このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




生活

軍隊漫画絵葉書


兵器被服ノ手入
「銃ハ俺達ノ魂ダカラヨク磨カウゼ」
「ホコロビハ小サイウチニ修理シテ置カウ」
「衛兵勤務ハ直グニ整列!」
「武器ノ手入ハスンダシ」
「ドレ石廊下ヘ出テ靴ヲ磨イテ来ヨウ」
銃に軍服、軍靴を整備中です。銃全体を磨き、銃身をロッドでクリーニングをしていますが、銃身のお尻(チャンバー/薬室)側から入れるとは知りませんでした。続いて銃剣を磨いている様子が描かれています。そして被服も綺麗に直しています。支給されたものはそれぞれが責任を持って整備している様子がよくわかります。

理髪
「サテ今度ハ顔ヲソルトシヨウ」
「痛イ痛イ アンマリ虎刈ニスルナヨ」
「贅沢言ウナヨ 我慢シロ」
「オイオイオ次ハ俺ノヲ痛クナイヤウニタノムゾ」
兵士はどこの国でも短髪にします。アメリカの大戦前の映画やアニメーションにも、そうした場面が登場しますが、いずれも散髪室で散髪担当が居ました。日本では兵士同士で刈りあっていたのでしょうか。手で刈るバリカンは切れ味次第では痛く、身だしなみも楽では無さそうです。

俸給日
「マタ貯金ガ出来ルゾ」
「ミンナ無駄ヅカヒスルナヨ」
「サア酒保ヘ行ッテ漫頭(饅頭)デモ食ベテクルカナ」
軍務は公務ですので、当然兵士達には給与が支給されました。
兵士の顔もほころんでいます。お金を得た兵士は、兵舎の楽しみである酒保へ繰り出す他、貯蓄と、いろいろ使い道があった様です。また廃兵院※への寄付も大いに行われたそうです

※癈兵院。戦争で負傷して身体障害者となり、再び戦闘に従事できなくなった兵を収容し、衣食住の面倒を見るところ。職業訓練も行う。廃兵院の様子は 報道その2 の8番目「軍人援護強化週間」にあります。

酒保
「腹ガペコペコダ
 ココデユックリ食ベルトシヨウ」
「今日ハコンデヰテ ナカナカ買ヒヌワイ」
「コレデ俺ハ大福ヲ二十七タベタヨ」
「俺ハウドンヲ九ハイ平ラゲタゾ」
酒保は軽食、タバコなど嗜好品を自費で購入するところです。また兵士が当番制で店番をしたそうです。
甘いものをはじめ間食が出来る場所でもあり、兵士のオアシスでした。兵役の激務の疲労も、ここで大いに発散している様ですね。
戦前の陸軍を描いた漫画「のらくろ」でも、酒保当番ののらくろが、お汁粉を一人で全部食べてしまう話があります。

炊事場
「何ニシロ大家族ダカラ大ヘンダヨ」
「今夜ハナカナカ御馳走ガアルゾ」
「芋ヲ切ッタリ肉ヲ切ッタリ
ナカナカ炊事当番ハ忙シイ」
「食器ハキレイニ洗ッテ納メルンダゾ」
大きな釜での煮炊や沢山の食材が描かれています。また兵士は大きなエプロンと長靴を身に付け、衛生に気をつけている様です。が、何故か頭巾ではなく、陸軍帽をかぶっています。
この食事を作るのは駐屯地においては、衛生管理などからしても専門の人員が居たと考えます。が、当番制とするお話もあります。恐らく、柔軟に運用されていたのでしょう。
また左上、屋外で直立しているのは食事当番と思われます。食事当番は一週間交代で一班あたり二名が着任し、任務は炊事場より食事を受領、食事の運搬と分配、後かたづけ、食器を綺麗に洗って戻すまでを受け持ちます。絵でも食器の扱いについて注意を受けています。

食事
「アンマリガツガツアワテテ食ベルカラ胸ニツカヱルンダ」
「オイユックリ落付イテ食ベロヨ」
「何ヲ食ベテモ ウマイナア」
「演習ガハゲシイカラトテモ腹がスクネ」
たっぷりのご飯、汁、副菜が配られている様です。豊かな食事内容は、兵士らにも好評の様です。また食堂ではなく、先ほどまで銃の手入れをしていたテーブルで食事をしています。食事と言えば、兵舎で訓練を行う少年兵の絵葉書では食堂での食事準備が描かれていました(漫画絵ではなく油絵風のもの)。こちらの様に寝起きするところでも食事をしている様です。兵役の合間のほっと一息でしょうか、兵士らの足元もスリッパというラフなスタイルになっています。
あと、どういうわけか昭和40年ころまでの漫画は、大勢が沢山の食事をすると決まって一人は胸につかえてしまいます。

洗濯
「干場当番ハドウモネムクナッテ困ルナア」
「キレイニ洗濯シナイト気持ガ悪イヨ」
「ソンナニゴシゴシコスルトスレ切レチャウゾ」
軍隊では、家事はすべて自ら行う必要があり、洗濯もその一つです。
各員の服装は、ラフに見えます。また皆、軍隊の帽子を被っています。これは多分、当時の風習でしょう。当時は今よりも帽子は普及していました(カンカン帽、山高帽、鳥打帽など)。軍隊においても、外へ出るときはこまめに被ったのでしょう。奥には干場当番なる人がいます。この役割ですが、特に資料を見つけた事が無く、想像するしかないのですが、紛失防止だけでなく、盗難防止と想像します。
総じて国中が貧しかった当時、空き巣は鍋釜や布団といった生活用品も狙い、さらに服装や靴の盗難も発生していた様です。兵舎敷地内であっても、そうした空き巣を警戒する必要があったのでは、と思われます。ただ、武器弾薬を扱う以上、警戒は厳重でしょうから、盗難防止が最優先任務とも考え難く、判断し難いところです。

外出
「マヅ映画デモ見テ カヘリハ何ヲ食ベヨウカナ。」
「帰営時間ニオクレアラ大ヘンダカラ 早ク帰ヘラウゼ」
「軍服姿デ叔父サンヲ訪ネテ驚ロカシテヤラウ」
言うまでも無く厳しい門限があり、当時のお話でも「故意に門限を越して兵舎へ戻っていない場合は脱柵罪になりかねず、最悪、禁錮される」と伺った事があります(脱柵罪につきまして詳細は未だ確認出来ておりませんが、駐屯地から遁走すれば、一律脱柵扱いの様です)。
が、一応、許可が下りれば、活動写真に外食と休暇を楽しむ事はできた様です。
左下の兵士は、外出時間を利用して叔父宅へ訪問する予定の様です。当時、兵役検査や兵役への赴任は、大人になった事として受け取られた様です。叔父へ、自分の姿を見せたいという気持ちも、そうした若人の気持ちの表れと理解できます。

軍旗祭
「コレハコレハ大ヘンナ騒ギダノウ」
「軍旗祭ハ兵隊サンノ一番楽シイ日デ種々ナ催物ヲシテオ祝スルンデアリマス」
「サアサア ダルマ踊ノハジマリハジマリ」
「東西東西各中隊ノ仮装大行列デゴザーイ」
陸軍記念日に開催される年に一度のお祭りです。陸軍記念日とは、明治38年の日露戦争の奉天会戦勝利を記念した戦前の祝日です(3月10日)。この祝日に併せて軍旗祭が開催、駐屯地を一般人に開放、親族の面会も出来、また兵士らによる出し物も行われ、お祭り気分を盛り上げた様です。絵も画面いっぱいに出し物などお祭り気分が描き込まれています。また、右奥には桜も見え、春の陽気を伺わせます。
この軍旗祭ですが当時のお話に「中学校の校庭で行われ、大勢で見物した(駐屯地ではなく)。」、「軍旗を授けられた連隊創設の日を記念して行われた。」とする資料もあります。これらも3月10日であったかは不明です。私は兵役のアピールとしていろいろなイベントを開催、これらを総じて軍旗祭と呼んでいたのでは、と想像しています。

入浴
「アア イイ気持ダ 入浴ガ一番楽シミダ」
「第一線トキテヰルカラ ナホサラダ」
「兵営の百人風呂ハ 全クステキダナア」
「今日ノ演習ヂヤ ズイブン汗ヲカイタヨ」
「ソンナニ力ヲ入レテコスツチヤ 皮ガムケルヨ」
兵士が背中を洗い流しながら、お湯でリラックスしています。
日本では江戸時代からお風呂文化は定着していました。が、各家にお風呂が本格的に普及したのは昭和40年代以後と記憶しており、それまではこうした大きなお風呂を皆で使うという形での入浴が一般的です。
明治以降の近代化において、例えば炭鉱でも大型炭鉱から率先して給湯システムを整えた大きなお風呂を設置、工員への福利厚生として提供していました。軍隊においてもお湯たっぷりの風呂は、大いに歓迎されたのでは、と思っています。

点呼
「気ヲ付ケ!番号!…
 再三班 異常アリマセン」
寝る前の点呼の様子です。絵では寝台の前に並んでいますが、廊下に一列で点呼を受けている写真もあります。集団生活でもあり、こうした規律は厳しかった様です。
一班ごとに割り当てられている部屋の配置がよくわかります。

不寝番
「グーグー スヰスヰ」
「寝ゾウノ悪イ奴ダ カゼヲ引クゾ 直シテオイテヤラウ」
「グーグームニヤムニヤ」
「オヤ頭ガアツイゾ 熱ガアルラシイ 冷ヤシテヤラウ」
不寝番が描かれています。これは班から一名が任命され、一時間交代で番をします。班員の異状の有無を消灯から起床まで監視する任務です。 
ちなみに寝台は狭そうで、寝相が悪いと周囲は大変でしょう。

掃除
「今日ハ寝台ヲ外ヘ出シテ日光消毒ダ ヨイショヨイショ」
「ココガスンダラ 便所ノマハリダ」
「サア馬力ヲカケテ キレイニ 早クヤラウ」
「他ノ班ニ負ケズニ キレイニシヨウゼ」
手分けをして協力し合っての清掃が、屋内だけでなく屋外でも行われています。これも小野寺秋風の絵ですが、手前から遠方まで人物をぎっしりと描き、巧みな絵です。また解り易いと感じます。今日でも小野寺氏の絵葉書が古本で入手しやすいのは、当時も大いに人気があり良く売れていた、とも想像されます。ちなみに小野寺氏は昭和30年ごろまで少年少女向け漫画などで活躍されていました。

掃除
「ヨイショ!!」
「ソレツ 気合ヲコメロヨ…」
「ウントコドツコイシヨ…」
「他ノ班ニ負ズニ早クヤレヨ…」
さて、これも、掃除の絵です。軍隊漫画シリーズでは、違う絵師でもネタや内容が被ってしまう(類似の物)傾向があります。
あと、絵師が異なっても、兵舎内部のデザインは同じである事がわかります(中央に廊下があり銃架が配置されている、簡易な支柱の個々人用ベッド)。標準的な兵舎の設計ということでしょう。

「干場当番」
「俺ガ当番シテイレバ衿布一本ダツテ
 ナクナルモノカ……」
「?……」
もう一度、干場当番です。袖に腕章を付けている事から、任務として配置されているものと考えられます。台詞から見て、紛失を見張っているとも受け取れます。あるいは泥棒除けか、という推定も前述しました。もう一点、干し場当番が配置されている点についての考察ですが、兵士同士の横取り防止とも想像されます。
服装などは各員へ一通り支給されるとはいえ、予備がそうそうあるわけではなく、また服装も繕いなどは各自が管理をする必要があります。そうした支給品を破損してしまった場合、当然、代替品の支給を申請する必要がありますが、申請は楽ではなかったのではないか、場合によっては叱責を受ける事もあったのではないか、と思われます。そこで、状態の良い物をこっそり自分の物としてしまう不届き者(?)が居たのかもしれません。
当時の人の話にも
「要領のいいやつは、とっさの招集でも、手近にあるものをさっと掴んで、駆けだした、先に任務について整列しておかないと、遅れようものなら、制裁が待っていた。」
というのを聞いた事があります。
兵隊さんも何かと楽ではなさそうです。
ただ、これは何処の国でも大なり小なり起きる様で、アメリカの軍隊内兵士向けに作られた、モラル向上を訴えるポスターに「スペアパーツは均等に分配し不正に蓄えない事」という内容のものがあったりします。
組織が大きくなると、どうしてもモラルを見張る係りが必要になるのだ、とも考えられますね。

「面会所」
「だうしたんでせうネ?」
「なに…そんなに泣くだ…  今にお父っちゃん来るだーから  おおよしよし、いい児だいい児だ」
「わーーー」
「やあ!!お待たせいたしました。」
「しばらく見ない内にまっくろになって…  家はみんなたつしやだから安心して呉れ!!」
「姉さん!!  この精勤章って中々もらえへないんだヨ
 今度中隊では五人きりだったよ!!  だうです…  正雄はヱライでせう!!
「ねーやよひさん正雄をほめてやって下さい」
「あら!!  いやだわ…  はづかしいわ」
「面会所 用事のないのが のぞいてる」
矢部静水画 「入隊から満期まで軍外教育絵ほどき」の中から3枚ほど入手できました。
この絵ほどきは、上編下編とあり、推定ですが、それぞれ約三十枚です。つまり上下編で数十枚のシリーズと思われます(ちなみに矢部氏は「入営」や「入団」ではなく、「入隊」としています)。
また、いずれにも一句、川柳が添付されているのが特徴です。
さて、絵は面会場を描いた物で、家族との会話に花が咲いている様子です。入隊から除隊までを描いたシリーズは多くあり、その中にはこうした面会を描いたものが入っている様です。任務に付く若人らに、家族の訪問は大いに励みになったものと思われます。
中央左の兵士は姉と妻が面会に来ている様です。当時、
出征にあたり、急いで結婚したという話を複数聞いたことがあります。風呂敷包みも見え、大きなお土産の様です。

「演芸会(中隊全員を集めて無礼講をやるのです)
「おいちにの三だよ!!おいちのさん!
 チヤラチヤラチヤラ チヤラチヤラチヤン」
「おほほ」
「大石も今迄ネコをかぶっていたが 中々の芸人だな!」
「たっぷり頼むよ」
「お次は銃架の前の班長殿、何か一つ願ひます!!」
「おれか?ダメダ ダメダ」
「教練の下手を余興で埋め合わせ」
兵舎内へ皆が集まって、演芸会で盛り上がっている様子です。
特に食べ物などが振舞われている様子はなく、無礼講としましても質素なものの様ですが、それでも中々の盛況です。

「記念撮影」
「早野!!
精勤章つけると相当ウデも重いだらうな!!」
「おい!!
 写真屋さん ココをはっきりとって下さい。」
「へーい
 承知しました…
 とりますから何卒こちらを見て下さい
「精勤章  もらって  記念の写真とり」
戦後、カメラが普及するまでは写真を撮るというのは一大イベントでした。ただ、日本ではカメラ好きといいますか、昔からカメラ屋へ出かける、あるいはカメラ屋を呼んで撮るなどして、沢山の写真を撮っていた様ですし、共営へも出張撮影をしていたのでしょう。
一方で、兵役は、やはり誰しもが家には帰れない(殉職する)事を覚悟して任務に就いていました。兵士らの台詞は生き生きとはしゃいでいる印象がありますが、自分が生きていた証を家族へ、という意味合いも少なからずあった様です。


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