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満州写真館 満州風俗風習その2

     

                        
では満州の風俗風習の続きとしまして、人々の暮らしや働きぶり、街角をみてまいります。

庭先の壷
では風俗風習として一般市民の生活ぶりや仕事などを追ってみます。

『支那人にとって壺が財産で、壺の多いことは、丁度日本の蔵の多いことに相当する。写真の農家は邸内に並べた味噌と漬物の壺で吟味加減を調べている。いかにも満州気分の現れた写真ではないか』

農民の家の形が良くわかる写真です。そして壺になにやら仕込んでいるところです。
食品の貯蔵がもともとの目的の壷ですが、量が多い事はつまり蓄財が出来ているという証でもあったわけです。壺は、満州ではこの大きさと形のものを多く見かけます。

壺工場
壺工場の生産風景です。
口は広く開いており、日本で使われる壷でいうと、例えば梅干や漬物の壷にも似て見えますが、満州で使われる方がずっと大きく見えます。
様々な食材を壷で保管していたわけですが、広い口に食べ物を漬け込んで倉庫や屋外においてある壷はいくら蓋をしていても、少なからず虫がつくこともあったようです。が、この封を開ける前の虫は気にしなかったそうです。それは封をしてある壷の中で生まれ壷の中だけで生きてきたから、壷の外から汚いものを運んできていないとのことで、特に不衛生とは考えなかったからだそうです。

製材所の様子です。
『一押しごとに喰い入る強い鋸の音が乾いた空気にとけていく。堅実に刻む満州国民の進展が動いている。』

二人がかりで鋸をひき、また一人は材木の上に配置しています。
兎に角、人力で、というのは満州国や近代化した中国でもよく聞く話で、この土地ならではと感じます。


『右にこけよか、ひだりにこけよか、腰でかじとる一輪車、キイキイ泣いて街を行く。』

満州で活躍する一輪車で、これも人力ならではです。
キャプションには”街を”とあります。しかし
積んでいるのが大豆の袋、また画面右上にテント状のものが見えますが、これは大豆を積み上げた際にかける覆いによく似ておりますことから、駅かどこかの大豆集積所ではないかと考えます。

一輪車は荷台の中央に架台があり、大豆の細長い袋がこれに結び付けられています。
この一輪車ですが、場合によってはこれを背もたれにして横向きに人を乗せるタクシーとなり、あるいは桶を固定して水売り屋になったりと実に広い用途があります。

また車輪が大きいのが特徴ですが、舗装していない地面では有利ですし、車軸が高い位置にありますので体重をかけることで前に押しやすいなど利点が考えられます。
満州の生活が生んだ利器ともいえます。

素麺乾し
冷たく乾燥した風に麺を晒して乾燥させているところです。

素麺は満州国の名物のひとつです。
満州国首都の新京にあるデパートお土産コーナーのパンフレットを見る機会があったのですが、豆菓子類と共に素麺の紹介がありました。また、旅行者用に内地へ配送するサービスもありました。当時、満州産の素麺を食べた方も意外と多くいらっしゃるかもしれません。

『雑然と家具調度品が並べられた一室で、天井から麻縄が二本ぶら下がって下端に木船の様なゆりかごがぶら下げられている。
北満の子供達は、古風な建物のなかで、懐かしい母親の子守唄を聞く。』

満州の地域では、子供を売り買いする習慣があり、籠に子供を入れて配達する写真もあります。これはとても日本人には意外に思えたそうです。しかし、だからといって子供が大切にされていないわけではありません。
キャプションには北満とあります。冬は寒く、子供は勿論、幼児は家の中でしかすごすことが出来ず、家の外へ遊びに行くことができません。そんな中、専用の吊り篭を作ってもらった子供の写真です。何故か得意げな嬰児の顔が印象的です。ちなみに子供は男子も女子も本名のほかに別名と幼名を持ち,青年時代までは幼名が呼ばれていました。
背景はほとんど写っていませんがなにやら雑然とした感じです。
満州では家畜、主に豚ですが、これを家に入れて生活します。泥棒に取られないためですが、そのため生活しているところは家畜小屋とかわらなくなってしまうそうです(まさか子供を吊っているのは、家畜に踏まれるからでしょうか?)

満州の子供達
満州國民の子供が勢ぞろいです。
後ろに大きな壁と扉が、右奥に家屋と思われるものが移っており、豪農の正門での撮影ではと想像します。
印象に残る美少女であろう、とキャプションにあります。
戦前の図書では朝鮮半島、そして北満は美人の産地として描かれることが多々あります。

親子三人水入らずの午後の団欒風景です。
背景からみて、畑の隅っこでしょうか。
左、地べたに直接座布団というあたり満州風ではありますが、こうした外で夕涼みというのは日本でも浴行われていました。長谷川町子のサザエさんでも古いものには、夏に表へ縁台をだしてくつろぐものがいくつもあります。

鳥を楽しむ人々
満州国当時の書籍において、中国では南部と北方とで生活から性質まで異なっているが南北を通じて一貫して変わらないものもあるとの指摘があります。
そのひとつに小鳥の愛玩が揚げられています。

『例えば国内、麻のように乱れて戦争をしていても、それには我関せず焉として小鳥を楽しむというのが、唯一の道楽でもある。』

小鳥を大事にする姿は多く写真に収められており、流行っていたのでしょう。
籠もちゃんとした構造で、高価そうに見えます。

マチ ノ サカリバ
画像はキンダーブック「マンシウ」から「マチ ノ サカリバ(街の盛り場)」です。
キンダーブックは子供向けではありますが、どれもきちんとした絵師によって描かれています。またこの「マンシウ」の特徴として、元になる写真があり、それをベースに絵が描かれています。
出来るだけ現地のものを正確に、ということでしょう(あるいは、やはり当時、満州の光景は日本人にはなじみが無く、絵師も間違いがないように、そしてより正確に、と写真を参照することとしたのかもしれない、と想像しています。
キャプションには
『ここは、チーリン という街の賑やかな所。
大道で色々の商売をしています。』
とあります。
チーリンは吉林です。ちなみに、この街並みを描いた絵も、元になる吉林の写真があります。
では、この絵には多くの路上販売が描かれていますので、ピックアップしてみていくことにします。

大勢が描かれている先ほどの画像から中央付近を見てみます。
この画像の右に指輪屋、左上に馬糞拾い、左下に猿回しが描かれています。
次に、この猿回しの元となったと思われます写真を、さらにその次に指輪屋の元となったと思われます写真を紹介いたします。

猿回し
街角の壁の前の猿回しです。
手に小さな猿用の舞台を持っていることからも、もっぱら街頭で演じてお金をもらっているものと思われます。この旗のついた小さな舞台を、肩から下げている箱の棒に取り付けて演技をさせるのではと思われます。

ちなみに猿は日本、朝鮮半島、中国に広く生息しているわけですが、戦前図書などで猿の記述については見かけたことがありません。ありふれているので記事にはならないのでしょうか。また猿は農作物を狙うはずですが、満州の農業について書いた書籍にも猿の記述は特にありません。恐らく平野部には生息しておらず、人が住んでいるところと接してはいないのでしょう。

金細工売り
先の絵では指輪屋と描かれていましたが、元になったと思われます写真は、金細工売りとなっています。棒に金属をずらりとぶら下げ、路上で売っている様子を参考にしているようです。また撮影は大連です。

写真のキャプションによりますと
『金細工の美しさ、これ一本一円とは安すぎる。』
手の込んだ金細工の様ですが、随分と安価に売られているようです。
今日ほど貨幣に信頼がなかった昔は、貴金属を身につけることが好まれました。これは容易に持ち運び可能であり、政変などがあり貨幣の価値がなくなっても貴金属であれば価値は変わらないことから、財産として重宝したわけです。貴金属であれば、どこへ逃げても価値はちゃんとある。ただ、こうした携帯財産だけでなく、キャプションからは路上で売られている割に細工が細かなことへの感嘆と、安価であることに驚いています。これは想像ですが、経済の安定と発展がみられた満州国では、貴金属は贅沢品としてニーズが増え、それなりの細工を施したものが売られ、また価格も安く広まったのでは、と思います。

上は小間物屋、下は飴屋です。
下の飴屋は飴細工が、持ち運びできる仕事台に飾ってあります。また棒の上に巻くように作り上げられています。日本でも縁日などで客の目の前でくるくると様々な形に仕上げる飴細工屋さんがいました。これらには、砂糖を熱してやわらかくして加工、あるいは水あめと砂糖とを混ぜて加工したものなどいろいろあるようです。
ウィッキペディアによりますと、中国には古くから熱した飴を吹いて動物や鳥の形を作ったり台の上にたらして文字や絵などを描いたりする飴細工があるとのことです。こちらの絵にあるものは、棒にまとわり付くように描かれており、吹き細工ではなさそうです。

上の小間物屋については元になったのでは、と思われます写真がありますので、そちらとあわせて紹介いたします。

小間物行商人
『子供相手に、太鼓を売っているところで、子供も太鼓を見上げている。日本でもいなかにゆくとこの種類の行商人を見る。』

子供相手の商売ですが、太鼓は上手く売れたのでしょうか。日本でも昭和40年頃まで、下校する子供を対象に通学路上でなにやら怪しげな子供だましのおもちゃなどを売っていたのが居たという話も聞いた事があります。こちらはちゃんとした太鼓の様です。

上側は占い者です。いわゆる八卦見にも見えますが、いかがでしょうか。
そして左下、行商の床屋です。
客は帽子を右の棒におき、また気持ちよさそうにまどろんでいます。
これにも元になったと思われます写真があり、次に掲載しています。

剃刀的
『道具類と腰掛を天秤棒で担ぎ、片手に一尺三寸もある音叉をもって、これをピーンピーンと鳴らしながら流してあるく田舎の床屋さん。客があれば、何処にでも荷を降ろして仕事にかかる。
夏の昼下がり、この音叉を聞かされると睡魔に誘われる。』

随分と気持ちよさそうにしていますが、これが表通りで行われるあたり、如何にも満州の風景です。行商の床屋の腕は良く、満州を旅行した人の体験談もあります。ただ、切った髪、剃った髭は地面に散らかしたままだったようです。

占いを売る人
『満州の街角には、いたるところ、こうした売卜の人を見かける。さすがは本場である。いういうとして筮竹を爪ぐるさまは、老大国の背景としっくりとして面白い雰囲気を漂わせている。』(筮竹:ぜいちく、駅の占いに用いる竹製の細い棒で、通常は50本一組で用いる)。

さきほどのキンダーブックの絵に描かれていた占い師は「占い者」とかかれていましたが、こちらの写真には占いを売る人とあります。
ぴったりとしたぼうし、ひげをたくわえ、太った体でどっしりと座っています。後ろの壁には相を示すと思われる絵が貼ってありますが、詳細は写っていません。
またキンダーブックが占い者を参考にした写真は見つけておりませんが、こちらの写真の雰囲気に似ています。おおむね満州の占い師はこうした感じだったのでしょう。

糖果児(タンホール)
画面中央、一輪車を押している菓子屋で、糖果児を売っています。
糖果児とは満州の冬のお菓子、杏(あんず)の砂糖菓子です。冬になる前に実る杏を利用したお菓子で、五個から六個くらいを団子状に串にさし、その周りに飴をつけたものです。この飴は真っ赤で、絵にもそれが描かれています。
糖果児の串は藁の筒(藁づと)に突き刺して売るのが通常でした。
また大抵はこれを肩に担いで売り歩きますが、こちらでは珍しく一輪車に藁づとを4つ立てて売っている様です。よほど沢山売れるのでしょう。タンホールの売り声は満州の冬の風物詩でした。
この他、路上の菓子売りは、満州のみならず支那全般(今日の中国)で見られ、また内容も似通っています。
真っ赤に染めたピーナッツ、甘栗、壷の中に熱々の焼き芋、酒饅頭、焼餅(シャオピン/クレープに似て、メリケン粉を平らに延ばし、中国味噌と生葱を挟み、まいてたべる)、油条(ヨウティアオ/小麦粉を細長く棒状にねじて揚げる)など様々ありました。軽食、朝ごはんがわりにもなり、買ってそのまま路上で食べていました。

菓子屋
『糖球と云って日本の飴玉である。棒の先にわらを束ね、これに飴串をいっぱいに刺して街を売り歩くさまは、その情において、日本の飴売りと似ている。』
飴球とありますのは、糖果児の別名です。こちらでは、売糖胡芦とあります。
こちらの写真で判りますが、一つ一つの飴の大きさはとても一度に口に入る大きさではなさそうです。糖果児を覆っている飴は毒々しいまでの赤に着色されていたそうですが、こちらの写真もかなり濃い色の様に写っています。

飴を見る少女は嬉しそうです。また少女の服装は花の模様がたくさん描かれた華やかなものですが、満洲国で裕福層が増えるのに伴い、子供服も華やかなものになった様です。
また写真をみての感想ですが、ごく自然なシャッターチャンスをとらえた秀逸なスナップと考えます。
子供二名の配置や表情が自然です。
今日のようにデジタル化した撮影手段が溢れていると、撮影する方も撮影される方も、撮影は意識しなくなるのかもしれません。が、日本でもほんの少し前までカメラで撮影するというのはちょっとした出来事でした。当HP管理人も、山間に紅葉を撮影に行った際、分校の児童らに"何だ何だ、新聞記者か?"と集まって、ぐるっと取り囲まれた経験があったりします。写真を撮るというのは、その位、物珍しい行為です。
こちらの写真の撮影を満州国民か日本人が行ったものかは全くわかりませんが、カメラという当時としては大変珍しい機器をもっていながら、街中に人々に溶け込んでスナップを撮っているあたり、かなりの写真家としての腕前と考えます。


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