このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




満州写真館 満州国軍

     

                        
満州国設立前、満州の地域もそれ以外の中国の地域にも沢山の軍閥や軍事的実力者がいました。
彼らの中には軍閥と呼ばれ、莫大な資産を誇り、贅を尽くした豪邸に住んでいました。満州国設立後に博物館に転用された建物もあります。
そして多額の費用をつぎ込み、軍備をそろえていました。
第一次大戦で新兵器として登場した戦車も購入されていたようです。
といっても最初に登場した大きな戦車ではなく第一次大戦末期から戦後に開発された、小型の物が導入されていた様です。
この中で、例えばフランスのルノー社から多数の戦車が輸入されました。2名乗り(操縦士1名、砲塔に1名)のものもあります。奉天の軍閥が所有していた戦車の写真を見る機会がありましたが、戦車は当然、高価なものであったためか、長屋の様なガレージに一台一台が収められていました。

日本軍も戦車をイギリスやフランスから購入するなどして運用の研究に努めました。
第一時代戦が終了した後、大正時代末には日本の戦車保有80台だったそうです。順次、戦車の保有数は増えていったものとおもわれます。一方で、中国全体の戦車保有台数は明確な資料は見つけていませんが、どうやら日本を凌いでいたのでは、と推測する説もあります。当時の中国はフランスのみならず、ドイツ、アメリカから戦車を買っていたからです。有名なところではナチスドイツの機甲師団の基礎である1号戦車も中国に導入されており、これらの一部が鹵獲され日本国内で公開されました。
戦車だけでなく、自動小銃、機関銃も欧米から購入しており、当時の中国全体における、いわゆる正面装備は、どうも質量共に日本軍より強固であったという説も、あながちハズレではなさそうです。

さてこちら、奉天で撮影されたアンリー・ポテー25型です。
同じく軍閥がそろえていた機体で、満州国設立後、満州国軍に編入されたものです。
機体は手前のトラックに隠れてよく見えないのですが、複葉機です。トラックはエンジンスターター車です(満州航空その1参照)。
またこのアンリ・ポテー25型につきましては詳細が不明ですが、戦闘機と思われます。また、名前からみて、もしかするとフランスのアンリファルマン社製でしょうか。
写真の手前側、兵士達は焚き火をし、棚状の台を置き、煮炊きをしている様です。

こちらも画像が不鮮明ですが、恐らく同じアンリー・ポテー25と思われます。
兵士が肩に重そうな四角い箱を運んでいます。機銃弾か燃料でしょうか。
満州国軍の初期装備ともいえます。
この他、短距離離着陸の出来る連絡機、プス・モス機も僅かですが輸入、配備されていた様です。

中島 キ27 九七式戦闘機 「満州国空軍」※
中島 キ27 は開発当時、世界トップレベルの運動性を持つ戦闘機でした。こちら満州国でも採用されています。
こちらの翼に、満州国の航空機識別マークが見えます。
翼の下に満州国軍の丸いマーキングが見えます。またこれは同心円でかかれる満州航空とは違ったデザインとなっています。


こちらも中島 キ27 九七式戦闘機です。
特徴としまして、胴体に「護國安東参号」とかかれています。護國号とは民間が献金を募り購入し満州国の軍航空隊に献納した機体ということです。また胴体の国籍マークは省略されています。
安東という地域名がはいっているのも特徴です。これ以外にも例えば奉天号というのもあります。
この献納された護国号機は三十余機にもなりました。
ちなみに中島 キ27 九七式戦闘機の護国号は、福岡まで訪問飛行をしたことがあるそうですが、詳細は不明です。


スタータートラックのロッドをプロペラに接続、いままさにプロペラを回してエンジンをかけようとしているところです。エンジンは、例えば今日の自動車ですとスターターを内臓していますので、キーをまわしさえすれば電力でスターターが回りエンジンがかかります。このスターターが無かった大昔の自動車は手で専用のエンジンスターターロッドをせっせと回してエンジンをかけました。
飛行機の場合、スターターがない場合はプロペラを、人の手で"エイっ"とまわしエンジンをかけますが、当然、危険が伴います。
こちらスタータートラックがあれば、この点は安心です。
ちなみに、スターターロッドの高さは都度、調整しながらプロペラに接続したのでしょう、左側の支柱には、大きな取っ手が取り付けられており、緩めたり固定したりが楽に出来る様にみえます。


エンジンを始動した安東参号です。
広い平野と空に浮かぶ白い雲も印象的です。


中島 キ27 九七式戦闘機
最初に紹介しました中島 キ27 九七式戦闘機以外は、すべて脚の車輪カバーが取り付けられています。
冬場に寒い満州では、泥などが凍りつくことを避けるため、カバーをはずして運用していたはずですが、これらの写真ではほとんどが取り付けられています。もしかすると、冬場だけ外していたのかもしれません。
これらの中島 キ27 九七式戦闘機は大戦中も使用され続け、中国より飛来するアメリカ軍のB29の奉天空襲の際にも迎撃にあがっています。当時、最新鋭であったB29に対し、旧式の中島 キ27 九七式戦闘機では歯が立ちませんでしたが、一部、B29へ体当たり攻撃も行ったという資料もあります。

九八軽爆
マーキングなどは写っていませんが、満州の空を飛んでいる九八軽爆です。

同じく九八軽爆を横から。これも胴体に識別マークらしきものは見えません。


※ちなみに本文では、元となる資料の記述を尊重し、満州国空軍で記述いたしました。
満州国の航空隊について、実はその所属関係を把握できていないのですが、おおむね陸軍の航空隊と考えられます。その場合、飛行機の部隊であっても"陸軍の"と書くべきです。が、満州国軍に限らず、当時の書籍の記述には多く空軍とあります。このことから、これらを参照に、空軍で記述しています。
今日、そして戦前の書籍にみられる、いわゆる空軍とは、陸軍の航空部隊や海軍の航空部隊であり、空軍という呼び名では厳密な意味では違ってしまいます。例えば日本の大戦中の代表的戦闘機であるゼロ戦は"空軍"ではなく海軍の戦闘機ですので、ゼロ戦は海軍と記載すべきではあります。
しかし前述しました通り、大戦中の新聞や書籍でも所属が陸軍であれ海軍であれ、空軍と書かれています。これは航空部隊をひとまとめに空軍としているわけです。軍の分類詳細にこだわるのでない限り、その所属が陸軍であれ海軍であれ、飛行機をつかう兵力であれば空軍とかかないと、かえって混乱するからともいえます。
ちなみに、満州国の場合、特に満州国軍飛行隊と記載される場合があり、ひょっとして新しい技術分野である航空の部隊である事から航空だけで独立した部隊が構成されていのかも、とも想像しましたが、詳細は不明です。

さて、ここからは地上での訓練風景です。パイロットには見えず陸軍にも見えますが、満州の航空部隊の特集資料に掲載されていたものですので、航空部隊関連の訓練風景と思われます。
背中にヘルメットを背負い、通信機を操作しています。
通信機の訓練というと、今日では判りにくいかもしれません。今日では直ぐに使える携帯電話など各種通信手段があり、それらは容易には壊れず、取扱説明書が無くても操作に迷うことはあまりありません。
が、やはり当時は、なかなか今日の様にはならないかもしれません。真空管を使う機械は扱いにくく、また電気を用いる通信機が日常に無い場合は、使用に慣れるための訓練は必要であったと考えています。

こちらは、キャプションに詳細はないのですが、モールス信号を打っているところと思われます。
3名はそれぞれ左手に紙を持ち、右手の指はキーを押す形でおかれています。
モールス信号が今日、用いられることは先ずなくなってしまっていると思いますが、当時は、こうして訓練しながら習得していたのでしょう。

同じく訓練風景、ここでは銃剣術を習っている様です。

体操の風景です。
随分と厚着に見え、寒そうです。
脚には脚絆を巻いています。こうしたあたり、日本軍が参考になっているのでしょう。

さて、こうした訓練風景には日本の協力もあった様ですが、満州国にも人材は育ち、例えば、こちらで紹介しました写真が撮影された昭和16年ごろには、例えば満州陸軍飛行学校の主任教官は、現地の満州国人、乾氏でした。


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