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満州写真館 風俗風習その1

     

                        
様々な宗教
満州国は様々な宗教がありました。
土着のものもあり、いろいろな形式形態がある様です。
お金持ちの家ほど大きな祭壇を設けられていました。
画像は、満州のお正月に家族揃って祖先の霊前にて「三跪九叩」する光景です。祖父母や父母は子供らの前で、先祖を礼拝しています。5人の子供が写っており、男の子は後ろ頭を刈り上げています。
さてこの民家の祭壇ですが、道教の祭壇と思われます。
大陸では満州も含め、キリスト教の信者も多く居ます。その祭壇は十字架やマリア様が置いてあるわけですが、やはり、こうした祭壇になり、これはとても面白いものです。仏教も普及しており、やはりこれに似た祭壇となります。
今回の画像ですが、祭壇に飾ってあるもの、そしてキャプションに祖先の霊前とあることから道教と判断しています。

お正月の祭壇
お正月には、家の前に大きな祭壇を設けます。
この画像も道教の様です。
撮影は満州の様ですが、こうした家の前に大きな祭壇を設けるのは広く中国で行われている様です。当時の諸説に
『支那(当時の中国)の民族の大特徴で、正月早々祭りを行うのも如何にも支那式である』
お正月は元宵節(げんしょうせつ)とも呼ばれます。いわゆる旧正月です(初の満月の日を祝う日)。
これは門の前に豚や羊の頭や、様々なお供え物を飾り、喜貴福財の神様をお迎えするものです。大量に爆竹を打ち鳴らすのも特徴です。

新京大同大街孝子塚
首都新京での風景です。
整備された広い道路のそば、画像の左上に塚があり、人々が参拝に来ています。
右手奥側は新京の市街地です。つまり昔からある長春ではなく、そこに隣接し首都として建設された新京の街並みが見えます。
人々は、まめまめしく祈りを捧げ、一方で大規模な近代化が進んでいる、満州を象徴する写真にも見えます。
さてこの孝子塚について詳細は不明ですが、「塚」と呼ばれておりますことから、実際に親孝行者が埋葬された墳墓ではないか、と想像します。
さて新京の建設地にあり道路がこの塚を避けて建設されたことは話題となったのか、工事中を含め写真がいくつかあります。道路を作るにあたり、塚の移動や破壊ではなく、道路が避けたわけです。
まずご覧のとおり車道はまっすぐにみえますが塚を避けて角度をずらして作られており、また歩道はこの塚で途切れています(塚の後ろを迂回)。
歩道は緑地帯つきの広いものが遠くに見えますが、丁度、この塚はこの延長線上にあります。

さて左上の墳墓には看板の様な額が沢山周りに見えます。
もしこれが墳墓ではなく、寺院や道觀であれば額を飾るところはあるわけですが、こちらはそうしたものが無いので、お墓に取り付けてある様に見えます。
これら塚の周りの額縁をクローズアップしてみますと「神霊広大」「千載之英」、それに「有求必応」(求むるもの有れば必ず応ず)と読めますが、恐らく、この塚の孝子を讃える額を奉納したものと考えられます。
また下の方に「?謝仙恩」と読めるものがあり、感謝を表す奉納でしょう。
また画面左下、恐らく飲食の屋台と思われます。椅子とテーブルがあり、丼が伏せておいてあります。
こういう塚や仏塔は、満州のあちこちにありました。

さて、画面中央下をクローズアップ
台の上で何かを売っています。細長く、またある程度の太さがあります。
これは、おそらくお香です(線香)。また、これは束にした線香を紙に包んであるものであると推定されます。
日本では線香を一本ずつ線香立てに立てますが、こちら中国では方法が違っています。一束を束のまま手に持って、これに火をつけ、勺みたいに両手で捧げ持って、頭の前で上げ下げして神仏に参拝します。また、日本よりもはるかに長いものです。

供花小売商
街角で商品をうずたかく積み上げて商いをする露天商を紹介する絵葉書です。供花とタイトルにあり、祭壇のお飾りの様です。
背景に、先ほどと同じく線香の束を紙につつんだものが積み上げられています。また円筒状のものが斜めに立て掛けられており、これも線香の束と思われます。
右側男性の帽子は洋風です。また画面右下の子供もフードをかぶっていますが、どうも洋装の様に見えます。

娘娘廟
先ほどは塚でしたが、こんどは大きめの廟を紹介してまいります。祠といえば例えば娘娘(にゃんにゃん)廟は大小、あちこちにあった様です。画像中央奥に建物が、そして手前両側にはたくさんの白い天幕が見えますので、おそらく線香などお祈りに使うものを売っているのではと想像します。

大石橋娘娘祭り
満州のあちこちにある娘娘廟で盛大に行われる娘娘祭りです。こちらは最も規模の大きい大石橋もので、別途大石橋の頁にも掲載しております。
手前、出店のテントがぎっしりならび、そして娘娘廟へ向けて人が上っていきます。
娘娘廟をはじめとする祠の多くは小さいものです。娘娘廟は、本画像のほかに満洲写真館大石橋にて紹介しておりますが、大石橋の様な大きな廟はむしろ稀でした。

さてこちらは祠。
丁度、日本にもあちこちに祠があり地蔵があるのと似て、人々は日々、祠に祈りをし、願い事をしていました。
上田としこ著の漫画「フイチンさん」にも、願い事や心配事の度に街外れの小さな祠を拝みに行く場面がありました。朝に夕に、小さな祠や神様を拝んでいた様です。祈りと共に生活があったわけです。
ちなみに「フイチンさん(上田としこ著アース出版局発行)」は、満州ハルピンに在住しておられた上田としこ作の、当時の満州に元気よく生きる少女の物語です。是非、再販を望むものです。

民家
『のどかな部落での風景、女房たちは暖かい日の照る屋外の大釜で煮物をしている。崩れた屋根と崩れた壁、しかし子供達は何の屈託もなげに遊んでいる。』
満州の田舎では、屋外で煮炊きをするが見られ、これらは満州を訪問した日本人にとって奇異に見えたそうです。
これは、屋内では煙がこもるという事もあったのかもしれません。さらに、食事も屋外で済ませることが多かったとも聞いたことがあります。いずれも日本では馴染みのない光景です。実はこれは食べるものが無くなれば匪賊に転じ、強奪するというのが当たり前の土地ならでは、とのことです。つまり、ちゃんと食べるものがあるから匪賊にはならないよ、と周囲に示していることでもあるのだそうです。

民家
画像中央にしゃがんだ人が見えます。丁度、こちらでも、家の前で煮炊きを始めようとしているところです。家の外、屋外で煮炊きをする姿は満州の地域だけでなく、広く中国において見られた様です。
日本でも、例えば秋刀魚などを七輪で焼くなど煙と臭いが強い場合、家の前で焼いていた例もありますが、どうも、中国では家の前で行うのが当たり前だったようです。
さて家には屋根の左端、そして右端に煙突が見えます。これは想像ですが、片方がかまど、そして片方は暖房用(オンドルなど)ではないでしょうか。つまり、屋内にもかまどは一応あるわけです。
また、地方の農家の場合、当時は、台所が明確に分けられていない場合も少なくなかった様です。日本では江戸時代の狭い長屋でも、同じ仕切りの無い部屋とはいえ、生活し食事をする場所(畳の上)と煮炊きをする場所(土間)は違う場所で、おおむね別の場所です。一方で、満州は北満にて日本人が地元に招待されて食事をしたときの感想に、たった今まで豚を解体し粉を挽くなど食材を扱っていた同じテーブルで、そのまま食事をしたことが印象に残ったというのがありました。特に食事をする場所の区別はなかったわけです。

民家
『高粱ですつかり出来る田舎の家
家建つ人のその得意顔』

先の家と同じ感じの家です。屋根はひくく、屋根裏は無さそうです。
こちらでは高粱の茎を使って屋根を葺いています。
右側のドアにはガラスが入っています。壁は泥を塗りたての様にみえます

さてドアの上、漢字が4つみえますが、右から左へ「瑞兆豊年」と読めます。これは門の上におめでたい言葉を並べた「横批」と言う札です。

民家
寒そうな中に建つ一軒屋です。家の素材などは不鮮明でわかりません。周辺は石垣が積まれている様です。

移民区
『哈爾濱の一角にある傅家甸は、見違えるほど立派な街になった。
しかし、北満諸所に移住した労働者の最初の部落は今もこんな佗しい(わびしい)生活をしている。』

キャプションでは哈爾濱(ハルビン)が引き合いに出されていますが、撮影は移民の集落でハルビンではありません。ハルビンの中国人街「傅家甸」が立派に発展した一方で、という比較の為にハルビンが引き合いに出されたのでしょう(ということは、もしかするとハルビン近郊にある移民村かもしれません)。
壁は土壁、屋根はムシロか何かをかけているようです。例えば、屋根は高粱の茎や葉で葺く事がよくあったのですが、同時に高粱は冬季の燃料にも使われます。これは想像ですが、移住したてで、まだ屋根に葺くほどの高粱も得られていないのではないでしょうか。
撮影は段差のある上から見下ろすように行われています。画面下側真ん中で3名程度がこちらを見ています。

働く移民たち
続いて、同じく移民の家を見てまいります。
満州へは政争混乱激しい当時の中国からの移民が多く居ました。
そして荒野に村を作って住み着きました。
家のつくりは質素で、こちらの写真をクローズアップしてみましても、ムシロで覆った壁もあったりします
画面中央の人たちも、こちらを振り返って、カメラを見ています。
画面中央左、石で囲まれたのは、想像ですが、カマドではないでしょうか。火を使うところを共同にしたわけです。

民家
広野の農民の家で、木の垣根が組んであります。
満州には全土に狼が出ましたので、その対策としては、こうした高い垣根は有効だったと思われますし、泥棒対策(いわゆる匪賊)にもなったのでしょう。門の奥には家が見えます。

『牡丹江上流地方に見られる満州人の家である。その門は日本の鳥居に似て甚だみどころがある。門前の人は満州の少女。』

民家
こちらも広野の家屋ですが、宿屋(というよりも民宿)だそうです。
柵の奥に、家屋が見えます。

支那官廟
『満州を旅行すると高粱で葺いた屋根や粘土で固めた壁などの家が目に付くが、官廟になるとさすがに堂々たるものがある。』

庶民は泥壁と高粱の屋根の家で過ごした一方で、土着の権力者は大きな屋敷に住んでいます。軍閥も日常的に農民などへの強硬な搾取を行っており、当時の欧米のジャーナリストの書籍にもそうした記述があります。同様に地方の権力者も私兵を持ち匪賊と戦闘をする一方でやはり搾取をし、農民は疲弊していました。こちらは清の時代に立てられた地域の実力者のもので、高い壁といくつもの建物、豪勢な門が見えます。
この写真は昭和5年頃の撮影で、掲載している書籍によれば、既に地方のお役所代わりに流用されており、元々のこの建物の主は既に居なくなっていた様です。それにしましても、先の農民の家とは対照的な豪邸です。

農豪の門
『土壁をめぐらし、用心、堅固の農家。交通は馬によるよりほかはないので、門も馬に乗ったまま出入りできるような高さを持つのも面白い。そして馬賊に備えて民兵を養っている。』

富豪の農家の家で、門も匪賊の襲撃に備えた堅固なものに見えます。こちらも門の形状は日本の鳥居に似ていますが、これは偶然でしょう。
匪賊といえば、かつてこの地に漢民族が移住し、遊牧民を辺境に追いやり、その追い払われた人々が強盗となったのが匪賊の始まりとする資料もあります。
同時に、この地は自衛の意識も高い事も特徴です。
先の漫画「フイチンさん」でも、召使達は有事に備えて自警団の役割を持っており、武装して出動する場面があります。
パールSバックの小説「大地」も、豪農となった主人公は武装して徒党を組んでいた甥を家に迎えることとなり、その結果、匪賊からは襲われなくなるというくだりがあります。
日本ではおおむね江戸時代から警察・治安は政治社会の責任として遂行されているものと理解されますが、これは実は日本的なのかもしれません。

都市部の家々
では、地方の家を見てまいりましたので、ここからは都市部の家々を見てみます。
奉天での民家の並びです。新市街地建設が本格化する前の撮影の様です。
雑然と次々建てられているようにみえます。看板もあり、商売をしているところもあるようです。
写真は城壁の外側ですが、奉天の城内はもっと雑然と建てられており、とうとう馬車も人力車も通れなくなっていたそうです。近代になり城内でも大掛かりな区画整理が行なわれています。
奉天の大きなデパートなどのビル郡は別途奉天の頁で紹介しておりますが、こちらの画像は奉天の新市街が出来る前の姿と思われます。


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