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満洲風俗風習その6



                        
満州風俗の続きとしまして、こちらでは宗教関連をみてまいります。

孔子祭
孔子祭は、満州は勿論、広く中国、そして台湾でも行われるものです。過去の偉人の霊を祭る祈りの姿です。
さて「祭」とありますが、祖先の霊を祭るということで、日本でいう祭りとは意味合いがやや異なります。写真には写っていませんが、祭壇には鶏や豚の生贄が捧げられています。こうした生贄を置くのは儒教や道教の先祖崇拝ならでは、です(日本では神様でも先祖でも、お供え物に肉などの生臭物を使うことはありません。
孔子は偉大な人物として理解されており、それは日本でも、また満州でも同じだったようです。日本でも東京で孔子祭は行われるそうですし、お供え物は何か、興味があります。
ちなみに孔子の姿の絵は、まるで化け物みたいな姿で描かれてしまいますが、これは福相と呼ばれる身体的特徴を全部入れ込んだ図像にしてしまった為です。

ずらりと人々が三跪九叩しているようです。
恐らく、孔子祭は実在した過去の偉人の霊を祭る、ということで神を祭る意識ではないかもしれません。
今日でも孔子祭は広く行われており、台湾でも地元の小学生が動員され、そのため事前に繰り返し練習したりしているそうです(中国では、文革の際に孔子は貶められましたが、今日では孔子廟も観光向けに整備されています)。

端午の節句の龍燈踊
『由来、龍は特別な関係を感じているものであらゆる場合にこれをあらわすが祝祭の日に際してもまたこの通りに彩色せる龍形の長々しい形をるくり多くの人々がこれにとりつけた
棒を捧げて練りあるく。これには楽隊が伴いにぎやかに囃し立て萬燈などをもち出しその盛んなことお話にならない。
殊に端午節句には最も大規模に行われて万週名物のひとつに数えられる。』
画面右下から中央にかけて大変に長い龍が見えます。日本でも長崎、おくんち祭り(長崎くんち)で五嶋町の龍踊があり、これによく似ています。
画面右側に居る人だかりは、右の方を向いているようです。ほかの場所の人たちも右を向いています。またその方向に空き地があるようですし、龍の踊りなど出し物はそちらで行われており、画像に写っている龍は待機中では、と想像します。
遠くには鉄道が、さらに遠くには白く新しい街並みが見えます。
古くからの歴史がある祭りと近代化が同時にある、満州ならではの風景と感じます。

回教寺院(チチハル)
満州国には様々な宗教があり、様々の寺院がありました。
例えば奉天の様に歴史の長い町には、様々な寺院がありました。回教徒寺院、道教廟、フランスの天主教大寺院、耶蘇教の寺院が集まっていました。当時の書籍にも『宗教上でもコスモポリタンである。』
とあります。
またなにも大都市だけでなく、地方にも様々な寺院がありました。
画像は回教寺院です。北満、チチハル近郊での撮影です。門の上に回教の印である三日月の紋章が高々と掲げられています。門の入り口の上には「清眞寺」とあり、ここだけ見ますと満州風かもしれません。
回教は当時の中国全体に広く布教されており、七〜八百万人の信者がいた一大宗派ですが、北満では回教徒は少なかったそうです。

草原蒙古の怪奇、喇嘛寺院と跳鬼
喇嘛(らま)教は、今日でいうチベット仏教にあたります。また跳鬼は"らまおどり"と読み仮名があります。
飛ぶように踊る姿は、日本で馴染んでいる仏教とは随分と雰囲気が違います。写真でも躍動感を感じさせるもので、ラマ教特有の踊りだったと思われます。

喇嘛教、跳鬼のお面
お面を正面からクローズアップ。非常に細かく作りこまれたお面で、全体に獅子の様な、不思議な印象があります。額に目のような模様などもみえます。

蒙古地方での風俗、これも跳鬼です。なるほど、鹿以外は、鬼にも見えます。一人、子供が混じっています。右後ろの人物はラマ僧と思われます。
これは彩色写真で、絵葉書にプリントするにあたって色を塗ってあるもので、必ずしも元の色とは限りませんが、それにしましても派手な衣装であることがわかります。

北満州ホロンバイルのラマ僧
寒いホロンバイル地方(蒙古)での撮影です。
ちなみにチベット仏教は、ラマの尊称を持つ化身ラマ(活仏)を尊崇しており、このことから、戦前の日本では「ラマ教」と呼ばれていました。
今日ではチベット仏教と呼ばれますが、例えば報道でもダライ・ラマという呼び名がありますことでご存知の通り、ラマという言葉自体が廃れているわけではありません。
当ページは戦前書籍からの取材をベースにしておりますことから、記述につきましてはそのままラマ教としております。
ちなみに当時のダライ・ラマは第13世で、歴史のうねりの渦中にありました。また親日家で知られていました。

ホロンバイルラマ僧I
少年僧です。

喇嘛寺院
ラマの寺院には様々なデザインが見られます。
ラマ教徒は財産を寺院に収めますためでしょうか、寺院は意匠を凝らした大掛かりなものが多くあります。
こちらは垂直に切り立った石の壁で構成されています。先ほどの少年僧の背景に写っている寺院と思われます。

喇嘛教(ラマ教)寺院の壁画
多聞天が彫られています。キャプションには
『蒙人は先に喇嘛教を借りて漢人を調伏し、満人は後に同じく喇嘛教を用いて蒙古を征服した。恐るべきは宗教の力である』とあります。
調伏したとありますが、しかし漢人は一方で満州に進出して、満州国が設立したときには満州語すら廃れていました。征服、被征服の激しさがうごめいている地域であることがわかります。
画像は、キャプションに『摩利海の脇像』とだけ紹介されており、撮影は満州のどのあたりかは不明です。
ラマ教は仏教の宗派のひとつで密教的な要素が大きいとされます。仏像なども、日本と宗派が違うことから、私たちの知る仏教とは随分と印象の違うものとなっています。

喇嘛寺院

熱河の離宮
熱河地方に有る巨大なラマ寺院です。
この地方の蒙古人を制圧するため、清朝が大ラマ廟を営み、夏の離宮を造ったとあります。
このラマ廟は、今日も残っています。

承徳・喇嘛廟大佛寺
ラマ寺院をさらにみてみます。

大きな建物であることが特徴として挙げられます。
屋根の上には、ひょうたんを逆さまにした様な不思議な飾りがあります。
遠くには山々があり、また民家の類は全く見えません。
人里離れた山の上に寺院は建てられている様です。

龍首山山頂の慈清寺
鉄嶺の郊外にある龍清寺とも呼ばれるお寺です。
龍首山は高さ100メートルとの事で、小さな山です。宗派は不明です。ふもとには地元民に人気の会った遊園地がありました。同じ龍首山上には、満州風景頁にも紹介しておりますラマ塔があります。
満州の風景写真で、山の頂上にぽつんとなにか立っているのが写っていることがありますが、こうしたお寺やラマ塔だろうな、と想像しながら見ています。 

天斎廟の地獄極楽
『金州の天斎廟には地獄極楽の相を彫像であらわしたものがある。道教風の怪奇なものでこの地を見物する者は必ずこれを見るため天斎廟を訪れる。写真はその一部で、地獄。』

生前、悪行を重ねると閻魔大王に裁かれ、地獄に落とされるという死生観は日本でもおなじみですが、こちら満州でも大いに信じられているようです。
画像は閻魔のお裁きと地獄のジオラマ展示で、金州での撮影です。
ひときわ大きい閻魔大王も、こちらは怖い顔には作られてはいません。色合いも顔は白塗り、また周辺も濃く写っており、けばけばしく塗られているようです。日本で見る仏像などの地味な色合いからすると、かなり不思議な印象があります。

こちらは新京にある般若寺の
大きな般若(仁王?)像の足元に彫られた像です。
日本でも四天王や執金剛神に踏みつけられている小さな鬼(悪鬼、あまのじゃく)がありますが、これも同じ主旨と思われます。左右をそれぞれ一枚にしています。
色合いは白黒ですので想像するしかありませんが、綺麗に塗り分けられている様です。目もぱっちりしています。
(如何にも人形的な顔つきで、つい、1960年代にイギリスで作られたサンダーバードのマリオネットを連想してしまいます)。

慈悲に満ちた顔つきの仏像です。
承徳で撮影されたものですが詳細は不明です。

大連の基督教会
大きな教会です。キャプションには
『基督教といえば植民地の欧米人の宣教師の手になるものであるが、この写真こそは日本人が満州で最初に建築せる大連の基督教会で、満州における日本人普及の好記念物である。左隣の門は幼稚園の入り口。』
とあります。
満州では経済治安の安定に伴って、キリスト教も広まっています。当時の資料にも"耶蘇教、基督教が急速に広まった"とするものがあります。
ただ、耶蘇教も基督教も、どちらも今日で言うところのキリスト教です。資料によってはこれが併記してあるものもあります。もしかすると異なる宗派として認識されていたのか、どちらも同じ意味だから区別せずに書いたのかもしれません。

こちらは撫順のキリスト教会です。
主要都市には、こうした立派なキリスト教会があったようです。
満州の地域は、もともと様々な宗教が入り乱れて存在していた地域でしたが、
満州国設立後に撮影されたこれらの写真からも、それぞれの宗教が、それぞれ自由に信仰をしていたものと思われます。

葬式
『支那、いずれの国でも葬いの式を盛大に営むものであるが、特に支那においては古来から葬式を壮大にして一家の財を散じてしまうその弊害を憂い、幾度か薄葬の例を発したのであるが、今日に至るも、依然として盛大に行われている。』
撮影は満州国の金州で、漢民族の風俗風習特有の大規模お葬式の風景です。支那(現在の中国)全般に、こうした盛大なお葬式が行われました。

『満州風俗として最も珍なるものは葬式風俗であろう。
これは支那本土とも軌を一にしているが、楽隊の囃子賑やかに、一見、嫁入り行列と区別しかねるほどである。
悲しそうにも泣く、ただ奇声を発して習慣的に泣き叫ぶ遺族の奇観にいたっては唖然たらしめるのみである。』
キャプションには遺族が大きく泣き喚く事がふれられていますが、泣くといえば、葬式に泣き女が居るのも特有の風習です。その名の通り、お金で女性を雇って泣いてもらうわけですが、これもかなり騒がしいものだったようです。数人の程度の女性に泣いてもらうわけですが、これが大声をあげて土間を転げまわるのだとか。おおよそ数分おきに数回繰り返され、日本人などは珍しさにその泣き女を見物したという話もよく見かけます。しかも、たった今まで泣き崩れていたはずの泣き女が起き上がってみると一粒の涙も流れていないのだそうです。

『満州人の葬送 斉斉哈爾(チチハル)近郊に見られる葬送の姿。この風俗はあながち満州固有のものとはいわれないが、満州に於ける風習を見る括弧の材料である。家の前に置いてある車や家やその傍らに立っている人や花木は皆、紙細工であって、やがて墓地の前で焼かれてしまうものである。これは死者をその従者や馬や車で葬送させる意味で作られたもので、かつて行われていた殉死の名残り。』
盛大に行われること、支那に広く共通で行われる盛大なお葬式の風景です。殉死とありますので、かつては本当に使用人が埋葬されていたのでしょうか。この他、中国のお葬式でいえば、お葬式用の模造のお札を燃やすのも良く知られています。
撮影されたのは満州北部、極寒の地のチチハルです。こうしてみると、古くから中国全般に広く、盛大な葬式が行われていたことがわかります。
チチハルといえば、この地を旅した特派員が見たお葬式関連の話があります。
まず家の前に立派な棺おけが据えてあったそうで、これに興味を持った特派員が、誰かの葬式でもあるのかとたずねると、その家の老婆が、この棺おけには自分が入るのだと大いに見せびらかし、自慢したそうです。
北満の大草原の広がる土地ですので、棺おけをつくろうにも、それなりのサイズの木を手に入れるのは容易ではないわけです。おそらく大枚をはたいて木を手に入れ作った棺おけなのでしょう。ただ、それを家の前に飾るというのは、一寸、日本の風習からは判り難い、満州ならではといった気がします。

さて、画像に残されているのは裕福な人たちの葬式です。
清の末期、そして清国崩壊後の富の格差は非常に大きいものでした。そして貧しい人は葬式すら出せませんでした。
いわゆる貧民は共同墓地へ埋葬されました。町外れに大きな穴が掘ってあり、ここにいくつも遺体をいれていくわけです。ハルピン市では市の衛生自動車が毎朝町を回り行き倒れの遺体を回収したといった話もあります。これも、この大きな穴に遺体を入れて行き、穴が遺体で一杯になると埋めてしまいます。
こうした貧しい人たちの共同墓地は「貧民義地」や「万人坑」と呼ばれます。万人坑というのは、もともと共同墓地を指します。

万人坑は疫病でも作られました。
かつては、疫病などが流行ると、その広がりを恐れ、病気にかかった人を生きたまま「棄て墓」と呼ばれる場所に人々が投げ込まれてしまいます。これは何もアジアに限ったことではなく、世界中どこでもありました。日本でも江戸時代やその前は、疫病は隔離しか手がありませんでしたが、特に清や明などの頃は衛生面での社会資本もなく、また人々の衛生意識も低かったことから、ひとたび疫病が発生しますと、たちまち広がってしまいます。そこで犧牲者を早く埋めて村ごと焼きはらうしかなく、結果、万人坑に遺体が集められるということになります。
この他、子供を失った親がボロ布で包んで木箱に入れて埋める、あるいは城壁の外に置いてきてしまい、犬や狼が遺体を狙うのだそうです。
この紹介をした書籍では、布に包んで置きっぱなしにしているだけ、と驚きと侮蔑をもって書かれています。※
ところで、この一点についてその現場を見ていない以上、この記述の通りだと理解すべきなのでしょうが、しかしながら違う状況も考えられないでしょうか。
まず、墓穴を掘らず、そのまま置いてきたという点、これについて。この目撃談が冬であれば、この季節に満州の地面に穴を人力で掘るのは極めて困難です。地面が凍て付くからで、明治時代に日本陸軍兵士がつるはしをもって4人がかりで蛸壺(たこつぼ、一人用の塹壕を指す軍隊の俗語)を掘ろうとして一人分の穴もあけられなかったという話を聞いたことがあります。
また墓穴を掘るには専門の人夫(にんぷ/土木工事・荷役などの力仕事に従事する労働者)を雇うのが普通かと考えます。当時の貧しい庶民が、そこまで出来なかったというのはしかたがなかったとも思われます。
また布にまいていた件ですが、先のハルピンでは行き倒れの死体は大抵、丸裸だったそうです。これは追いはぎが遺体から下着、靴にいたるまで持っていってしまうからです。そうして盗まれた服や靴は、蚤の市と呼ばれる路上の市場で売られ、そして買われていたりしました。その位、貧民には布も貴重でした。親が子を、見た目はボロに見えても布で包んだというのは、せめてもの、というふうに思いますのは考えすぎでしょうか。

※『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著にその記載があります。ラルフ・タウンゼントは米国人で、上海領事館副領事、そして福建省で副領事を務め、またジャーナリストでも知られます。当時の中国を風習まで踏み込んでみるなど1933年の当時を知る貴重な本で、先日、芙蓉書房出版から翻訳が出版されました。

便所
さて、ここからは画像無しで。便所についてです。
庶民の生活における重要な要素ですが、現状、満州の便所の写真は全く収集できておらず、また実はこれら編集をすすめているなかでも見たことがありません。これについて、探索の範囲を広げると見つかる可能性はありますが、ただ当時はフィルムが貴重でしたので、便所なんかをいちいち写すことは無かったと考えられますことから、便所の写真は今後とも見つからないのでは、と思われます。
が、もうひとつ写真が見つかりにくい要因として、実は満州にはトイレを作るという習慣に乏しい地域であったことが上げられます。理由は簡単で、排泄されたものは豚の餌になるからトイレそのものが要らず、最初から作られていません。これはなにも、なにもこの地域だけでなく、東南アジア全般でも同様に豚の餌になっていました。トイレがそのまま池になっていて、魚を飼っている場合もあります。
もうひとつ、戦前の書物などでは、どうも糞便を生活のなかでキッパリと分離するという習慣に乏しかった様にみえます。これは欧州でも言えたことですので、なにもアジアが劣っているのでは、という話ではありません。が、勿論、疫病などの予防の観点からは良いことではありません。近代化にともない、順次、改善したのでは、とも考えますが、詳細資料は未だ入手していません。

日本では、トイレは、きっぱりと生活から分けたスペースを設けるのが習慣としてあります。これは、日本が高温多湿で腐敗しやすい環境でもあり、必要に迫られたから、と考えられます。つまり衛生の観点からみて、というわけです(先日、奈良時代の水洗便所というのも発掘されました)。
さらに江戸時代から、肥料として活用されるなどの目的もあって、きちんと集める場所を決めるなど日本では古くから便所を設ける習慣がありました。また堆肥の活用により江戸時代には日本の単位面積当たりの農産物収穫量は、欧州よりはるかに優れていたという資料があります。
こうした日本人の習性からか、満州国では、例えば計画都市である首都新京は水洗を用いることを都市計画の最初から盛り込んでおり、またそれは新京に広く実現しました。一方で、満州は大変寒い地域ですのでこうした水洗は冬場に凍結が心配です。もしかすると日本でも雪国では水洗の水を出し続けることで凍結防止を図っており、新京同様の工夫を行っていたかもしれませんね。

ちなみに上海や蘇州など中国の南の方では最近まで(一部では今でも)馬桶と呼ばれるおまるを用いていました。
洗ったおまるがよく家の前に干してある、家で用を足しておまるがいっぱいになると近所の共同便所に捨てに行くという習慣でした。だから共同便所は、人間が直接使う便器に並んで、おまるの中身を捨てる穴があり、その場で洗えるように水道も設けてあります。

もうひとつ、おまるについて、満州はハルピンでのロシア人での話しを。
満州は寒い地域で、冬場にはあらゆる物が凍ってしまいます。
当時、満州にいらした方にうかがいますと、トイレも凍って困ったそうです。
一方で、ロシア人の家にはトイレが無い場合がありました。どうしていたかというと、部屋の隅にある壺で用を足していたとかです。いわゆるおまるです。日本ではあまり馴染まない習慣で、こうしたロシア人のトイレのことは意外であったようです。
現地では、これをガルショーク(おまる)と呼んだそうですが、私が知るガルショークはスープの入った大きなカップにパイ皮生地で覆って焼く料理ものです(グリヴィーとも呼ばれる)。なんとも食欲をなくす紹介をしてしまい、真に恐縮です。当方はロシア語に疎く、このあたりがよく判らない状態ですがガルショークは壺、植木鉢、おまる、と入れ物全般をさすのだそうです。つまり、トイレがわりのおまると言葉がかぶっているともいえます。
この言葉がかぶっているあたり、これは日本的感覚では考えにくく思われます。穢れとか汚れとでもいうのか、日本では言葉すら、きっぱりと分けているふうに感じるからです。
ところで、先のハルピンロシア人の話の続き、冬には厳しい寒さのためか、ガルショークが満タンになってもいちいち捨てに行くのが面倒になり(多分、凍ってしまうだろうし)、他の空いた入れ物をおまるがわりにすることもあったそうです。これもまた、日本人には馴染まない習慣です。
これはロシアだけでなく欧州にもひろくあったらしく、冬場に伝染病が流行る背景でもあった(不衛生であった)とされます。一方、ユダヤ人は昔からトイレをきっぱりと分ける習慣であったことから疫病にかからないことがおおく(宗教的理由?)、これが原因で疫病をユダヤの陰謀とする差別行為があったのだそうです(ユダヤだけ無事なので)。


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