| 吉林は、中国に古くからある町で、清の始祖発祥の地ともいわれるほど歴史のある町です。
城壁はありますが土塀が主です(奉天の様な大規模なものではなさそうです)。
この周辺の地図を広く見渡して見てみると、様々な支流が蛇行しながら繋がっているのがわかります。このあたりは山がちではありますが、この蛇行した川にそって平野があり、水の利の良い肥沃な土地が広がっています。このことから、朝鮮半島から多くの農民が移住しています。この付近の農業はこれら朝鮮半島からの移住者の手による開墾ではじめられ、今日も農業が盛んです。 |
| |
|
|
| 『吉林は人口約十万、松花江畔における著名な物資集散市場である。三方山をめぐらし、一面、松花江に望み、老舗巨商軒を連ねている。有名なのは木材を第一とするが
高粱、泡、小麦の穀類多く、また木材に継ぐといわれる煙草は松花江上流地方に算出し、その種類も豊富である。
また主要産物の一つである藍は品質良く、その産額も少なくない。』
さて画像は満州国設立のころの吉林の地図です。
山間の小さな地方都市で、中央は松花江です。地図でもわかるとおり、松花江が蛇行しているそばに町があります。またこの地図には吉林城の城壁も書き込まれており、城壁で囲まれた地区、そしてその周辺に町並みが伸びています。区画はどれもばらばらで、特に計画都市としてつくられたものでもない様ですが、駅周辺には鉄筋のビルが立ち並ぶ区画もありました。
さてこの吉林は交通の要所で、河の交通と鉄道が交わるところでもあります。それは丁度、ハルピンにも似ています。
水運交通が盛んなことを反映してか、吉林には木材問屋船問屋穀物問屋が軒を連ねました。
豊かで静かに流れる川面では鵜飼も行われていました。
このほか、珍しいところでは吉林近郊に水甕(みずがめ)が多く満州第二位の生産量を誇っており、凍結した松花江から橇で運び出されていました。 |
| |
|
|
| ここからは吉長線(吉長鉄道)が延びています。これは、吉林・長春を結ぶ全長約130kmの鉄道で、1902年初頭から建設がされましたが、この鉄道が完成するまでには紆余曲折がありました。
もともと吉林と長春間の鉄道は既にロシア人が着手、ここの優先権をもっていましたが、日露戦争後、この権利を日本に譲り、日本の明治政府は「北京交通部※」へ二百十五万円を借款しました。この資金を元に鉄道建設は当時の中国が行い日本は干渉出来ず、発着駅の長春駅構内にのみ日本の利用が出来ることとなっていました。(※当時の中国の交通権益をつかさどるところと思われますが、詳細不明)。
しかしながら、当時の中国はまったく工事は進展せず、借款の金も消滅してしまい、満鉄が明治43年から資金を立て替えて線路を建設、大正元年に全線が完成しています。
結果、資金不足に悩まされた経緯があります。これは戦前の図書では複数見かける記述ですが、戦後には忘れられた話なのか、見かけることがありません。
ちなみに、この吉長線の完成により沿線の農業と商業は発展しました。鉄道が出来るまでは、吉林から長春までは二日以上かかりました。結果、山間の吉林やその周辺は大いに発展しました。しかも山を越える難所がありました。鉄道が出来たらこそ二時間半で行き来が出来る様になった、まさに近代化の恩恵です。
画像は吉林駅で、駅前広場でしょうか、車が並んで停まっています。 |
| |
|
|
| こちらの画像は吉林停車場で、貨物取り扱いをおこなっているところです。線路、置くが行き止まりにも見えますので、貨物専用の引込み線かもしれません。
線路の右側、多量の物資が積み上げられており、これは大豆です。
雪で周囲は白く、秋に収穫した大豆が冬場に集められ運び出されているところです。画像は貨車の天井の足場で撮影されています。左奥、貨車が見えます。そして右奥には長い建物があり、恐らく倉庫が連なっているのでしょう。 |
| |
|
|
| 画像は吉長線の九站停車場です。キャプションに
『松花江に臨み船の便がある』
とありますので、貨物などを扱う要所かもしれません。
これら吉長線につきましては見た目の印象ではありますが、駅や駅舎は他の線路より簡素なものに見えます。吉長線につきまして、前述のとおり借款した資金が四散し、結局日本が工事をするするなどの経緯があり、資金面での困難があったことがわかります。その所為か、吉長線の駅の写真の印象ですが、なんとなく簡素に見えてしまいます。
吉長線の様に、借款したお金が、その目的を果たさず、どこかに消えてしまうというのは再三発生しています。吉林と朝鮮半島の主要都市である会寧を結ぶ全長四百五キロの吉会線鉄道も、最初は日支合弁組織で計画推進され日本から当時のお金で一千万円の手付金や追加融資を行いますが、当時の中国は工事を推進せず資金は四散、最終的に日本側が鉄道工事を請け負って開通しています。 |
| |
|
|
| では改めて吉林です。
画面遠くに松花江が流れています。
ここ吉林を西に流れた松花江は北へ流れ、いくつもの大河と合流しながらハルピンで東に流れ、日本海方面へ流れていきます。
国土をぐるりと半周する感じです。
平野部の多い満州において、こちら吉林は山に囲まれ水に恵まれ、なにか違う国のようにも見えます。
町を見下ろす風景ですが、背の高いビルは特に見えず、長屋の様な長い建物が多く見えます。
大きな建物は見えません。実は駅の周辺には鉄筋の建物もあるのですが、残念ながら方向が違うのか、見当たりません。 |
| |
|
|
| 街並みの一区画です。
細長い建物が多く見えます。またいずれも塀はなく、またあっても簡単な構造です。
画像、左から上へ曲がっている白い部分は溝が掘られている様です。橋がかかっていますし、水面に移りこんでいる様にみえます。
この溝は物資輸送に使われたのではないでしょうか。
そして縦方向の溝の右側の明るいところは斜め下へ向けて轍の様な筋が何本も見えます。つまり松花江から溝を掘り、小船で物資を運んで、ここで台車に乗せかえた、そのさ立ちに水がたまって反射して写っているのではないでしょうか。
画面中央上側の白い部分は、恐らく水溜りか雪と思われます。
さて、撮影はかなり高い位置から行われています。
地図でもわかりますとおり街並みの直ぐ後ろに山があり、そこからの撮影でしょうか。 |
| |
|
|
| 松花江畔沿いの市街地です。
立派な瓦葺の大きな建物があり、左右に細長く、倉庫ではないでしょうか。
電線も見えます。電線の後ろ、小船の様に見えますが、そこから右へ橋がみえます(一人渡っています)。船を横付けにして荷物を積みおろしする桟橋の役割で、人影が見えるのは、荷役の労働者でしょう。 |
| |
|
|
| 『吉林の背景を擁する大森林は、この松花江がなければ生きない。図は江畔の筏舟』
別途、産業の頁でも紹介しておりますが、松花江の海上交通でも特徴的なのが、この木材運搬を行う筏です。
画面右下は、画像が暗くて判りにくいのですが、木の皮を剥ぎ、またそれを積み上げているようです。
ご覧のように切り出した木を筏に組んで、河を流して木材を運びます。 |
| |
|
|
| 古めかしい門、そして雑然とした町並みです。
人口は城壁の内と外をあわせて約八万人でした。
本満州写真館の『キンダーブック』にも掲載しております絵はこれにそっくりで、この写真を参考にしたものと思われます。
奉天や新京、そしてハルピンなどの大都市と比べると小さい印象のある吉林ですが、当時の満州らしく、少しでも経済に余裕がある家庭は子女を学校に通わせていました。こちら吉林も中学など学校は多く立てられ、教育を受けることが出来ました。例えば重厚な門を持つ吉林省立女子師範学校などの学校があり、さらにこの女子師範学校は付属小学校を持っていました。またこの吉林省立女子師範学校の制服はブレザーであったそうで、随分とモダンでした。 |
| |
|
|
| 『吉林は水の都である。
三方を山に囲まれ松花江の畔にあるため、古来より船の便に恵まれている。
市街は巨商老舗が多く満州各地に比べ、異彩を放つ堂々の店舗巨宅が並んでいる。』
冬場でしょうか画面右側の建物の屋根は白く、雪の様です。
道路の両側には板を敷いた歩道が見えます。人の行き来もおおく、賑わい振りがわかります。看板もぶら下っています。 |
| |
|
|
| 小高い丘の上から遠くに市街地を見ています。
手前から遠くへ松花江が大きく曲がって流れ、さらに遠くに山々が見えます。カーブの内側には、畑、そして湿地が見えます。画面画面中央やや右、川面に小さな船と思われるものも写っています。 |
| |
|
|
| こちらは川べりでの撮影、波の静かな川面に、ちょうど筏がさしかかっています。 |
| |
|
|
| 『吉林の北側、展望所でもある吉林全体が足元に広がる。
吉林は満州には珍しい山紫水明の地で、また大江に綿糸、背部に山脈をめぐらし天嶮をなす。』
山の上の廟へ、お祭りに向かう人々です。
写っている人々に日本人はいない様です。 |
| |
|
|
| 立派な中国風建設です。極彩色に塗られた建物だったそうです。
左下、吉林の市街地が広がってみます。 |
| |
|
|
|
|
| さらに同じ場所の撮影で、画面中央の建物が下のほうにあり、やや高い位置から見下ろしており、遠くの市街地も見渡せます。
こちらのキャプションには北山公園とあります。周辺は公園として整備されていたようです。
遠くに家々が見え、その向こうに山が見えます。
吉林が盆地であることがわかります。 |
| |
|
|
| 『屋根の上にはかくも華やかな飾瓦が市民の尊崇を誇っている。珍しい飾瓦だ。』
画面右上、丸く渦状の棘のある瓦があります。
そして左下へ向けて吼えている動物が 並べて飾ってあります。 |
| |
|
|
| 『吉林駅から城内へ通ずる途中に設けられたもの。
大正三年から満鉄の経営となったもの。』 |
| |
|
|
| 吉林の孔子廟大成殿です。
こうした大掛かりな孔子廟は中国のあちこちにあり、今日もいくつか残っています。 |
| |
|
|
| 『吉林の冬、寒威零下三十度、大松花江は暑さニ尺余の堅氷に覆われ、氷上にはこうした馬宿が造られる。夕方になると、この雪の宿には吉林市場へ穀類の運搬を終えた牛や馬の群れが鈴を鳴らして集まる。』
河の交通と鉄道が交わる吉林は、冬も交通の要所であることがわかります。 |
| |
|
|
| 『がっしりとした門構え。これが満州奥地の田舎の宿屋である。
この宿屋に一日の疲れを休めようと先ずベッドにつくと、夜中頃から南京虫が這い出して非常に悩まされるであろう。
吉林省から黒龍江省にかけてこの種のいわゆる木賃ホテルが満州気分をそそる。』
吉林方面での撮影で、宿の写真です。
鉄道が通る前の当時の旅がどんなものであったか、あれこれ想像してみたいものです。 |
| |
|
|
| この地域には手付かずの原生林が広がっていました。
かつては匪賊山賊の巣窟として恐れられていましたが、満州国設立後は治安も安定、林業が盛んとなりました。
鉄道、松花江を通じ、木は遠くへ運び出されました。 |
| |
|
|
| かつてこの地方は他の中国の地域と同様、開拓開墾はあまり熱心ではなく、元々住んでいた人達の農業は、一見すると怠惰にも思えるものでした。日本では江戸時代から山間のわずかの土地、斜面、そして時には海を埋め立ててまで開拓をして農業をしてきました。広く平らで肥沃な土地を持つこちらの地域で開墾が熱心でないのは日本から比較すると対照的です。
これは、旗人と呼ばれる支配階級の搾取、さらに清が倒れた後の軍閥闘争が続く騒乱で、さらに搾取された農民が苦しめられたことから、生産意欲がそがれたことが挙げられるかと考えます。
農民達も生き抜かなければならず、匪賊と呼ばれる強盗になってしまいます。
実は匪賊というのは毎日が匪賊で過ごしている人達ばかりではなく、奪いたいものがあるときに集団で盗賊になる、日ごろ農民で過ごしていても、唐突に匪賊に転じる事があるわけです。
一方で、吉林などの半島に近い地域では朝鮮半島からの移住者の手による開墾が、満州国設立のはるか以前、清の時代から行われていました。
ここ吉林やその周辺にも半島出身者が開墾の成果を上げ、農業を営んでいました。
しかし、開墾しても匪賊と化した地元民に奪われるという事件が、満州国設立前に相当数発生しており、書籍や報道にも触れられています。朝鮮半島出身者が移住して吉林付近の泥湿地帯を開墾したとたん、地元の満州人追い出され収穫と田畑を奪われるといった事件もあります。
当時の報道写真集にも土地を奪われた移民が警官に訴えでたものの警官は匪賊と通じており、逆に暴行を加えた被害者が載っていました。
1935年3月には、朝鮮半島からの移住者が開墾し水田を土着の満州農民の生活を脅威にさらすとして、両者に軋轢が生じ、猛烈な阻止運動となり、現地当局が仲裁に入るといった事件もありました。
満州国設立後、開梱はポンプによる揚水や用水路を配備した大規模なものが展開しました。水争いなどを抑える効果もあったものと想像しています。 |
| |
|