| 冬景色です。彩色絵葉書ですが、木の枝が着氷で真っ白です。あらゆるものが凍りつく満州ならではの風景です。
さて、ハルピンの様にロシア人が多いと、ロシア人の風習が町のリズムとなり、それはまた、日本人とは感覚がちがうものでした。
特にランチタイムについては、ロシア式に2時から4時までの長いランチタイムがあり、街の営みは、食堂以外はぱったり止まってしまいます。こうした場合は中国人(満州人)や日本人が経営する店へ行けばいいわけで、特に不便はなかったと想像します。 |
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| 鉄筋と思われる立派な建物です。
周辺も石畳の舗装が行き届いています。 |
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| 先ほどの新市街大日本帝国領事館の画像の中央から右下をクローズアップしています。
左上の出窓、右下の歩道に少女が見えます。
いずれも白っぽい洋装です。いずれも半袖で、夏の撮影でしょうか。北に位置するハルピンも夏は暑かったそうです。
また、いずれも黒髪にみえ、在満邦人の子女では、と想像します。
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| ハルピン駅から伸びる線路をまたぐ陸橋で、
霽虹橋(さいこうばし)と呼ばれます。霽虹橋は、ハルピン駅の北東に位置し、満州国設立後に建設されたもので、デザインをロシア風にして街と調和させています。
今日もこの橋は使用されています。この陸橋は、鉄道写真を撮るのに絶好の場所だろうな、と想像しています。 |
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| ハルピンに数ある教会のなかでも、特に大きな教会です。
木々も白く枝だけになっており冬場の撮影で、道は雪かきがされているようです。当時の書物から、
『哈爾濱は国際的歓楽街として有名な反面、何しろ敬虔な信者でもあるロシア人が築き上げた街だけに、寺院建設にはクラシツクな感じを横溢させている。』
とあります。 |
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| イベルスキー寺院とも呼ばれる豪華絢爛の寺院で、たまねぎ状の屋根の先端には、十字架が、壁も細かく意匠が凝らされています。帝政ロシア時代の豪勢振りを忍ばせます。
中には宗教画、彫刻に加え、大変高価で大きなオルガンが据えられていたという話があります。 |
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| ハルピンはロシア人の町ですので、ロシア人の宗教に基づくお祭りも開催されました。
まず1月7日にクリスマス、続いて洗礼祭があります。
松花江に大きな氷の十字架を作り、ハルピン中の教会が、おのおのの教会の旗を掲げて集合します。
この祭りの名物は寒中水泳で、凍った松花江の川面から氷を切り取ってプール状にし、その水面へ飛び込むものです(これは今日も行われています)。
この見物人には聖水が配られました。
ちなみに春にはねこ柳のお祭り、復活祭(パースハ)、初夏には草の祭り(トロイッツァ)が開催されました。
お祭りにはお菓子も焼き、楽しみました。クリーチと呼ばれる円筒型のケーキを復活祭の色つき卵とともに準備してお客をもてなした、という話もあります。 |
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| 絵葉書の絵から引用していますが、氷を切り出し、後ろには氷のモニュメントが見えます。
このモニュメントはロシア正教の十字架(通常、我々が良く見る十字に、さらに横棒が多い)が多く作られました。
高さ3メートルくらいあるものでした。この絵ではすぐ後ろに鉄橋がありますが、当HP管理人が見る機会のあった写真では後ろに鉄橋や建物は見えませんでした。鉄橋付近は川を渡る橇が行きかうなどにぎやかであったため、もっと離れたところで開催したのではないでしょうか。
この氷の祭りは前述しましたが今日も開催され、氷の細工もされますが、今日では十字架ではなく、ロシア正教の寺院をかたどった大掛かりな氷の彫像が主の様です。 |
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| いわゆる満州人街です。街の雰囲気がこれまでと違っており、大きな看板がびっしりと並んでいます。 |
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| 先ほどの写真、右奥に時計が見えましたが、そこへ接近した撮影です。
懐中時計を模した看板です。右側ショーウィンドウには壁掛け時計と思われるものが写っておりますし、おそらく時計屋さんなのでしょう。 |
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| 先ほどの左側を接近して撮ったものです。
漢字の看板が並んでいます。
横向きに天徳信支店とあり、その下にロシア文字が見えます。
一方で、日本語はまったく見当たりません。 |
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| 満州人街の続きです。
両側、歩道もあり、また道路両側には大きな溝が設けられています。
馬車がぎっしり行きかっています。 |
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| 博家甸の続きです。道幅も広く建物も高い通りです。
大きな看板がぎっしりならんでいるのは満州人街の特徴です。 |
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| 奉天の北陵に似て、門があり、これをくぐると広い中庭に石畳の通路があり、この正面に立派な建物がありました。
儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟(霊をまつる建物)で、中国のあちこちにあります。
ここ満州にも複数あった様です。 |
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| 遠くに松花江が見えるチューリン街の町並みです。右上、かすんでいますが、鉄道の鉄橋が見えます。 |
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| 冬場の撮影です。
鉄橋を線路の上から撮影しており、まっすぐに伸びる大きな鉄橋であることがわかります。板が敷き詰めてあり、歩行者も渡ることは可能です。ただ歩道は設けられておらず、列車運行上、どこまで歩行者の往来が許されていたかは不明です。
さて、ここで鉄道について。
この鉄橋は東支鉄道(とうしてつどう/東省鉄路公司)と切っても切れない関係にあります。哈爾濱を中心とし、黒龍江省から満州里(マンチュリー)まで延びる長い路線です。そして、これはシベリヤ鉄道の支線です。ですので、満州里駅に何故かロシア軍(ソ連軍?)の走行列車が停車している写真が残っていたりします。走行列車は、列車自体を装甲で覆った列車の戦車です。
当HP管理人がみましたのは2枚のみで、また何時の撮影かは不明です(満州国設立前後でしょうか?)
一枚は絵葉書になっており、さらに一枚は個人撮影の写真でした(いずれも日本人の撮影と思われます)。それぞれ別の装甲列車でしたが、いずれも砲塔を持つ本格的な装甲列車でした。絵葉書のものは中華なべを伏せた様な砲塔のデザインで、丁度、ポーランド製の装甲列車に同じデザインがありました。ソビエトがポーランドから手に入れたであろう装甲列車が、はるばる東欧からやってきたとも言えるわけで、なるほどシベリア鉄道の支線ならではです。
東支鉄道はロシアと当時の中国の代表の両国の大臣が取り交わした契約により作られました。昭和5年(1930年)当時の書籍からこの成り立ちを引用しますと
『資金五百万両(ルーテル)は道勝銀行という表面だけ両国合弁の銀行から支出した形式であるが、実は鉄道敷設のみに露国が三億ルーブル以上を支出し、支那(当時の中国)は一文も出さなかった。一九〇二年には前線開通し、松花江畔の無人境に小モスコーたる哈爾濱が出現した。』
つまり大連から鉄道で出発する際は日本にゆかりのある満鉄で移動、さらにハルピンから先へ進むには、満鉄経営以外の鉄道に乗りかえることになります(昭和5年当時の書籍の記述から)。
朝鮮半島から満州国にはいるのに、列車そのままで乗り換え不要(国境の検疫は受けますが)、という直通の列車もあった様ですが、こちらは同じ満州国内でありながら直通ではなかったようです。満鉄・東支鉄道について、乗り換え無しの直通列車があったかについては、引き続き確認中です。が、乗り換えも直ぐに解消したのではないでしょうか。満州国設立後、満鉄はその路線を拡大、北西の主要都市のチチハルや満州里、北方の黒河、北東の牡丹江からソ連国境方面など営業範囲が広がっています。 |
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| 同じく鉄橋です。
別途、「水兵さんの見た松花江」でも掲載しているのと同じ橋で、ここを渡り、満州里、シベリアへとつながります。
こちらは川下側からの撮影と思われます。同じく冬の撮影で、河は真っ白に凍結しています。
『冬の長い、春秋の極めて短い北満ハルピンの式を通じて交通に行楽に利用されることのおおい松花江の流れはハルピンにとって欠くことのできない風物のひとつである。
四月頃河の氷が溶けてしまうと、急に草木の芽が緑に萌えて春と一緒に夏が来る。六月、七月、ハルピンの本格的な夏はこの二ヶ月間で、江上にはボート、ヨットが走り、濱は海水浴のように賑わう。
夏の松花江の水はハルピンの人々にとって堪らない魅力なのである。
秋は八月の末に訪れる。それはあわただしく過ぎ、九月の半ばには冬が顔を出し、やがて氷に閉ざされた江上でスケートやソリが行われ始める。』 |
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| 松花江の観光は夏に大いに盛り上がります。
手前、ヨットクラブ(ボートハウス)も夏になるとペンキも塗りなおされ、観光客に備えます。ヨット、スカールなど様々、準備されていました。
こちら、画像でも沖には何隻ものモーターボートが見え、贅沢な舟遊びが出来そうです。
外輪船、白いモーターボート、ヨットは夏の松花江に綺麗に映えたそうです。
このヨット倶楽部が建設された年は1917年だとする資料があります。日本では大正6年、そしてロシアではロシア革命が勃発したときです。
さて、先にハルピンの食事で肉類を紹介いたしましたが、大きな河のあるハルピンでは魚も多く食べられていました。
なまずや雷魚が取れ、またこれらは大変に大きく1メートルになるものも珍しくありませんでした。
日本人は雷魚を照り焼きにし、また刺身にしても美味しかったそうです(川魚にしては珍しい気がします)。
一方、ロシア人はもっぱら油で揚げてしまうそうです。松花江で多量に鮒を取りこれをどっと油鍋に放り込んで揚げ、夕飯にしていた、といった話もあります。 |
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| 大勢の人々が水に戯れています。ほとんどがロシア人の様にみえます。
足元は砂地です。
左側に見えるのが太陽島です。白い点がいくつかあり、小屋が建てられていることがわかります。
さて太陽島には船で渡ります(泳いでも行けそうですが)。
ここは夏の間に貸し出される別荘がいくつも建てられており、早めに予約しないと空きがすぐになくなってしまうほど、人気があったそうです。
写真で見る範囲では大きな建物は見えません。この太陽島ですが、きめの細かい砂洲だったそうですから、もしかすると地盤の関係から小屋程度しか作らなかったのかもしれません。
当時の太陽島での別荘風景について、当時の旅行記に
『水泳着ひとつになった少年少女たちが歌い踊っている。パン屋牛乳や蜂蜜を並べた店もあり、木立の中の白ペンキを塗った別荘小屋から突然、美しいバイオリンの音がする。』
といった記述がありました。優雅な別荘地という感じです。
太陽島といえば、満州国を視察した日本の代議士が、松花江の向こうに見える太陽島をさして「ロシアが見える。」といってしまったという例がありました。
松花江はハルピンからはるかに北に下り、黒龍江へ注ぎ込みますが、その黒龍江であれば対岸がソ連です。ハルピンから国境までははるか遠くです。地理上の位置も良く把握できていない発言であった事が伺えます。
またハルピンからソ連国境までは、海倫、通化、黒河といった街があり、距離も、大体、奉天からハルピンへ行くよりも遠いくらい、ハルピンからさらに北上する必要があります。
しかし、単に地理音痴というだけでなく、それだけハルピンという街が、日本から見て遠くの町であったともいえます。あるいは、それだけ北満は日本人に馴染みが浅かったともいえます。
その他、ハルピンがロシア風であったことから、その印象に引きずられてロシアが目の前と錯覚したのかもしれません。もしそうなら、このハルピンはそれだけロシア色が強かった(あるいはハルピン以外は、ここまでロシア色が強いところは無かった)とも言えます。 |
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| 埠頭付近にあった公園です。緑豊かな空間にベンチが並べられています。またそのベンチにはすべて広告が入れられており、またどうもすべてロシア語の様です。
さて右下、この絵葉書のキャプションが黒文字でありますが、日本語の下にロシア語が書いてあります。
一般に絵葉書でキャプションに英語が書いてあるものは多いのですが、こちらではロシア語で、さすがはロシア人の多いハルピンならでは、とも言えます。 |
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| 同じく埠頭公園で、同じデザインの椅子が見えます。彩色絵葉書で、秋を想定した色使いとなっています。
ハルピンに住むロシア人達は長い冬に備えてか、日光浴が大好きでした。当時の記述に、
『ベンチは陽を浴びる人達でいっぱいだつた。黙つたまま、一日でも空を見上げ、陽を浴びているように思われた。』
というのがあります。 |
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| ハルピンは前述しましたが、交通の要所で、水上交通と陸上交通の手鉄道とがまじわるところでした。
その水上交通の要でありながら、その港部分は、きちんとした埠頭というか、桟橋がありません。
岸はセメントなどで固めているふうもありません。
岸に足場をおき、その上に板を渡して人手で運んでいます。奥にももう一席の船が見え、同じく板を渡しています。
当HP満州写真館に掲載しております「苦力」の三枚目もハルピンでの荷役を掲載しておりますが、同じく、船に板を渡し、荷物を持った苦力が渡っています。普通の岸が港になっているわけで、波が静かで流れの緩やかな満州の大河らではでしょうか。どうも大連などの港を見た印象から比較しますと随分と簡素に見えます。 |
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| 冬の風景で、氷に閉ざされたハルピンのドックです。
こちらの土手は整備されているとはいえ、どうもセメントなどで固めている様には見えません。
左、黒っぽい船は警備艇です。
豊かな消費都市であるハルピン近辺では武装強盗も少なくなく、水運の安全にも気を配ったものと思われます。
下記にも紹介しますが、漫画「フイチンさん」にも馬賊が登場し、フイチンさんの父の勤めるお屋敷でも召使は武装した自衛組織を編成しています。
実際、満州での警察はライフルなど本格的に武装しており、漢民族の自警意識の高さを感じます。 |
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| このハルピン無線電信所については資料を見つけておりませんが、長距離通信用であることは想像できます。
このまっすぐ垂直にアンテナ支柱が伸びており、見た目ですが、その高さなど、戦前から戦後も使用された千葉県の検見川送信所のアンテナにも似ています。
検見川送信所はウィッキペディアに掲載があり、これによると対外国通信を目的とし、日本で初めて短波による標準電波を送信した施設で太平洋戦争(大東亜戦争)中は南方との通信拠点だったそうです。
このハルピン無線電信所も、同じく相当に遠くまで通信ができたものと想像しています。
こちらではアンテナは二本しかみえませんが、千葉の検見川送信所は、数本の支柱があったそうで、そうしますと剣見川より規模が小さかったかもしれません。 |
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| 『満州は天恵的なスキーの好適地 哈爾濱に近い玉泉スキー場』
低温の為、さらさらの雪だったのではないでしょうか(北満では、雪がさらさらであったため、雪合戦の雪玉も雪だるまも作ることが出来なかったそうです)。
満州は全般に豪雪地帯はなく、日本ほどの積雪はまずありませんでした。この写真も、足元を見ると枯れ草の頭も見え、あまり厚く雪が積もっているわけでは無さそうですが、満州全土で橇やスケート、そしてスキーが冬のスポーツとして盛んでした。 |
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| さて、ハルピンと合わせ、豊かな文化を持つロシア人について記述してまいりました。
さらに追加としまして、昭和5年(1930年)当時の書籍ハルピンでのロシア人の様子につきまして、抽出してみます。
『哈爾濱在住のロシア人は露人として零落し、支那官憲はかれらの利権を回収、かつての主客は転倒し、支那(当時の中国)はこの地を自ら統治するならず、東支鉄道幹部も悉く(ことごとく)支那人で、警察伸びならず鉄道守備隊も支那軍隊である。松花江を航行する大汽船も、埠頭区一流ホテルも支那陣が買収してしまった。哈爾濱40万人の人口中、三十万以上は支那人である。
近来、支那本土の連続的兵乱のため、年々、百万近くの避難民が北満州に移動して黒河の沃野を開墾するから、現に哈爾濱子市場をつうかする大豆の年額二千五百万石、小麦一千万石も、倍加すべく、黒龍江省の人口は一千万に達するのも遠くはあるまい。とにかく哈爾濱は事実上、満州の心臓となり、極東第一の物資集散市場たるべき運命をもっている。』
かつて満州族が居た地域も漢民族が進出してきて、満州語はすでに満州国設立前に廃れていました。かつて豊かな資産を持ちハルピンに大きな教会をいくつも作ってきたロシア人も漢民族の進出にすっかり落ちぶれてしまったようです。
ハルピンを舞台にした少女マンガ「フイチンさん」※にも、貧しいロシア人や在満邦人が、ちらっと出てきます。まくわうりの行商のアルバイトをするフイチンさんが、まくわうりの代金がないロシア人の姉妹に売り物のまくわうりをあげてしまう話です。
満州人のお金持ちは寄宿舎のある私学に通い、エレベーターのついたデパートで買い物三昧という姿で登場し、実に対照的です。
※フイチンさんについて。
かつて満州に在住されていた、上田としこの少女漫画で、少女クラブに昭和32年から37年まで連載されました。
主人公、フイチンさんは大金持ちリュウタイ家の門番、ワンさんの娘で、大きなお屋敷の門番小屋に住み、お屋敷の子供、付近の貧しい子供達と天真爛漫に、快活に日々を過ごすという漫画です。
連載時の単行本、さらにアース出版局の漫画名作館シリーズの復刻版がありますが、残念ながらいずれも絶版で、入手できない状況です。
ちなみにアース出版の巻末の開設によると、フイチンさんが連載された頃、日本全体が貧乏であった為に読む子供達の共感をそそったのでは、と解説されています。確かに両親が働きに出ていて、子供は家事に参加せざるを得ないこともすくなくなかったようです(そのためか昭和30年代までは、少女漫画の広告にヤマサ醤油が載っていたりします)。子供が小さいうちは食事の支度までは出来ないとしても、例えば練炭の火を起こしておく、お湯を沸かしておくなど、なんらかの役割はもたされた様です。貧しさという感覚、それでも何一つめげず元気一杯飛び回るというキャラクターは、今日の子供にはわからないかもしれませんが、連載された当時は大変親近感があったのかもしれません。ですので、今日、再販されたとして広い世代に受け入れられるかどうかはわかりませんが、一方で、この漫画は当時の満州での風俗風習まで細かく描写があり、満州を知るには大変参考になるものです。是非再販していただきたく希望します。 |
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| さてハルピンはその華やかな街並みから消費都市の印象を持ち、一方で鉄道や水運の交通以外では産業の雰囲気を感じません。しかしやはり満州は農業国で、ハルピンを郊外へ一歩でれば、そこには広く農業が行われていました。
さて、ハルピン近郊に出来た未利用地の開墾について紹介いたします。
未開地を開拓し、国民を移植させるのは満州国の国策にもかなうものでした。
また当初、郭爾羅斯前旗(ゴルロスゼンキ)、郭爾羅斯後旗(ゴルロスコウキ)、杜爾伯特旗(ドルベットキ)依克明安旗(イフミンガンキ)で土地調査が行われました。この報告をまとめたのは満州国興安局調査科(課?)が担当でした。
終戦直前に満州重工業総裁(高碕達之助)の発案で、広い農地をもつ自給農場構想がハルピン近郊に具体化しています。
これは満州重工業の主管で、満州国国務院興農部が関与(恐らく、興農部の大臣が黄富俊の頃)ともされますが、実は全容など現在、資料をそろえ切れておらず、まずは把握できた範囲のみを記載いたします。
先に何箇所か土地調査が行われた中で、濱江省の郭爾羅斯後旗(ゴルロスコウキ)にて二万ヘクタールの農地が開墾に着手されます(これ以外の土地が開墾されたかは不明です)。
ここは土地が肥沃で、鉄路に近く資材の運搬や農産物の搬出に便利であること、さらに比較的平坦な土地がまとまっているなど条件が揃っていました。
そして候補地の土壌は満鉄公主嶺農事試験場にて分析を実施、窒素分を含む肥沃な土地であることがわかり、ここに広い農地の確保が開始されます。
この広さ二万ヘクタールの内、一万ヘクタールを農地、残り一万ヘクタールを放牧地とする開拓が始まります。
早速、広く満州国民に入植する農家が公募されました。自作農、男子労働力が二名以上、という条件はありましたが、一方で一戸あたり始めは10ヘクタール、その後に30ヘクタールが提供される、農具は一部貸し出し、種も提供され、生産物の半分は会社が買い上げという恵まれたものでした。早速、ハルピン近郊の農村村長に通達、非常に人気を呼んだのか三百戸の応募はすぐに集まったそうです。
満州人は器用にかつ熱心に農業技術を覚え、プラウと呼ばれる6頭もの馬で牽引する犂(すき)を操りました。プラウとは洋犂とも呼ばれ欧州で使われる物で、ロシア人が満州でこれを良く用いていました。これら開墾道具も使いこなし、みるみる農地は仕上がっていきます。時は昭和20年4月、満州国崩壊の直前です。 |
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