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ロシア人


                        
かつて満州にはロシア人が多く住んでいました。
彼らはもともと白系ロシア人と呼ばれる人たちです。
白系ロシア人は、1917年のロシア革命のときの革命軍(赤軍)に相対する帝国政府系のロシア軍を白軍と呼んでいたことに因みます。つまり反革命側です。白系ロシアは赤軍に破れ、そして各国に亡命、彼らやその家族を白系ロシア人と呼びました。
白系ロシア人は満州国だけでなく、日本へも多く亡命しています。この亡命者達は日本にも溶け込み、そしてロシアの文化を様々に伝えています。ロシア料理の店を開く、バレエスクール開設、お菓子のモロゾフやビーフストロガノフピロシキなど、今日なじみのものもあります。このほか、戦後に強さと端正な顔立ちで大人気だった相撲取り大鵬も白系ロシアの血を引いていました。

ちなみに、白系ロシア人といても、すべてが反革命という立場をとっていたわけではなかったようです。満州にあったロシアの利権関係で仕事をする、移住するなどして住み着き、革命後の混乱にある国へ帰らずにそのまま満州に住み着いたという人達という側面もあります。つまり、そのまま満州に居座ったわけで、また彼らは祖国を懐かしみつつ革命後の祖国へ帰ろうとは考えていなかったとされます。つまり満州に居たロシア人は、革命政府にはなびいていないものの、反革命の勢力を結成していたわけでもありません。
ただソビエトは彼ら白系ロシア人の存在を快く思っていなかった様です。1929年には赤色パルチザンを組織して侵入し、襲撃虐殺事件を起こしています。

満鉄の白系ロシア人従事者の新生活
会社より種畜を貸興し、組合を組織せしめている。
満鉄は様々な福利厚生活動を行っていますが、ロシア人の農業支援も行っていたことがわかります。

乳牛でしょうか、大きな牛が見えます。手前には鶏もみえます。
収集しました写真の印象からしますと、帝政を懐かしむ人達というよりも、自然と共に信仰を守って慎ましやかに暮らしている人達の様子がうかがえます。

当時のくらしぶりを、満州の旅行記から。
『パンを焼き、バターチーズを作り、漬物や洋裁、靴作りに精を出した。食器類などは大切に美しく磨いた。銀色のサモワールは美しく磨かれ、納屋には屠殺した牛が真っ二つに割られて吊られていた。
主婦はその日の献立によって肉を切り取っていった。
娘の仕事は早朝と夕方の乳搾り、乳牛に水を与える。
風呂はトルコ風呂(サウナ)で男性の仕事であった。』

『白系露西亜人たちの楽劇もすくすくと育ちつつある。』
明るい照明に照らされており、舞台での演奏を撮影したものと思われます。

さてこの白系ロシア人ですが、戦前図書には露西亜(ロシア)人という記述となっており"白系"とはかかれていません。ごく普通にロシアの人というわけです。
ところが戦争が始まる頃から白系ロシア人という記述が目立ってきます。恐らく、戦争の緊張感から共産の勢力が強く意識され、その反動でそれ以外のロシア人に対して白系という呼び名が改めて使われるようになったのかも、と想像しています。

満州國三河地方に安住するザバイカルカザツク農民
ザバイカルはバイカル湖の東の地方、カザツク(カザック)はコサックのことです。
池のそばで、おそらく冬に備えた食料の準備中でしょうか、大きな樽に、何かを漬け込んでいる様です。
写真、いちばん右の樽をクローズアップしましても、樽の中身までは判別できませんでしたが、どうも葉野菜にもみえます。ロシア漬物を作っているところかもしれません。
ロシア農民の、つつましやかな生活ぶりが見て取れます。
これは想像ですが、樽や木箱などは再利用品のもではないかと感じます。
大きく三つの樽が見えますが、いずれも種類が違うことが理由です(つまり買いそろえたものではなく、中古品を買うか貰い受けるかなどした)。
向かって左の樽は、竹で縛り上げてあり、日本製の味噌樽にそっくりです。
右側、金属の輪で留めてあるたるは、右端の木が飛び出しています。通常、樽は転がす、積み上げるのに有利な様に、大きさは切りそろえられていますので、これは修理を行った為と考えました。
真ん中の樽ですが、表面がつるつるで光沢がある一方で、縦にうっすらと筋状の模様が見えますが、板を束ねている様にはみえません。また満州でよくつかわれる樽とも形が違います。また上下に輪が取り付けられていますが、これは薄く、金属製ではと思われます。
これは想像ですが、もしかすると日本の太鼓ではないでしょうか。皮の部分を固定する自ぐだけ上下に残っているわけです。要らなくなった太鼓に底を取り付けて樽替わりではと想像しています。

右手前、一斗缶に取っ手状の針金をつけたものもみえます。
左手前の箱にもAPCとアルファベットがあり、何かの製品を納めていた箱を持ってきている様に見えます。

水清き横道河子
季節は夏でしょうか。
水辺に佇み、水浴びをしようとしているところと思われます。

満州のあちこちにロシア人の集落が点在していたようです。
『帝政ロシア時代を慕いながらキリスト教の信仰生活を送っていた。満州西北部三河は、ロシア革命後に亡命し、帝政を慕う参禅人のバイカル、カザックが移住し、酪農を中心に平和な生活を営んでいる。』
とあります。
ロシア農民の素朴な生活がロシア情緒を伴っていたようでもあります。
住んでいたのはチチハルなど北部に多かった様です。
春に苺、わらび、秋に蜂蜜、山葡萄、そして狩猟と四季を通じて山の幸があり、また良質の清流からぶどう酒、ビール、ウォッカ、サイダーを生産する。
満州全土に点在していましたが、ハルピンのほか、ロシア国境に近いエリアに多い様な記述もみられ、詳細はよくわかりません。
満州国設立当時の総人口三千九百余万人からみてみますと、
『元々土着であった満州族は推定百八十万人、蒙古族七十万人は全体の七分を占めるにすぎない。
ここ百年内外には漢人が移住し、全人口の八割五分の三千百万人になる。』
とあります。
一方、ロシア人の人数について明記したものはありませんが、二十数万人程度の様です。
帝政ロシア崩壊後に亡命した人、もともと帝政ロシア時代から居た人を合わせたものと思われます。ちなみに帝政ロシア崩壊に伴い亡命したロシア人は150万〜200万人で、約半数がドイツやフランスなどヨーロッパへ、のこりはほとんどがアメリカやカナダへ移住していました。満州へは特に多量に移住していたわけではなさそうです。
満州国設立時、ロシア人は五万人であったとする資料があります。もしもこの数値が正しい場合、その後に15万人程度が移動してきた計算になります。
国境警備の厳しさを考えますと、一寸、多すぎる印象があります。しかしながら、ソ連のの地方の物資不足は大変で、ロシアを逃げ出す人も少なくなかったことを考えますと、ありえる数字とも考えられ、なんとも判断がつきません。

このあたりの数値は明記したものをみつけておらず、また資料によりまちまちで、さらに判りにくい印象があります。
当HPでは、ロシア人の人口については、保留と致します。

街角の花売り
ハルピンでの撮影です。
少女の花売りは、よほど印象にあるのか、複数の戦前旅行記に記載があります。
また町だけでなく、村々に住む人たちも現金収入を求めて駅で物を売っていた様です。

旅行記の記載から。
『ロシア人の少女が駅ごとに花を売りにきた。
沿線のロシア農家で取れた、きいちごのシロップ、生のままのぶどう酒、蜂蜜、美味しいロールパン。
ダイヤ変更で食堂車が廃止されて、食堂車があるものと信じていた私たちは随分と失望したが、やがてその偶然に感謝した。』

列車での駅における弁当などの買い物は日本では列車の窓まで売り子が来ますが、満州では降りてホームで売り買いするのが普通でした。この売り子にロシア人が多く居ました。これは樺太でも一緒で、当時の列車での移動時にロシアパンなどを買い求めたという資料があります。

さて、補足としまして、戦前図書にも
『満州国は様々な人々の坩堝』
とあり、ロシア人だけでなく、いろんな人種がすんでいました。
ユダヤ人も大勢いました。
ハルピンにはロシア人についでユダヤ人が多かったとされます。当然ですがユダヤ教会もありました。
図は『日本鉄道旅行地図帳・満州樺太(新潮社発行 平成21年度刊)』に記載された情報をもとに、戦前図書に掲載されていた地図へユダヤ人教会を書き加えたものです。
ハルピンは満州国が設立してから市街地は飛躍的に広がりますが、図は満州国が設立する前か、直後頃の状態を表しています。つまり古くからある市街地にユダヤ教会はあり、またそれはメイン通りのキタイスカヤ街の近くでもあります。古くから町に定住していたことがうかがえます。
ユダヤ人で有名であった人では、ハルピン公共楽団の指揮者のエマニュエル・メッテルもその一人です。ユダヤ人は、人々と共に住んでいたわけです。

一方で、現在、当HP作成に当たり調査や収拾しました範囲ではありますが、戦前の書籍や絵ハガキでユダヤ人の写真はみあたりません。さらに戦前図書にも記載が見つからず、実に不思議な印象があります。
人口三千名程度のオロチョン族は、複数の戦前書籍に言及され写真もあるのと比べましても、都会に住むユダヤ人の記載が無いのは実に対照的でもあります。
ユダヤ人については満洲国は民族協和が謳い文句でしたので、むしろ積極的に記述があってよさそうです。

これの事情については不明です。

まず考えられるのは政治的配慮です。
軍事的同盟でつながりを強く持ちたいドイツに対し配慮をして記述を避けた可能性があります。
わざわざドイツのまねをしてユダヤ人を差別まではしていなかった(であれば、それなりの記載をしそうですし)一方で、ドイツを刺激してまで記載するほどユダヤ人について言及しようとまでは考えていなかった、とも想像されます。

ただ、もうひとつ、これは想像ですが、当時の書籍を書いた日本人が、当時の満州において、いわゆる白系ロシア人の末裔、さらに、古くから移動してきたスラブ系も大勢居たなかで、ユダヤ人の見分けがつかなかったのではないでしょうか。
さらに元々、満州はロシアが勢力を伸ばしていたことから、満州に住む東アジア系以外をひっくるめてロシア人と呼んでいたのではないでしょうか。
これは丁度、欧米人が中国、台湾、韓国、日本人の見分けがつかないのと同じですし、我々も見た目だけで分けるのは無理です。
敬虔なユダヤ教徒の方は、一見してそれと分かる特徴的な服装をしています。しかし全般に欧米人もユダヤ人かどうかを見た目で区別するのは難しかったのではないでしょうか。アメリカ映画の「紳士協定」※1「FOCUS」※2でも、そのように理解できる部分があり、やはり見分けは付きにくいのだと考えます。



※1:「紳士協定」
ローラ・ボブスン原作 / エリア・カザン監督 / グレゴリー・ペック主演
1947年製作
人気ルポライターが反ユダヤ主義の取材の為にユダヤ人に成りすましたとたん、周囲の反応が豹変する、というものです。

※2:「FOCUS」
アーサーミラー原作 / ニール・スレイヴィン監督 / ウィリアム・H・メイシー主演、2001年製作
第二次世界大戦中のニューヨーク・ブルックリンを舞台に、眼鏡を掛けたとたん、その容姿がユダヤ人に見え、突然周囲の態度の豹変と差別に合うというものです。

(いわゆるユダヤ人も、ナチスドイツで定義しなおされたもの、という説がイスラエル人学者によって述べられています。詳細は把握していませんが、もしそうなら見ためで分けるのはますます難しくなります)。


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