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満州里

マンチュリー


                        
マンチュリーはロシア流の名称でもともとは臚濱(ろひん)という名がありましいた。
国境付近でもあり、多くのロシア人が住んでいます。
東支鉄道により蒙古貿易の窓口、ロシアとの交易や毛皮や呼倫湖の水産物の輸出駅として利用されました。
山に登ると、ロシア国境の監視兵舎が見えた、国境の町です。

満州里
満州里の地図で、昭和5年当時のものです。
この地図では市街地は2キロ程度しかありません。
市街地はほぼ山でぐるりと取り囲まれており、南側が外蒙古につながる盆地に向かって開いる、という記述が戦前の図書にありますが、こちらの地図を見ますと、南側にも山があります。山に取り囲まれているといっても、なだらかな山の様です。

この地は古くからロシア由来の町として存在していました。
戦前の図書では、満州国の設立前、ロシアは革命の混乱期であったために、こちら満州里でも人々は疲弊のどん底にあったと紹介されています。その上、度重なる兵乱は、一般人の餓死・疫病死をおこし、直接に生産に携わる農民は流民としてこの地を離れました。こうした一方で、多くの農民が土賊として蜂起し、特権地主を襲撃するなど治安は大いに乱れました。

鳥瞰図の様な地図です。
興安嶺から満州里までが如何に遠いかが判ります。
昭和5年当時、東支鉄道でハルピンから満州里まで、930キロ、一昼夜の旅程でした。
ハイラルを過ぎ平野に入り暫く進みますと砂漠地帯を横切り、そしてホロン湖の北側を通過してやっと満州里です。

昭和17年の地図から。
高低差が色分けされています。周辺は延々と広がる広大な草原であることがわかります。
これは珍しく詳細に町の名前が細かく記入されており、
満州里を一歩はなれると、極めて人口密度の低い地域ではありますが、あちこちに人の集まる集落が点在していたことがわかります。
ちなみに読みは左から右へ、と現在と同じです。戦前は右から左の記述、左から右への記述は混ざっていました。

満州里は、極寒の荒れ野から計二万人を越える(三万人近い)ユダヤ難民の命が救われた、いわゆるオトポール・満州里事件の舞台でもあります。
ナチスドイツのユダヤ人迫害が本格化した一方で、欧州、アメリカの国々が、この迫害による難民を積極的には受け入れませんでした。ユダヤ難民はシベリア鉄道を経由して東へ移動、満州国へ救いを求めてきました。これが1938年2月の極寒の時です。
この事態について、ハルビンの極東ハルピンユダヤ人協会(アブラハム・カウフマン医学博士会長)が窮状を訴えました。
国境の町オトポールへ集結、ソ連は入国を拒んでいるので、満州国官吏もこれを受け入れられず、ハルビンユダヤ人協会は関東軍特務機関機関長の樋口季節一郎に難民救済。
最初、1938年1月ユダヤ民族施策要領を決定しています。
満鉄も協力(松岡洋右総裁)、満鉄の特別列車多数を満州里に派遣、二万から三万人のユダヤ人が満州里へ終結し、無事、ユダヤ人はシベリア鉄道を経由して満州国へ入国しました。
ユダヤ難民救済を知ったドイツ外務省は日本政府に猛抗議をしてきます。特に同盟関係のある国でもあり、当時の陸軍は親ドイツ派で占められていましたが、当時の東条参謀長は「日本はドイツの属国に非ず。」と一蹴したとのことです。
(エリ=エリヤフコーヘン著  『ユダヤ人に学ぶ日本の品格/イスラエル建国の父「ヨセフ・トルンペルドール」とはいかなる人物か。いま、説き明かされる歴史の中で埋もれた日本人とユダヤ人の絆』 PHP研究所刊から引用)。

満州里駅です。ハルピンから九百三十五キロも離れた駅です。
満州里は国境の町だけあって、ロシアからの国境を越えた列車もこの駅へ入ってきました。
ソ連バイカル鉄道の終点です。
こちらの画像は書籍が発行されたタイミングなどから考えて、満州国が出来た頃か、その前の姿と思われます(満州国設立後ではなく)。
高い位置からの撮影ですが、撮影者は給水塔にでも登っているのでしょうか。


実は、ソビエトの装甲列車が、満州里と思われます駅に停止している写真があります(当HP管理人の推定であり、撮影場所を示す直接の資料はありません)。国境に近い満州里ならでは、です。またそれは第一次大戦時に製作されたロシア軍の装甲列車でした。おわんを伏せたような砲塔を二つ持ち、四方にいくつもの機関銃の銃座を持つ強力な火力の車両ものです。
恐らくは、未だこの地域の線路の利権をソビエトが持っていた頃でしょう。

ロシア軍のこうした装甲列車の技術は、帝政ロシアが倒れた後、1920年代から30年代まで今日の中国で展開しました。
この頃の中国は各地域の軍閥が勢力争いをし、国内は騒乱状態で、人々は疲弊していました。そうした勢力争いは単なる小競り合いではなく、欧州でつかわれた強力な火力を持つ車両を動員しての相当激しい戦闘であった様です。また当時、欧州戦線では装甲列車がいくつも開発され、これらの設計思想を受け継いだものが、こちら中国の軍閥の資金によりいくつも作られました。
これらはいずれも強力で、長砲身76mm砲を積む回転砲塔を二つ程度持つものもありました。これらが日本の戦車部隊と対峙する機会は無かった様ですが、例え戦闘になってもこれらの装甲列車に対し、日本軍の戦車では歯が立たなかったでしょう。
(参考:スティーブン・ザロガ著、Osprey Military New Vanguardシリーズ「装甲列車」、大日本絵画)

満州里 遠景景
では小高いところから満州里を見下ろします。

当時、満州里はロシア人五千人、中国人二千人程度の町でした。こちらの写真を見ても、さほど大勢が住んでいるようには見えません。
当時の旅行記に
「濃い青色の玉葱型のドームの寺院が二つと給水タンク二つが空にそびえた」
と記述があります。しかしながら、写真で見る限り、背の高い建物はみあたりません。恐らく、ほかに背の高い建物がなく、これが目立ったのでしょう。
写真を良く見ると、やや黒っぽく凹の字に似た影が見えます。これが寺院かもしれません。給水タンクらしきいものは見つかりませんでした。

満州里 風車
先ほどの写真の左に写っていた風車をみてみましょう。

『満州里は東支鉄道の西の終点で、興安嶺の公言に一望の景色を得るところに市街がある。
東部の小高い丘に立つ風車は、この市の名物助役君が経営する製粉工場である。風強きこの土地では使用が出来ず今では単に名物の名の為の飾物にすぎない。』
撮影で、立ってこちらを見ている人は製粉工場の人でしょうか。絵画にも描かれるほど満州里では象徴的な風車ですが、こちらの記述によれば、あまり実用には向いていなかった様です。

満州での風車の使用は稀ですがありました。満州の首都新京郊外の大規模牧場で使用されていた例があります(恐らく井戸の揚水用と思われます)。これは、丁度、米国の牧場でも見られた形によく似ており、プロペラで風上へ向きを変えながら動力を得るものでした。

風車のクローズアップです。
欧州風のデザインです。あまり丁寧な工作には見えませんね。

満州里田舎の寺院とキャプションにあります。
屋根の作りはハルピンにおおく作られたロシア寺院によく似ています。
窓の大きさから見て、あまり大きな寺院ではなさそうです。
手前、家畜が草を食んでいますが、いずれも山羊に見えます。鋭い角を持っています。

クローズアップしてみます。
ロシア風のデザインですが、全体的にくたびれた印象があります。

満州里の郊外でしょうか、ラクダの隊列です。
手前に並んでいる人物は蒙古風の服装にも見えますが、ロシア人の様です。
相当に寒そうです。
また足元、雪はあまり深くありません。もともと降水の多い地域ではなく、雪も深くは積もらない様です。

ちなみに満州里の九月末は初冬でした。既に畑の農作業はできず、冬篭りとなってしまいます。

さきほどの画像の右上に満州里の市街地がみえましたのでクローズアップしてみます。

満州里日本領事館

満州里市寺院
さきほどの寺院と同じく、玉ねぎ状の屋根を二つ配置しています。
凝ったつくりではありますが、あまり大きな建物ではなさそうです。

どうやらさきほどの満州里市寺院の塔からの撮影と思われます。向かって左側の塔の上から右方向を見ている様です。
はるか遠くになだらかな山が見えます。

右半分をみます(先のパノラマ写真は、2枚の写真を1枚に編集したものです)。
冷たく凍て付いて見えます。また人影は見えません。

さらにクローズアップ。
早朝でしょうか。街角には人影も見えません。
屋根にはいくつもの煙突が見えます。

今度は左半分を。遠く、市街地のはずれは平らに見え、建物らしいものは見えません。満州里の市街地を出ると何もない平原なのでしょう。

こちらもクローズアップを。
窓が多く、またそれぞれの窓に扉が付いています。

さて満州里の冬は狩猟シーズンでもあります。ハルピンなど遠方から大勢の人が狩猟を楽しみに満州里を訪問していました。
一方で、この次期は家に閉じこもる生活になるため、鼠が媒体するペストが流行していました。この狩猟シーズンに満洲里でペストに感染してしまうと、そのペスト菌の潜伏期寒中に都市部へ帰り、そこで発病してしまうため、とても厄介でした。潜伏期間は短くて2日、概ね6日です。
ペストは今日では縁の無い病気ではありますが、発病すると肺も犯され、呼吸とともに感染を広げるため、恐れられており、患者は隔離されました。先ずは鼠の駆除が必須でした。
こういった事情から満州では満州里に限らず全土でペスト撲滅の為に鼠駆除が推奨されていました。


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