| かつての満州を訪問した方の記録、そして満州のルポをみても、その広大な農地に驚くものが少なくありません。
こちらではそうした農産物の生産風景、特に満州の主要産物を生育する農地を写した画像を紹介してまいります。
今後、満州の記録に触れる機会があります際の参考になれば幸いです。 |
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| 粟は満州の主要食料です。日本でも近代まで、主要穀物でした。
乾燥した場所でも栽培でき、むしろ泥湿地帯にむいていません。
水の利の悪い土地であっても栽培できる、肥料もさほど要らないとのことです。
ただし連作にむいておらず、間隔をあけて栽培します(その間、別の作物を植える)
粟は炊いて食べる、粥にするほか粉にして活用、餅にもなりました(粘豆包)。
またお酒の原料となります。
画像は種まき風景、鋤で掘り返す、種子をまく、埋めていく、という分担の様です。 |
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| 中耕とあります。
まだ穂の見えない粟ですが、青々と生長しているようです。
満州の粟は、主食として国内消費されていたほかに、全体の生産量のうち、約1割が輸出されていました。
朝鮮半島への輸出、中国(いわゆる支那)への輸出が顕著でした。
朝鮮半島では二十万トンの粟が輸入されていました。朝鮮半島では稲作で得た米を売却し、安価な満州粟を買って常食していたとのことです。
ちなみに粟は満州では殻子や谷子と書かれ、また精白しますと小米や小米子と呼ばれます。 |
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| やや斜面にも見える畑での粟の実りです。
水はけの良いところに見え、こうした場所が粟にむいているのでしょう。 |
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| 満州における高粱は、ほとんどぜんぶが満州住民の常食として消費されていました。生産は満州国設立後も増加していましたが、大豆ほど急激なものではありませんでした。これは住民の常食である為に、その需要は大豆のように海外の事情に左右されることなく、人口の増加に伴って着実に増進していたことがその背景にあります。
画像は、満州での農業をまとめた資料に添付された高粱の穂です。長い茎の先に、こうして小さな粒が固まって実りました。
縦にすっと長く実をつける穂もありました。高粱と一口に言っても、いくつかの種類があり、穂のつけ方にも差異がありました。 |
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| はるか地平線までさえぎる者の無い満州の大地です。
高粱の種まき風景とキャプションにはあるのですが、この写真では作物の特定は出来ず、キャプションを信じるしかありません。畝もはっきりとは写っていません。
一列に並んだ人々は、画像の左から右へ向いているようです。
恐らくは耕す人、蒔く人、埋める人の三人一組での分担と思われますが、なにやらてんでばらばらの様です。 |
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| 中耕は畑の表面が水分により固く固まってしまうのを避け、土壌の通気性を確保するために行われ、除草も兼ねて行われます。
画面でも馬に引かせた鋤が活躍していることがわかります。、
強い日差しに、まだ背の低い高粱の葉が明るく写っています。
画面中央に一列に高粱が無いところがあり、人が歩くなどしたためと思われますが、ここからある程度の深さを持った畝が等間隔で並んでいることがよくわかります。 |
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| 穂を見上げるアングルで写しています。
高粱の主な産地は奉天以南です。ただ、生産量の多い少ないはありますが、満州全土で栽培されており、北満でも耕作されています。
少々、痩せた土地でも育成が出来る利点もあります。また価格については不明ですが、安価なものでした。
高粱の用途としては日本の米に相当し、炊いて食べたそうです。
いわゆる高粱飯でしょうか。また食材としても活用されました。粉にし、団子や菓子にして食べます。さらに醸造酒の原料となります。
こうして国内で消費されつくし、高粱の満州国からの輸出は僅かでした(満州国生産の、約5%程度?)。
ただ、高粱においては当時の資料などを見ても、在満邦人がこうした加工された菓子類や酒類以外を通常、食することは無かった様です。
今日、高粱は主食の座を下り、ほぼ飼料として生産されているそうで、一部、日本でも栽培されています。
満州国では、家畜の飼料になったのはごく一部だったようです。 |
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| 背の高い高粱の刈り入れ風景です。特徴ある傘をかぶっている農民が、茎の下のほうを鎌で刈っています。
編めん左上に木と思われる黒い盛り上がりが見えますが、この形から、満州の産業その1で掲載している刈り入れと同じタイミングで撮影されたものかもしれません。 |
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| 刈った高粱を牛車に載せているところです。手前、刈り取られた高粱でしょう、地面から茎がいくつも立っています。また、かなり地面から高い位置で刈られていることがわかります。 |
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| 刈り取られた高粱から穂を分離、また右にローラーを引いた馬が見え、脱穀をしている様です。画面中央、ほうきなどが見え、脱穀した穂を集めている者と終われます。
子供が、忙しく働く大人の間で遊んでおり、こうした風景は、日本も満州も変わらないなと感じます。 |
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| 日本の水田であれば、刈り取った藁を積み上げているところでしょうか。
人影も見えず、刈り取った高粱を一旦束ねて、日の光で乾燥させている者と思われます。
満州の高粱畑も、収穫したものを畑に集めて立てかけてはいますが、左下の小屋と比べてお分かりのように、背の高いものであることがわかります。
撮影場所は南満州で、後ろに熊岳城の目印である望児山が見えます。 |
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| 『金の古城、白城の廃墟付近、高粱の葉づれの音に行人の心を打つ』
やや遠くに農家と思われる家が見えます。
右、まだ穂もでていない高粱が見えます。こうした高粱畑は、満州ならではの風景だったでしょう、良いアングルでの撮影と感じます。 |
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| 土門子という町で撮影されたものです。
足元は、どうもぬかるんでいるようで、水溜りが明るく写っています。向こうから来る人も軒先を歩いており、雨でもふっているのでしょう。
さて、中央の看板ですが、右から左に 『天興酒焼鍋』 と書かれているようです(画像が不鮮明で「興」の字かどうか、など判別しにくい写真ではあります)。
実は焼鍋とは、コーリャン酒などの蒸留を行う鍋のこと、あるいは酒の製造所のことです。
天興が固有名詞(元地名)と思われますので
天興+酒焼鍋
又は
天興酒+焼鍋
のどちらかと思われます(恐らく後者)。
いずれも天興酒という酒の醸造所ということはどちらでも変わりません。
土門子は地域の農産物が集まり、また鉄道も通り駅もある交通の要所です。こうした余り大きくない地方都市にも、醸造所があり、お酒のニーズは大いにあった者と思われます。
前述しましたとおり、高粱はお酒の原料として活用されており、その一例になるかと思い、こちらに紹介いたしました。 |
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