| こちらでは、満洲の人々を写した画像から、当時の服装の特徴が読み取れますものを集めてみました。 |
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| 最初にまず、帽子から。
何かの野外イベントでの撮影と思われます。ぎっしりと人々が集まっており相当な人数です。
実は元の写真はこの4倍以上の面積があり、一面の人だかりです。帽子が判別できる様、一部をクローズアップして紹介しております。頭に密着するのっぺりした帽子で、しかもほぼ全員が被っています。
季節は不明ですが、寒そうに見えます。
帽子は、今の日本では余り被られていませんが、戦前、そして戦後暫く
も帽子を被るのは、外出時の基本的でした(最近、廃れているようですが)。4コマ新聞連載漫画、サザエさんでも男性は帽子を被っています。
欧米でも帽子は普及しており、こちら中国大陸でも同じの様です。
ただ、満州の場合は、これが必需品という事情があります。
冬場は油断すると凍死するほど寒い土地柄で、冬場に帽子を被り忘れると、寒さが脳まで直撃、まるで"頭が割れたかとおもうほど"だそうです。 |
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| 奉天満鉄公園での撮影、左側は猿を飼っている檻です(掲載にあたりトリミングでカットしていますが画面上に猿がうずくまっています)。
さて画面右、こちらを向いている人は、いかにも満州風の服装ですが、帽子は西洋風です。カンカン帽かパナマハットでしょうか。
満州国設立後、西洋風ファッションが浸透しているのは興味深く思います。 |
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| 満州国の大臣の記念撮影風景です。
背広にネクタイの洋装もいらっしゃいますが、
それ以外は満州地域の正装とみてよいでしょう。
ちなみに、各大臣ですが、こちらに写っている方々のお名前については把握できておりません。 |
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| 参考まで撮影された当時の各お大臣のお名前です。
本来、テキストで入力すべきところですが、インターネットでこれらの漢字が表示されるかが不明ですので、書籍のスキャンで代用いたします。
また上写真との並びは一致していないものと思われます。 |
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| 国務院正面での、全ての省庁の長がならんだもので、記者向けの様です。
背広の方が多く見られます。 |
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| キャプションには日本大使館での撮影とありイギリス人、満州、日本と写っているのでしょう。
皆さん、グラスを手荷物などくつろいでおられます。
一番左手前の人はいかにも満州といった服装と髭です。
英国人は、正装で蝶ネクタイです。
こうした背広のスタイルにはその時々の流行廃りがあります。
画面右上、欧米人ではない人も背広の正装ですが、イギリス人と同じデザインです。
欧州の流行を取り入れるとして英国風にあわせているようにもみえ、興味深く感じます。 |
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| さて、こちらはビジネスの話題の最中でしょうか、
真剣な様子で、服装もビジネス用なのか、さきほどの正装とはちがっています。
左が満州側です。残念ながら服装がよくわかりませんが、先ほど大臣が整列していた時に来ていた服装に似て見えます。また左一番手前の人物は背広と思われます。 |
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| こちらも満州の正装でしょう。
足元の靴も底の平らなもので、満州・中国風です。
右に米国のご婦人も並んでいます。彼女の襟元はふわふわの素材の様で、恐らく毛皮でしょう。こうした襟も当時の流行です。今ではあまり毛皮は流行りませんが、当時は被服用に様々な動物の毛皮が狩られていました。 |
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| さて、一寸、服装の話しから脱線します。
これまでに満州の重要人物と英米の訪問者の記念撮影についてですが、実は意外と知られていないこととして満州へは欧米からの投資がおおくなされていました。
昭和8年の資料にも日本についで、多い順にソビエト、英国、米国、仏国、スウェーデン・デンマークが投資を行っています。
英国視察団は、実は大手の投資対象の接待を兼ねているとも言えます。
ちなみに先の資料では何故かドイツやイタリアが見当たりません。
これも意外ではありますが、やはり投資は少なかったのでしょう。
特にドイツは第一次大戦後のアジア撤収で、この地域への投資も順調ではないままであったのかもしれません。 |
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| 御使とあります河島女史ですが、満州皇帝と共に来日したか、あるいは別の日程で特使としての来日を撮影したものかは判りません。画面ではトリミングしましたが、右側に記者団がおり、そちらとの質疑応答のところです。
一般に知られる河島芳子女史の写真と違い、頬のあたりに、やや肉付きがよい感じで写っている印象があります。また襟も高く、かなりきつそうです(襟章なども無く、本格的な軍装でもない印象もあります)。
さて、その左隣。やや照れながら写っている少年の服装は、なるほど満州風です。この少年が誰かは資料が無く不明です。
子供の正装、あるいはお金持ちの満州の子供の服装例としまして紹介致しました。 |
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| では、制服をみてみましょう。
こちらは満州の警官です。 |
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| こちらも、真ん中の人が警官の様です。綺麗にボタンが写っており、光る素材なのでしょう。黒くて上手く写っていませんが、立派な制服なのだろうと思います。一方で、腰に巻いているのは普通の紐に見えます。
実は左端の人が捕まった人です。何故か並んで記念撮影です。
右側の人は一般の人の様ですが、腕章をしており、なんらかの警邏に関わった人なのでしょう。 |
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| 朝、広場で職を求めて集まっている苦力の群れです。
また皆さん、食事中の様です。日雇いの仕事を求めて駅などに集まって、仕事の依頼が来るのを待っているものと思われます。また右側を多くの人が向いており、誰か来たのでしょうか。
ここでも、時期は寒いのか綿入れの様にふっくらしていますが、随分と色や形が違って見えます。
頭は帽子ではなく布を巻いただけの人も多い様です。 |
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| 冬場の満洲での服装を見ることが出来ます。
年の瀬、人々は忙しそうに見え、また大いに活気があるようです。画面中央右側、縦方向に藁の筒に、棒のついた円盤状のものがいくつも刺してあります。恐らく、お正月用のお飾りを売っているところでは、と想像します。 |
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| 『父さんの仕事も片付いた、今日の休みを何としよう
兼ねて約束の子供たちを町へ連れて行ってやろ
野路を取り川越えりゃ、もうそらそこだよ、町がある。』
いかにも地方といった背景です。
親子連れが川の浅いところを渡っているところです。幾ら浅い川でも幼い子供は手を引いておかないと不安でしょう、手を握っている様です。また後ろをついてくる子も父親によりそっています。
帽子にご注目ください。父親は満州でよく見る三角形の陣笠に似た傘ですが、左側の子はカンカン帽風の(やや大きめです)、右側の子も女の子でしょうか、しゃれた帽子になっています。ちょいとした贅沢をしているのが見て取れます。 |
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| 高粱畑で刈り取りの合間の休憩の風景です。こちらも三角形の傘をかぶっています。服装は明るい色のゆったりした袖です。 |
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| こちらも農家で、女性です。先ほどの農夫と服装はよく似ており、普段着、作業着において男女差は特に差は無い様です。 |
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| もう一つ、庶民の服装を。
裾の長い上着、ゆったりした袖がわかります。 |
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| 駅で売り物をしている売り子です。鉄道の発展した満州では、駅の売り子も名物の一つでした。
またかつて日本の鉄道でもみられた売り子は、窓越しに買い物をしましたが、こちら満州では客はホームに降りて買い物をしました。
饅頭、など様々なものが売られていました。
こちらの写真では恐らく天秤棒で担いできた籠二つの上に四角いお盆をおいて商品を並べています。その商品はお椀上のものに盛られています。写真を拡大してみましたが、何が売られているかまでは判別できませんでした。
さて、売り子、明るい色のチョッキ状の上着を着ています。頭にはキャップ状の帽子を被っています。
左、車両のそばに居る人も同じような上着と帽子です。二人ともキャップのおでこの部分に文字が三つかかれているようです。
売り子を描いた絵画でも同じような上着を身に着けていました。色は赤く塗られていました。
駅の売り子の定番の服装なのかもしれません。
また、写真の駅では帽子が揃えてあるようですし、これは想像ですが、駅の売り子の組合でもあって、その共通のものではないでしょうか。 |
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| 『順天安民の国是に依って生まれた王道楽土の中に包まれて静かに余生を楽しむ老人。
好きな古書をひもとく。時に微睡めば夢迷に春日の鶯を聞くであろう。』
なかなか立派なテーブルに急須をおいて、のんびりと読書をしているところです。
後ろに布団とおもわれるものもみえます。
老人の服装は全体にゆったりしており、袖も余裕がありそうです。
室内着でしょう。 |
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| 撫順城の門前をぶらぶら歩いている子供で、子供の普段着がわかります。
左端の子以外の3人は髪を短く刈り込んでおり、男の子と思われます。
ちなみにトリミングでカットしてしまいましたが、左下にも子供がおり、何故か丸裸でした。
撫順城の門の奥ですが、街並みが続いており看板も多く見えます。撫順城の壁は痛みが見え寂れた感じをうけますが、城内の街並みは人の活気もある様です。 |
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| 『一家揃って馬車を平坦な道路に響く蹄の音も快く、目指すは城内百貨店。』
満洲の裕福な庶民の服装です。アメリカの漫画では、中国人を両手を袖に入れて描かれますが、こちらの写真でもその姿勢になっています。
また服装の話から脱線しますが、商業、産業の発展に伴い、満州国民には広く豊かな生活がおとづれ、また裕福な人達も増えました。品種改良した大豆をはじめとする農作物や畜産類の普及により富農も現れました。
こうした裕福な人たちは、当時の中国がそうであったように、満州でも複数の妻を持ちました。本妻、第二夫人、第三夫人と多く持つほど、上流階級だとされる風習のためです(妾とは別に妻を持ったわけです)。また本妻(最初の妻、第一夫人)は自分より年上を選んだとかで、これは家を守るため、しっかりとした女性を欲したからだそうです。また裕福な家庭では13歳くらいから妻を持つ、成人していくにつれてさらに妻を取るといった例もありました。
満州国が設立した頃、チチハル(北満州)を訪問した日本人が、地元民に「妻は何人いるか。」と聞かれ、「いない(あるいは一人)」と答えると、嘲笑に似た明らかな軽蔑を受けたとの事です。曰く、妻がせいぜい一人しか持てない日本人とは大したこともない、というわけです。
また、この画像の男性もそうですが、裕福な人たちは大いに太ったとされます。もしかすると、太っていることもステータスだったのかもしれません。
一方で日本からはるばる満州国へ移住したものの、貧しい生活を送り、満州の現地人の妾になったという話もあります。悲喜交々です。 |
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| 満州の少年達で、やや寒い時期の様です。服装は様々です。左の少年は、苦力の服装に似ています。
年長の少年は鳥打帽です。
戦前の日本でも顕著ですが、虱などに取り付かれにくくするため、髪を短く刈り込んでいます。
河島芳子と共に写っている男児とは随分と印象が異なります。 |
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| まるでお相撲取りのような風貌です。
衣装は寒さにも耐えられそうに見えます。また模様も凝ったもので、なかなかのお洒落と感じます。 |
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