| 遼東半島にある営口の風景です。遼東半島では大連に次ぐ海運の玄関です。遼河という大河が遼東湾に注ぐ河口の二十キロ上流の地点にある港町です。
画像、広々とした港の風景で、波は静かです。左端、手漕ぎの船が船に横付けしているのが見えます。大連とくらべると、大型船も見えず、のんびりした印象です。
港町としては大連よりも古くからある港ですが、満州国設立後に陸上交通の整備もすすみ、貨物の取り扱い量も増えたようです。
人口十万程度で、満州の都市としては小さい方ですが、町の規模の割には繁盛した町として知られていました。税関の収入があったことから、街造りもすすんだのでしょう。 |
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| 営口周辺の地図です。
右側にある大石橋から線路が左へ分岐、蛇行する川との交差するところに営口があります。
当時の書籍に満州国設立後の営口の町の整備について触れたものがありますので、紹介いたします。
『数十万円を投じ護岸工事を施して汽船の繋留に便し、また大病院を建てて一般市民に提供し、公園を開くなどして税関の収入を有益に利用した。』
営口は古くから港町があったのですが、街が本格的に整備されたのは満州国設立頃から、と考えてよさそうです。ただ、大連が満州国の海の玄関として発展したため、かつては満州唯一の物資呑吐港といわれた営口も影が薄く、あまり書籍でも絵葉書でも営口は見かけない印象があります。ただ、水運の便は良く繁栄を保っていたそうです。 |
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| 営口は様式の学校、公園、水道、電気事業など文化的設備が完全していました。
画像でも広い道路と、街路樹を持つ歩道とが見えます。
また道路右側から手前でカーブする線路が見えます。カーブは大きく、また幅も狭いことから軽便鉄道と思われます。
実は、営口商業地の中心は駅より八キロ離れており、駅から伸びる軽便レールが敷かれました。この写真に写っている線路がその軽便鉄道かどうかは不明です。
かつての営口は、他の満州の地域同様、上水下水の区別もなく、雑然としていました。そこで上下水道の整備をし、電化をするなど、市街地の整備がなされました。
当時の書籍に営口の町の整備について触れたものがありますので、紹介いたします。
『当初は、営口市街には、人力車を通ずべき道路もなく、各国領事までみな、かごで往来した。そこに文明士気の道路、排水溝を設け、西洋馬車の交通を便ならしめた。
また雨水と汚物の混じった濁水池の水を飲んでいた十四萬の営口市民に水道を敷設して上水を給し、ラムプ(ランプ)とろうそくで暮らした営口居住の内外人に昼を欺く電燈を興えたのは、日本の功績である。』 |
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| 営口の新市街には満鉄も参加、他の都市と同じく、営口にも文化施設を多く作りました。
こちらの公園は新しい市街地の南側に作られました。夏場も涼しく、街のオアシスとして人気があったそうです。
動物園も併設していたそうです。 |
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| こちらは、現地風に設計されたもので
『写真にあるがごとき池中の亭はもっともよくそれをあらわしている。六角形の屋根や欄干の意匠桟橋など支那の公園には必ずみられる形式である。』
常に地元の満州国民らによって賑わいました。 |
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| もともと地元に住んでいた満州人街の風景です。この街の周辺に満州国民は6万人住んでおり、この中に移住してきた日本人は三千人でした。意外と少ない印象があります。
写真は天后行宮前の大通りで、露天と参拝者で常に人出がありました。露天商がいくつもみえます。 |
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| 青少年の職業の必要な教育を行うため、満鉄が大正時代より商業実習所を設立していました。
満州国設立時に7箇所、九十八人の生徒がおり、六ヶ月を一期とし、二ヵ年(つまり四期)というシステムでした。
画像は、商業実習所の商店倉庫における生徒達の実習振りです。
様々な商品が見えます。
小さな地方都市ではありますが、満鉄などにより、都市整備だけでなく、教育実施という様々な近代化が行われていたことがわかります。 |
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| ではここで改めまして、営口の埠頭の風景を。
右のジャンク船に人力で物資が運ばれています。
画面左下は倉庫、水面と倉庫の間に貨車がみえます。
中央、遠くへ川が延びている様です。
埠頭は川に沿っていることが判ります。 |
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| 同じ埠頭の様で、今度は右側を見ています。線路が通り貨車が待機しています。
またジャンク船に加えて、小さい様ですが汽船が見えます。 |
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| ジャンク船が何艘か見えます。
こちらは倉庫がいくつも遠くに見えます。線路などは見えません。 |
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| 『営口の市街は遼河をさかのぼるところ、22キロ余りの左岸に位置し、河岸の湾曲にそって東西4キロに至る。埠頭幅は七百六十五メートル、港内推進干潮時に二メートル、最深部で三メートル。』
こちらもジャンク船埠頭で、折り重なるように停泊しています。 |
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| 営口港をクローズアップした地図です。
地図の水路の部分を水色で塗っています。
現在、上側の湾曲部分を中心に、埋め立てが行われており、河はやや狭くなっています。
これまでの写真でもわかりますとおり、大きく湾曲していました。河がひらがなの"つ"の字に曲がっている岸のうち、埠頭と市街地があるのは南側、画像の下側です。
東から上港、中港、下港と分かれており、線路を写した先ほどの写真は上港、地図の右下側の様です。 |
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| 『大陸の気候は、夏は焼け鍋の底のごとく厚く、冬は冷蔵庫の中のように寒い。
そして池が凍り河が凍るばかりでなく、海まで凍る。
半島と半島に挟まれた渤海のごときも、厳冬には写真のごとく無残に表決して、沿岸の港の船の出入り不能に陥り船舶は立ち往生の憂き目にあう。』
一面の氷です。大連港も冬は氷で覆われますが、こちら営口も同じく氷で覆われ、港の機能を失います。 |
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| 氷結した営口での撮影で、大豆の運搬風景です。
こちらでは人の引く橇が多く写っています。
また遠くにはヨットの様なものが見えますが、これは風力による橇で、人を運ぶ専用です(貨物を運べるほどの運搬能力はありません)。
港町営口も、冬はこうして凍結してしまいますが、橇での運搬が行われていることがわかります。 |
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| では、最後に今一度地図を。
先に埠頭と線路の写っている写真を紹介いたしました。
河が交通の手段である満州では、河と線路が交わるところが交通の要所となります。
遼河は上流まで貨物の運行があり、線路も営口以外に2箇所、交わっていることがわかります。ちなみに地図は戦前のものですが、記述は左から右へ書かれています。 |
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