真には、幾人もの乗客が写っており、大いに利用されているようです。またこの軽便鉄道の急な上りではアブト式が採用されていました。軽便とはいえ、本格的なものです。アブト式(またはアプト式/Abt system)は鉄道の形式のひとつで、レールの間にもうひとつ、凹凸のついたレールw儲け、これに車両の歯車をかませて滑らないようにするものです。スイスなど山岳鉄道で多く採用されています。日本では、信越本線の碓氷峠、大井川鐵道井川線で採用されています。このアプト式は、後の広軌道になってからは採用されていないのか、関連した記述はみつけていません。トンネルを彫るなどして、急な上り坂をなくしたのでしょう。

釣魚台
さて朝鮮半島では広い軌道での鉄道が安東まで敷設が進んでおり、満州川でも同じ広い軌道での鉄道を設けることで利便性が高まることから本格的な工事が明治時代には開始されていました。この当時日本と中国の共同組織で土地購入をすすめ、まず最初にしかれた鉄道と土地の返還と弁償、さらに鉄道に伴う土地買収で、代替地も確保(これに当時六百二十二万円が投入)、道路も改築しています。これは工事に利用できるというのもあったかもしれませんが、その後も現地の道路として利用されている様です。
ユニークな事例としては、線路にお墓があった場合、これも移転しています。当時は土葬ですので土饅頭があり、これを移転埋葬、また4円を支払っています。平行して寺院も修築、これは沿道の風致を添えるためとのことです。

この安奉線は山間部を通過するため、工事の難所がいくつもありました。
地獄谷と呼ばれる難所を貫く黒坑嶺トンネル、そして福金嶺トンネルも開通、この福金嶺トンネルは岩盤を貫き、全長千五百十五メートルにもなるものでした。
同時に朝鮮鉄道による鴨緑江代鉄橋が開通、明治四十三年十一月に開通式が執り行われました。


画像は工事の難所であった釣魚台です。

釣魚台
この安奉線は山間部を通過するため、工事の難所がいくつもありました。
地獄谷と呼ばれる難所を貫く黒坑嶺トンネル、そして福金嶺トンネルも開通、この福金嶺トンネルは岩盤を貫き、全長千五百十五メートルにもなるものでした。
同時に朝鮮鉄道による鴨緑江代鉄橋が開通、明治四十三年十一月に開通式が執り行われました。
画像は同じく奇勝といわれた釣魚台で、崖や護岸された形から、先ほどの写真に近い場所で撮影されたものでは、と思います。この釣魚台も崖がおおく工事の難所でしたが、列車の窓から見れば、なかなかの眺めです。
こちらの画像では遠くに連なる山々が見えます。
またこの付近は昭和15年より複線化の工事がすすみ、主要隧道・橋梁の改築をすすめて昭和19年9月までに全線が複線となりました。
戦後もこの線路は利用されていますが、鉄道輸送は減少しているのでしょうか、現在は単線に戻っているそうです。

釣魚台付近
軽便鉄道が敷かれた当時から沿線は発展しています。当時の書籍にもこの付近について、
『まったくの寒村僻地で、山間の渓流は船の便もなく、耕作の余地乏しく、住民は樵(きこり)や線香の材料を製造していた。これが一度、軽便鉄道の仮設されるや、沿道各地に立派な都会出現し、やがて広軌鉄道の開通によって本渓湖(ほんけいこ)、橋頭(けとう)、鶏冠山(けいくわんざん)などで新市街が存立するにいたった』
とあります。
画像は川べりの農民です。

釣魚台付近の風景です。
山間の土地を利用した農地が見えます。

水墨画を思わせる、雄大な眺めです。

圖們市街
圖們という満州の朝鮮半島側国境に建設されたまちなみです。
背景に肥沃な荒野を控えており、開拓移民らがあつまり、そして市街地もできつつある様です。
キャプションにも
『産業交通上における価値の高い開拓地の典型』
とあります。まだ舗装は進んでいないようですが、電化もすすんでいます。衣装は朝鮮半島風の方も見えます。

新鎭州鉄道ホテル
満州へ鉄道で入るには、同じ広軌道ですのでスムースにも思えますし、国境を超える国際列車(つまり国境で列車を乗り換えずに済む)ものもありましたが、実際には国境をを越える際には厳しい検疫をうけました。これは人、そして家畜の疫病におびえる当時ならではでしょう。
時には荷物からなにから一旦ホームに出されるといった徹底して行われたこともあったとかで、利便性を図るためもっと簡単に出来ないか、と申し入れが満州へなされたこともあります。
ただ、国境の橋は徒歩で地元の国民が行き来していますし、また国境の河が凍れば満州と朝鮮とは徒歩や橇で行き来をしています。検疫の対象になったのは、一気に広く移動する列車に集中して行われたといってもいいかもしれません。

画像は絵葉書からのもので、キャプションには鴨緑江名勝とあり、シリーズものの絵葉書のひとつです。安奉線から国境を越えた朝鮮半島側の都市のホテルです。特に資料が無く、詳細は不明ですが、立派なホテルです。


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