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海拉爾

ハイラル


                        
ハルピンから出発すると興安嶺を超え内蒙古の入り口、海拉爾(ハイラル)へは半日で到着します。
ハイラル周辺には、一面、地平線まで青い草の茂るホロンバイル草原が広がります。
勿論、一年中青々としているわけではありませんが、初夏の青々とした草原は、見事に美しいものだそうです。

古くからある街で、これをロシア人が広げた経緯もあります。
そのため、新市街がロシア風、それ以外の古い街は中国風であったそうです。
ホロンバイル高原の中心をなす、といった記述をしている資料もあります。実際に四百数十件にのぼる商店があつまっていたそうで、物産の流れがあつまっていたものと想像します。

地図を示します。元は白地図ですが管理人にて色を付けてみました。満州里、ハイラルを赤くぬっており、中央がハイラル。南の興安嶺を緑色に、東にチチハルを赤く塗っています。
左下に呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)があり、これを青く塗っています。

周辺には農業、林業、牧畜に向いた地域が広がっていました。

海拉爾(ハイラル) 遠景
小高い丘から見下ろしたハイラルです。
ハイラルは整然とした新市街と泥屋根の旧市街という紹介があります。
おそらく新市街と思われます。
背の高い建物は見えません。
画像を拡大して探してみたのですが、たとえば教会といったものもみあたりませんでした。
『ハイラルは呼倫ともいわれる。ハイラル川の流れに沿い、東支鉄道西部線に接して発展する。
地味不良で、食料品は移入に頼る状態である。
畜産類の集散は相当に盛んである。近郊に産する松茸は、かつて蒙古王が、北京参朝の際に土産にしたという因縁つきのもの。』
この松茸の記述ですが、寒い地域であっても松が育つのでしょう、画面左の木も松に見えます。

海拉爾 (ハイラル) 遠景
こちらも小高い丘から街を見ています。
白い壁の洋風の建物がいくつもみえます。

こちらハイラルでは、ラジオの放送局がありました(1938年12月25日に放送開始)。当時、満州のラジオは日本と同じく受信料を払って聞くものでした。

海拉爾(ハイラル)市街地
こちらは旧市街で城壁の内側です。
城壁については規模の小さなものの様で、奉天の様な高い壁はみあたりません。
こちらの通りのはるか遠くに小さくしか見えませんが壁があり、行き止まりの様に写っています。これが城壁では、と考えます。また撮影はやや高い位置で、道路の延長線上で行われています。もしかすると、撮影者も城壁の上に立っているのかもしれません。だとすると、視線の角度から見ても、あまり背の高い壁ではなさそうです。
さて建物については、ほぼ平屋です。屋根が平らに近いのは不思議な気がします。また道路は家より一段低く、さらに左側には雑なつくりですが溝がほられています。時期によって道路が泥濘になるのでは、と想像します。
馬がいくつも行きかっています。
左、電柱が並んでいます。
ちなみに左手前から日本眼の電柱のしたに白い人の背丈くらいの箱が建てられています。これがなにかは特定できませんでしたが、もしかして公衆電話でしょうか。

海拉爾(ハイラル)市街地
ハイラルの歴史
『ハイラルは蒙古人統治の政庁所在地で
幾多の官庁を設けるが、定住しているのはロシア人と満州人漢民族で、竣工である蒙古人やそのほかの土着民(少数民族)は、どこからともなく城内へ集まり来る。
東支鉄道のハイラル駅付近を新市街と称し、純然たるロシア人は人工五千人程度、道路は広く、区画は整然としている。
城内とは、北側に城壁と大門をかまえたのみで、東に伊敏河(イミンホー)をめぐらし、西に西土山、南は茫々足る平原である。商家は正陽街のみで、毛布、羊肉、羊毛、及び日用品を物々交換する。』

伊敏河(イミンホー)は、ハイラル川と同じと思われます。
画像ですが、キャプションに「ハイラル市街」としかなく、詳細は不明ですが、こちらに写っているのが、大門かもしれません。
城壁は門の左にちらりとみえる部分でしょう。余り背の高い壁ではなさそうです。右側は家の屋根より低いために隠れてしまっている様です。

ハイラル川の渡し船です。
南満州で見られるジャンク船とも形状が異なってみえます。船には制服を着た人物が見え、どうも地元の警察の様です。
この写真のキャプションによると
『ハイラル川は山嶺より出て諸所の河を集めて呼倫湖にそそぐ。
ハイラルは、この川が市を通り過ぎて流れるので、その名がある。』
とあります。
先に掲載しております先の地図で見ると、確かに山から発して市街地へ辿りつく川は描かれていますが、それは湖とはつながって描かれていません。
これは地図の誤りでアバカイト(地図では右から左へ記載)からこの川は南へ大きく曲がり、呼倫湖へ注ぎます。

貝爾湖(ボイル・ノール)
別章でもふれましたが、ホロンバイルという呼び名は、呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)に由来があります。
それぞれ紹介してまいります。
はずは貝爾湖(ボイル・ノール)から
ハイラル呼倫の西約152キロにあります。
やや波立ってみますが、まるで海の様です。遠くにちらりと何か見えますが、対岸でしょうか。
これら湖には多くの魚類が生息していました。漁業も盛んで、コイ、ブナ、白魚、ナマズが多くとれました。草食性の魚が多く、またそれらはとても大きく育ちます。
ホロンバイルもそうですが、海から遠い内陸の満州では湖や池沼で採れる魚は重宝されました。

画像中ほどに「の」の字が見えますが、印刷の転写です。

貝爾湖(ボイル・ノール)
貝爾湖の渡し舟の船着場です。鏡のように静かな水面です。
家畜を反対岸へ渡すところと思われます。
『呼倫湖より南方にあり、やや小さい。ハイラル川は呼倫湖へ流れ入り、その余勢が鳥爾川となって呼倫湖へそそぐ。
図は夕暮れ迫る呼倫湖』
先の地図ですが、呼倫湖から貝爾湖へつながる川が見えます。
恐らくこれが鳥爾川と思われますが、実はこの川の位置は、今日の地図と位置が異なっています。半世紀で川の位置が大きく変わるとも考えにくく、これも地図の誤りと思われます。

ハイラルから西方向へは鉄道をとおって満州里へ、東は同じく鉄道をと通り大興安嶺を超えて、遥かチチハルやハルピンへつながります。

ではハイラルの北の地域は、国境までははるかに遠いものの、満州国国境までは鉄道も無く、人口密度の低い空白地帯といっていいエリアだったようです。
ホロンバイルの平原につづく丘陵地帯で、木はほとんど生えず、そして生産性に乏しい地域です。
それでも帝政ロシア時代には入植者が居た様ですが、ロシア帝国崩壊後も国に帰らず踏みとどまっています。さらに革命ロシアからの亡命者が多く逃げてきています。
革命政府は、こうした状態を快く思わなかったのか、昭和4年に発生した露支事件の際にソビエト川から国境を侵犯して付近を破壊しつくしています。
『礎石まで焼かれた教会堂、砲弾に打ち砕かれた製粉工場など、』
と、当時の報道にもあるほど、徹底した破壊がなされていました。
アルグン河と呼ばれる川が国境で、この一帯は正規軍隊とゲ・ペ・ウ(GPU/ゲーペーウー、ソ連代表部警視庁公安部のこと)が配備、川を越える亡命者を容赦なく射殺していたそうです。
ソ連から命がけで川を渡りパンを恵んでもらった子供が、こんどは川を渡ってソ連に戻っている最中にソ連兵に射殺された、という目撃談も報告されています。戻ってくるのだからお目こぼしをする、という発想はなかったわけです。
また亡命した夫婦は夫が国境警備のソ連に射殺され、逃げおおせた婦人も生活の手段はなく、現地の満州国人と結婚したという話もあります。
三河地方と呼ばれるこのエリアは、特に中核となる大きな街もなく、小さな村落が散在していた様です。
ジャーナリストなどがこの地を訪問した際に見かけた村落は戸数三十、住民百五十名程度の小さなものでした。この一行が満州国境付近を視察すると、国境向こうのソ連ではすぐさま兵士が対峙し、こちらの様子を窺っていたそうです。
一方で、この地帯では密貿易が盛んでした。ソビエトの物資欠乏は、こうした手段で補われており、公然の秘密としてお目こぼしされていることが報告されています。

満州では砂金が取れました。
ちょっとしたゴールドラッシュもあったほどです。

特に興安嶺の黒竜江沿岸などで河の砂を取ってはそのなかから砂金を洗い出す姿がみられたそうです。
砂金が有望視された地域は、この黒龍江と、そしてホロンバイル北部でした。

ただ、当HPを作成する際に入手できた資料では "有望" という記述で、実績があるという書き方ではありませんでした。恐らくホロンバイルでも取れることがわかったので、まだまだ取れるといいな、という願望でしょう。
ちなみに砂金は満州のあちこちで取れていました。河の砂の中に大人の親指ほどの金が転がっていた事もあったとか。ただ、直ぐに取りつくされた様です。
一方で、さらなる金を得る為、船の前にベルトコンベアを持つ砂金取り専用船も登場しました。恐らくこのベルトコンベアで川砂を一気にすくい上げて金をより分けるのでしょう。ただ、この船がどのエリアに投入され、どの程度活躍できたか、についての資料は未だ見つけていません。砂金について言及した資料も機械化についての記載は全くありませんでした。そして砂金採取船の話もなく特に知られた存在ではなかったのか、大して役に立ったものでもないのでしょう。


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