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満州写真館 新京その3

     

                        
こちらでは、新京その3としまして国都新京の建設の模様を紹介してまいります。

新発屯康徳会館付近
満州国において、その首都である国都建設計画事業が1933年から37年の五ヵ年で進められました。
またこの新京市の建設は、基礎的なインフラを作り、構築した土地を売却して収益を上げるという形をとっていました。

さて、この建設事業を開始して半ば、1935年8月の報道をみますと、既に大変広い面積が販売されていることがわかります。当時の報道から引用。
『市街地面積総坪六百万坪を整備、公園、道路、公共施設、官庁用地に役三百万坪を分割、一般商店、会社、住宅、工場用地に三百万坪を売り下げた。』
それぞれ非常に広い面積が公的な施設のために、そして民間に活用されており、着々と都市が出来上がっていることがわかります。

康徳会館方面の望遠
国都建設計画事業は、前述の通り、1933年から開始されましたが、1935年3月の報道で費用が累計三千三百十一万一千五百九十五円※に達したとあります(今日の三百億円?/適切な換算がわかり次第、再計算致します)。
この値段に付きまして、その大きさはいまいち把握し辛く、また都市ひとつの価格というには額が小さい印象があります(例えば満州電業株式会社の資本金が6000万円ですので、大手企業の資本金の半額程度)。が、これは恐らく、基盤整備の費用のみをさしているものと思われます。つまり、整地、区画整備、道路、水道電気の基本的なインフラを行った費用と考えます。年々、市街地は広がり民間の建物も次々建設が続きましたので、トータルの新京の建築費は、この費用の比ではないものと思われます。

慶徳会館建設中
ちなみに1934年12月の報道で、輸出入において、農産物に鉱物鉄鋼と、兎に角、輸出が多かった満州において、突然、輸入が突出した、その原因が、国都建設に伴う資材の輸入であったと記述があります。
『経済工作の一大バロメターたる土建建築の諸材料としての金属及鉱、機器工具、車輛類、洋灰(セメント)、木材、煉瓦等が多量輸入されて居る』
とあります。
新京という都市建設は、その全ての建設を含めると、国の収支に影響を与えるほどの規模であったともいえます。

司法部より建設局を望む
新京の建設工事は、土木業界において今日も尚、偉業として記憶されているのか、土木関係のサイトで当時の写真を収集掲載しているところもあります。またそのサイトを拝見しましても、大量に最新機材が投入された模様で、その中にはアメリカ製の機材もありました(アメリカ軍が大戦中に飛行場設営に活用した、大型・大馬力のものと同じトラクター)。
計画も綿密に行われたとかで、順序良く、見る見る大都市が出来上がっていく様は、土木界の面目躍如であったものと考えます。

多忙を極める土管工場
土壌も改良を施した様です。まず土地に縦横に深い溝を彫り、土中の水分を滲み出させて汲み取り(深さ1メートル半くらい、幅数メートルはある大きな溝です)。
そこに土管を埋没させて下水とするなど、大掛かりに行われています。これらは国都として、永遠に繁栄することを念頭に置いた計画の一環と理解されます。

国都道路建設
道路の建設風景です。
遠くにはビルや家が見えます。実に幅の広い道路が作られています。
画像右上に僅かですが機械がみえます。これは恐らくセメントミキサーです。

新国務院慶舎敷地工事
恐らく、工事専用に作られた引込み線では、と想像します。また遠くへ去ろうとしている貨車は、右側、橋を渡ったところで、砂利を降ろした様にも見えます。
 この作業ですが、もしあkして、起伏を平らにしているところでしょうか(新京は起伏の無い土地に作られたとはいえ、ある程度の起伏があって、それを均した)。あるいはここは後々、池になったと為、深い凹みへ砂利を敷き詰めているところ、とも考えました。

栄え行く興安大路付近
新京その1にも書きましたとおり、電線は全て土中に埋めていました(新京全てではなく、電柱がある区画もあった様ですが)。
電線を地中に配置する作業は、土管と平行して最初から進められていたのでは?とも想像していましたが、工事中の写真には電柱と思われますものが見えます。
ただ、碍子(がいし)は少なく、通っている電線も少ないものと思われます(拡大しても2個しか見えません)。これは推測ですが、工事期間中の暫定使用の電柱で、後に土中へ移動したのでは、とも思われます。

興安大路とその付近
遠くに給水塔が見えます。
こうしたインフラから最初に作り上げていっていることがわかります。
街灯だけは道路の舗装と平行、あるいは先んじて行われています。人々の行き来は建設しながら可能であった、ともいえます。

國都建設の道路工事
幅の広い道路と、道路が既に区画わけされている様です。最初から歩道などが設けられているのでしょう。右側は畑でしょうか。

さて、新京について、こちらの書籍には、戦後、進駐した米国ウェデマイヤー将軍が「傑作」と激賞したと紹介されています。
(「満州国の首都計画」、越澤 明 著、ちくま文庫・2002年刊行)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480087072/


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