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満洲風俗風習その7

大道芸 娯楽



                        
高脚おどり
『縁日とかお祭りの日は高脚踊の余興がよく出る。
数人の踊り手が支那芝居そっくりの隈取りや衣装やらで竹馬をつけて足取り面白く踊り狂う。傍では囃し方がそれぞれに合わせて楽を奏でる。
やがて観衆も踊り手も一体となって熱狂する。
赤や黄色や緑や青のごく彩色の着物に濃厚な彩の絵旗を翻しさらに、たまに愛養の雲雀籠までもちだしてトントントコトン踊り狂う。
あくまで支那式である。』
中国で広く行われた高脚踊りで、ここ満州でも大いに活躍した様です。
また寒い時期に行われていた様で、これが農閑期のお祭りだからでしょうか。国民の八割以上が農業に携わる農業立国である満州ならではともいえます。

高脚おどり
『囃子の音楽につれて高脚で舞を踊りながら大道を練り歩く
扮装はそれぞれ思い思いの趣向を凝らして変装し、あるものは大旗を背負い、あるものは小鳥の籠を持ち歩く。珍奇を極めたものである。』
木々の葉が散った冬の寒そうな道を、向こうから道の両側には、早速見物人が集まっています。
当時の高脚おどりを見た人の話に
『楽器を持つ舞楽隊が呼吸や笛をかなで、派手に銅鑼を打ち鳴らす。芸人の靴には長い木製の足が取り付けられ、全高二メートルにもなる男女がバランスを取りながら、凍った道をひょいひょうと踊る。踊り手は皆、真っ白く化粧をしていた。』
というのがあります。

高脚おどり『珍しい地方色、撫順歓楽園娘々祭』
撫順での娘々祭りの様子で、大変な人だかりです。
ここにも高脚の踊り子が見えます。
娘々祭りは、最も大規模な大石橋を別途掲載しております。

高脚おどり
髪飾りの様子が良くわかる写真です。とても軽快に踊り、見るものを愉快に驚かせたそうです。

元宵節  高脚踊り城内
『囃の音律に調子を合わせ身に高足を付けて舞いながら大道を練り歩く。
思い思いに趣向を凝らした変装に大旗。或るは鳥籠等を持ち珍奇を極めたものである。』

高脚踊りについては概ね高脚と書かれ、こちらの様に高足とかかれているのは稀です(タイトルは高脚とあり、もしかすると活字の間違いかもしれませんが)。
こちらは、元宵節というお祭りでの風景、城内とありますが、撮影場所は不明です(背の高い建物も見えますし、奉天でしょうか)。こちらの写真は、如何に高脚が人々の背丈よりも高い位置で踊っているかがよくわかる一枚です。


踊り子
きらびやかな踊り子です。総(ふさ)をつけた太鼓を小脇にポーズをとっています。
これはカラー写真ではなく彩色写真、つまり白黒に後から色をつけたものです。彩色写真は色の間違いがよくあるとはいえ、元の色を参考にしているとすれば、随分と凝った装飾です。
頭の飾りもおおがかりです。

旅芸人
各地を渡り歩く旅芸人です。
『旅芸人には日本における越後獅子にも似たものもあれば、阿呆駄羅経(あほだらきょう)にさながらの賑やかなものがある。
手に手に竹切をもち表紙をとりなして節も、おもしろくうたっては踊り歩く。』
ちなみに後ろの大きな房は飲食店の看板です。白黒ではわかりませんが、このタイプの看板は赤く塗ってあるのだそうで、絵画でも赤く塗ってあります。

かつては日本にも旅芸人はあり、村はずれの空き地にテントを建てて村人を楽しませました。総じて貧しかった様で、旅芸人の子は学校にもいけませんでした。戦前の日本のお話ですが、テントの裏で遊んでいた旅芸人の子供と仲良くなり、要らなくなった教科書をあげたら大変喜ばれたといった話もありました。

『妙へなる調べにあわせて踊る様子もおかしく町を流し行く仮面をみれば、ひとりでに笑えてくる。』
服装から見て冬の様です。
画面右半分、子供が二名、大きなお面を頭からすっぽり被って家の前で向き合っています。踊りの最中か、二人とも手がブレて写っています。お互いに房状のものを投げ合っている様にもみえます。
左の大人はお囃子をしているのでしょう。
家の玄関からは大人も子供も面白そうに見物に出てきています。

満州支那の生活に深く根を下ろしている支那劇
大きな舞台で、豪勢な衣装で踊る姿です。ぎっしりと人々が集まっています。
さて、キャプションは、戦前の図書だけに『支那劇』と記載がありますが、この写真の範囲では、詳細はよくわかりません。いわゆる京劇では、と思われます。
現在の中国でも、様々な地方劇(伝統劇)は、どちらかと言うと北京、そしてその南に多くさかんです。
さて後ろの横断幕は、文字が判明しませんが、「粉黛」(おしろいとまゆずみ)と読めるとの事です。これは役者の名前ではなく、おめでたい文句、劇にちなんだ洒落た句が書いてあるのでは、との推定でした。

ちなみに、こうした京劇は盛んであった一方で、言葉がわかりにくかったためか、在満邦人が見に行ったという話はみかけません。旅行者やジャーナリストの記述に、是非現地の風俗を、と思い見に行くと、観客席で「へぇ、日本人が居る」と周囲の観客に珍しがられ、じろじろ見られたそうです。

さすらひ
『さすらいの旅から旅へ二人連れ
今宵は何処に宿ろうか
聞く人も無し淋し笛の音』

寒そうな冬の街角、木々の葉は散っています。
旅芸人でしょうか、少年と思われるほうは、下を向き、とぼとぼと歩いています。
撮影場所は不明ですが、背後には立派な鉄筋のビルが、また歩道が杭でしきられて居るのが見え、大きな街の様です。
後ろには板塀があり、またビラやポスターをはがした跡が見えます。
寒そうな街角、街は活気がありそうにも見え、芸人と対照的です。

こちらも旅芸人でしょうか、とても寒そうにみえます。
背景は白く飛んでしまっており、写っていません(黒い服装に露出を合わせたため、明るい背景が白く飛んでしまい、写っていない様です)。足元の影から砂地か砂利がみえ、街中ではなく、舗装していない道路か広場での撮影と思われます。
さて右側の人物、抱えているのはどうも三味線に見えます。服装は袖などからみて分厚そうですが、裾には細かい刺繍があります。
左側の人物は杖の様に棒を持ち、右側の人物と棒を持っています。もしかすると目に障害があるか、とも考えました。

風俗影絵芝居
繊細に踊る人形をスクリーンに影で映してみせる影絵芝居を演者側から見たものです。
正面スクリーン向こうに観客が居ます。
意外と人気があったのか、あちこちに小さな小屋で上映されていた様です。
当時の旅行記に
『驢馬の河で作ったという繊細で素朴な人形が踊り歌と陽気な胡弓の音がしている。』
というのがあります。
こうした影絵の光源は、かつては蝋燭が用いられていました。こちらでは右上にライトの傘が丸く見えます。影絵にも、文化の恩恵が見て取れます。

街頭の熊使い
『哈爾濱の街頭では、時々、大道熊使いにである。
悠長な満州人の歌に合わせて熊がこっけいな身振りで踊る。
一芸すむと群衆がパラパラと金をなげてやる。そうすると、熊は次なる曲目にうつる。』

盛況の様子です。
大勢の人だかりができており、顔つきを見ると、ほとんどロシア人の様です。
熊は大きなお面(猿轡?/鎖が首輪につながっているすぐ左横)の為、あまり熊っぽく見えません。満州には森林地帯に虎や熊といった大型獣も居ました。

熊踊り
『満州国も北の方のハルピンの街外れ、ロシア人や満州人に囲まれて大道の見世物熊踊り、
踊りが済むと見物人は一銭二銭とお金を投げてやるのです。』

広瀬貫川氏の絵で、キンダーブック「マンシウ」に掲載されたものです。先ほどの写真をベースにしたものと判りますが、熊使いの背を高めに、また見物人に青い満州風の服装の人物を加えてあります。

胡胡琴の調べ
『ジャンクの船頭である。ジャンクの船頭といえば頑丈な荒くれ男を想像するが、何さ彼もまた人の子。
風に月に寄せる思いは同じであろう。今かれは手すさびの胡弓を取り出した。妙なる調べが
月光のなかを浪うち流れる静かな夜の姿を思ってみられるが好い。』

音楽のこころえのある船頭との出会いを紹介してくれています。写真は、取材旅行中に出会ったものでしょう、船頭の膝もとの帽子は撮影者のものと想像します。
庶民にも音楽の心得がある人がいたことがわかります。


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