| では満州の風俗風習の続きとしまして、庶民の生活を追ってまいります。 |
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| 洗濯風景を、上から捉えた写真です。撮影場所は特に書かれていません。
谷底か崖の下でしょうか。小川にそって、人々が並んで洗濯物をこすっています。
石鹸が普及しているのでしょう、画面右下、水の表面の反射からみて、汚れが落ちて流れているように見えます。
画面上のほう、子供が暇そうにしています。 |
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| 『鮮烈な冬がようやく過ぎて水温む頃ともなれば、即ち水河という河はよき洗濯場である。
しかし北満では水は乏しい故意もあろうが、それがどんなに濁っていようと汚れていようと敢えて意には介さないらしい。』
くぼ地に水が流れており、三名ほど選択をしています。そして遠くにも水辺にしゃがんでいる人影があります。
日本でも川で洗濯をしていたわけですが、日本でも洗濯に向いた水(例えば、流れがあって泥や藻で濁っていない、など)を得るためには苦労や工夫が必要です。今日でも田舎に行けば、かつて洗濯場だったという足場が川にあることがあります。またそれは大抵、流れのある場所です。
こちら北満では水が乏しいことから流れのある川の水、とはいかないのでしょう、洗濯には苦労したものと思われます。 |
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| こちらは川でしょうか、水は水深もありそうです。足場が組んであり、皆さん、そこに集まっての洗濯です。 |
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| 鉄嶺での撮影で、手元が写っていませんが洗濯と思われます。
子供はお手伝いか、水遊びでしょうか。穏やかな水面に、波が広がっています。また子供の後ろ頭に黒く縦のひも状のものがみえ、辮髪と思われます。
のんびりとした風景ですが、実は後ろの橋は日露戦争時の戦跡だそうです。 |
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| では、労力としての家畜と共に生活する様子見てみます。
こちらは荒野の真ん中の井戸です。
棒が横に飛び出していますが、この棒の先へロバなどをつなぎ、井戸の周りをぐるぐると回して動力とし、水をくみ上げます。
背景に、何もさえぎるもののない、平らな満州の平原が見えます。
画面左、人が座っています。カンカン帽にズボン、靴が見え、どうも旅行者の様です。撮影者と共に井戸を見に来たのでしょう。 |
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| 『冬は家の中に引きこもって零下幾十度に耐え、暖を取らねばならない。せっせと薪を集めるのは夏からの仕事の大半である。』
馬車に薪を積んで運搬しています。その後ろ、画面右上にも薪を山の様に積んだ馬車が見えます。
薪は、冬場の必需品で、これが冬場に途切れると、死活問題となります(屋内でも凍死してしまう)。
そのため、はるか遠い森まで薪の伐採に出かけます。何日かかけて薪を集めるため、馬車にはキャンプ用品や食料を積んで出かけました。はるばる遠くの森へ薪を求めて移動する馬車の荷台には食料として大きな饅頭(まんとう)が山のように載せてあったそうです。
暖房器具にはペチカやオンドルが利用されました。
特にオンドルは高粱やとうもろこしの長い茎が利用されました。これですと、木々の乏しい草原でも暖房が出来ます。またお金を出して石炭を買わずに済みます。
高粱などは茎が長いおかげでオンドルの奥深くまで差込むことができ、火をつければ火力は弱いながらオンドル全体が暖かくなる特徴がありました。オンドルは9月の末から4月まで一日中燃やし続けられます。 |
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| 同じく家畜の動力の活用例です。
小さな家畜が、小さな石臼を引いています。
高粱の精白とあり、この臼でひくことで、実から皮を分離するのでしょう。
畑の隅っこにこうした臼が置いてあることがよくあったのか、写真や絵に、畑を背景にした臼をよく見かけます(土ぼこりをかぶりそうな気がしますけれども)。
背景に、借り入れを終えた畑の畝が見えます。 |
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| こちらも家畜の動力、小さな驢馬がうすを引いています。服装からもわかりますとおり朝鮮半島の出身者です。 |
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| 『家庭用の製粉器である。驢馬に目隠しをさせて石臼を挽かせる。驢馬はひねもすごろごろと臼を回している。』
こちらの臼は大きく立派で、碾き臼も中のくびれた円形です。右後ろに、はずされている臼が見えます。
立っている人と比べてみても、かなり大きなものです。
屋内で、家庭用とあるのですが、背景に沢山の農作物が積まれているのが見え、かなりの富農の様です。
驢馬も、これまでのものより大きく、また二頭が繋げられています。石臼も相当に重たい物の様です。 |
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| 農家の庭先の臼です。
タイトルですが、漢字がWebで表示しない様で、キャプションをスキャンして貼り付けております。
右から左へ読みます。
『高粱でも粟でもこの上に載せて廻し、殻皮を剥ぎ、また粉に挽く。驢馬に目隠しをしてあるのはめまいを起こさせるため。
驢馬は全くよく盲従している。』
作業をしている農夫は、後ろ髪をちょんまげのようにしていますが、辮髪です。 |
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| 北満の平原の畑で、地平線まで平らに見える平原の畑でローラーをひいているところです。
こうしたローラーは、畝を作る際によく見られます(Vの字のくぼみを鋤で作ってから、ローラーで天辺を慣らし畑の畝とする)。
ただ、ここでは、きちんと畝を作っているふうにも見えません。
種まきをした後に種を埋める穴を埋めているのか、とも想像します。 |
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| 荒野を走る満州の鉄道は、保守と警備を行うにしても、人里離れたところの線路は、なんらかの拠点を設置する必要があります。
そこで鉄道愛護村と鉄道警護村が作られました。
鉄道警護村は入植日本人が当てられた様ですが、愛護村に関しては、現地にもともと住む満州国民が協力をしたとのことです。
1938年の報道から引用します。
まず、鉄道沿線両側五キロの地域にある部落をして鉄路愛護村を結成、鉄道の有用性と保線の協力を広く国民に理解し浸透させる効果も狙ったものです。特に鉄路を安全に発達させることは、国民の福利に貢献するものであることから、村民は鉄路を中心に沿線の治安維持に協力しました。
すぐに愛護村の総数は三千六百ヶ所、住民の数は六百万人に達しています。その後も益々、増えて前路線に展開したものと思われます。
結果、効果は絶大で、満州地域特有の匪賊による鉄道の襲撃は激減しています。
特に匪賊武装集団の鉄道襲撃から鉄道を守る目的があり、また共産勢力(いわゆる共匪)も暗躍していたので、この効果は大きかったといえます。
愛護村に対して、鉄道側は必要に応じ保護すべき路線に応じて保護費を交付したとする資料があります。
ちなみに農村部、都市部に限らず、武装強盗、匪賊、共産勢力らが爆弾闘争や暴力事件を起こしており、警護が必要でした。鉄道も対象だったようです。
大連やハルピンなど銀行に武装強盗が入り、警察と撃ち合いになったという目撃談があります。またダイナマイト強盗もあったものの、犯人自身が暴発したダイナマイトで犠牲になったとか。これら物騒な事件が減ったとすれば、治安の改善は目覚しいものがあったと言えます。 |
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| 同じく鉄道愛護村で、こちらは犬を連れての警護風景です。犬はシェパードにも見えます。
当時は大変高価な犬種で、日本ではなかなか普及せず、軍務にも活用したかったものの、数が揃わなかった様です。
満州でもどのくらい普及したかは不明ですが、賢い犬種ですし、大いに有益であったものとおもわれますし、また写っている方の御自慢の犬だったのかもしれません。
さて、写っている人物ですが、肩にライフルをかかえ、そして服装は軍服風にも見えます。
これにつきまして、調査にご協力をいただき、以下の見解を頂戴いたしました。
まず明らかに日本兵の服装ではではありません。足にはゲートルを巻いているなどの特徴も見えますが、上下の軍衣と軍袴の色が違います。肩章、階級章がみあたらない、なども特徴として上げられます。
これらのことから、この男性は国民党崩れの人、あるいは地方軍閥の制服を引っ張り出して着ているとも考えられます。
また銃ですが、この角度からでは特定は難しいのですが、拡大してみましたところ銃床の内側に丸い金属が打ち付けられているのがわかりました。(恐らく銃を肩に担ぐ銃のベルトの治具)。
このことから、少なくとも日本の三八式歩兵銃では無いように思えます。銃床と銃の先端から、ドイツ製98カービンにも見えなくはありませんが、ほとんどが隠れており特定できません。
ちなみに日本製の銃ですが、中南米を中心に三八式歩兵銃から重機関銃に至るまで売りにだされており、外貨を稼いでいました。 |
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