| こちらのページでは満州国の地方都市をシリーズで紹介してまいります。
大きな地図でなければ省略されてしまうような小さな町、写真もほとんど残っていないような町も、紹介してまいります。
本来、都市を紹介するのであれば、駅、市庁舎、繁華街、そして工業都市なら工場を、農業が盛んならその風景を、揃えて紹介できましたらと考えておりました。しかしながら、やはり半世紀以上を経た満州国で、その地方の都市の画像を戦前図書でそろえますのは困難で、現状、そろえられました限りの画像をもって、紹介をすすめてまいります。 |
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| 満州国の全体図です。
緑色が平原、色が濃いところは山脈です。
右下に朝鮮半島があります(図では省略)。
国全体は大きな盆地ですが、この緑のエリアが地平線までさえぎるものの無い大平原です。
北西部、ひときわ色の濃いのが興安嶺で、全体は"へ"の字にまがっています。西側が大興安嶺、東が小興安嶺です。
図では川は描かれていませんが、この興安嶺をぐるりと迂回するように、黒竜江が流れており、これは東へ流れながら、満州の北部国境を形成しています。 |
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| 満州写真館「地方都市」では、こちらオレンジで囲いました7つのエリアに分けて紹介を進めてまいります。 |
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| では早速、①で示しました、中央下のエリアから紹介してまいります。 |
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| 朝鮮半島と満州国の国境の町、安東です。当HP満州写真館の鴨緑江でも紹介いたしました、回転橋のあるところです。
街並みを写したもので、左に見えるのは安東ホテルです。この安東ホテルですが、塔の部分に『ANTO HOTEL』
の看板がついていることがあります。屋上は小さな庭園が設けてあり、木々が植えられ砂利が敷かれ、また街灯も設けてありました。
町を見てみますと、区画が整理され、人々も多く行きかっています。
安東の町も順次、発展を遂げていきます。
この写真と同じアングルで後に撮られた写真は、安東ホテルの奥に大きな三階建ての鉄筋の建物が写っており、建物がもどんどん増えたことがわかります。 |
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| 鴨緑江に面した国境の町です。
ちなみに地図は右が北で、左側が鴨緑江です。鴨緑絵をまたぐ鉄橋のそばには税関監視所なども設けられています。
駅の西(画像で上側)は林業や貯炭に用いられています。その反対側、駅の東半分は市街地で碁盤目に整備が行き届いています。
尚、先ほどの安東ホテルは地図に記載がなく場所は推定するしかありませんが、駅に近い便利な場所と思われます。 |
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| 支那街とあり、駅前の新市街ではなく地元民が元から住んでいる街と思われます。
推定として、地図南側の町では、と考えます。
大きな建物があり、看板も見え、人の行き来も多く賑わっている様子がわかります。 |
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| 市街地の駅周辺をクローズアップ、様々な建物があることが書き込まれています。
市街地のなかほどには安東小学校があります。
また満鉄の名の付く建物がいくつか見えます。画面上、駅の左に満鉄地方事務所、画面右下に満鉄病院、画面下には満鉄電燈営業所とあります。満鉄電燈営業所ですが、これが何かは把握できておりません。恐らく、満鉄の多角経営の一つかと想像しています。
この碁盤目の市街地は、一キロ四方もなく、国境の町として名が知られている割には、余り大きくない街の様です。 |
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| 南満州八景第一の鎮江山は安東縣の背面に位し眺望、佳絶。 |
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| 『満州国には桜花は安東一箇所あるのみ。
特に春季桜花爛漫たる候は散策の人、頗る多し。』
後姿から、日本人もいるようです。
画面上側に桜が見えます。
ただ、桜花は安東一箇所、という記述がこの写真のキャプションにあるのですが、実際には大連にも多く桜が植えられています。 |
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| 『市街は背面に山を背負い、鴨緑絵に相田町で戸数七百、人口二千、鴨緑江の重要な物資集散地で、大豆、サクサンが大量に取引される。
それらは結氷期に奥地から橇(そり)によって運搬され山積みにされ、解氷期を待って安東へ運ばれる。
今未だは、匪賊の来襲ひんぱんだったが、満州国設立後は平和に帰り、邦人や朝鮮半島からの移住するもの多きを加えつつある。』
さて、安東を離れまして岔溝門です。
場所ですが、実は特定できませんでした。
戦前の地図を調べましたが鴨緑江周辺に該当する町は見当たりませんでした。推定ですが、鴨緑江から分かれた支流の上流で、山間の町がそれと判断しています。先の①の地図右上に赤く▲で追記しております。
ここには満州国当時も、また今日も鉄道はありません。
水上交通が主であることが記述からわかりますが、戸別に橇で集めたものを、春先にまとめて水運で河を下るという運用であることがわかります。 |
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| 続いて遼東半島をみてみます。
右上、青三角が先ほどの安東。
中央青三角が海洋島、左青矢印が沙河口(しゃっかこう)です。 |
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| 『海の野獣
海洋島はまた捕鯨業の中心地である。
捕鯨業者は年々膨大な収穫を得ている。
写真は海洋島の鯨揚場で引き上げている。
次にのこぎりで切断するのである。
肉は汽船で大連の取引場に送る。』
水産の盛んな地域で、捕鯨の風景です。先の地図の海の中の青矢印です。
この付近の沿岸は製塩とウナギが名物でしたが、さらに海賊が出没するエリアで、治安に大きな不安があり、
『盛んに掠奪殺人を行い、地方の良民を苦しめつつありしが、』
と嘆く報道もありました。
が、満州国設立後はそれらも減り、生産性も向上していきます。 |
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| 大きな港のある大連と飛行場のある周水子の間にある沙河口の停車場です。
大連の次の駅でもあります(大連と沙河口の間には小崗子駅がありますが、これは貨物専用駅です)。
沙河口駅からは引込み線が分れ、機関車を造る沙河口工場へ繋がっていました。
大連の市街地の範囲内ですが、ベッドタウンでもあり、満鉄社宅も多く作られました。
大連病院の分院もありました。
写真の右端、学童が3名みえます。
この駅舎は戦後も使用され、最近でもこのままの姿でした(もしかすると、今でも現役かもしれません)。 |
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| 遼東半島の端、旅順で、別途、旅順のページを設けておりますが、一枚ほど補足で。
望遠とありますことから、遠くにあるのが高等法院で、今日の裁判所の一種です(日本では刑事裁判専門のものをさします)。 |
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| 手前をクローズアップ。
キャプションには熊本街とありますが、詳細が全く判りませんでした。どなたかご存知の方のご教示を頂戴したいと希望いたします。
想像としまして、熊本県関係の移民の街では、とも考えました。実際、菊鹿(熊本県の県北部)や天草(県の西、有明海側)から移民が満州へ渡っていますが、やや山がちの旅順では農業移民とも考えにくく思われます。また撮影されている建物も、人が住む、というより学校かなにかの施設に見えます(右側の建物は民家かもしれませんが)。 |
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| 遼東半島の付け根を、クローズアップしています。
オレンジ色の矢印、蓋平と海城は地図では省略されていることが多いところです。
中央、大石橋と栄口を赤く塗っています。
その下に蓋平が。地図でも線路からやや離れたところにあることが判ります。
海城は大石橋を北へのぼったところにあり、これもやや線路から離れています。
海城河という河もかかれており、これは右から左へ流れた後、榮口へ流れています。水上輸送があったと想像します。 |
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| 千三百人余りが住む城砦都市で、唐代からある古い街です。
サクサン(満州の蚕)の生産が有名な場所です。
背の高い城壁と、その上の柱がむき出しの瓦葺の建物と、如何にも古い満州の風景です。
手前、小川と、板を渡しただけの粗末な橋が見えます。
古い城砦都市には近くに川がありますので、やはり人が住むにあたって必要となる水を得るためということでしょうか。 |
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| 『海城駅より東南方向二キロの海城城の南門にある。
由来は明らかではないが、古い時代のものである。』
魁星楼は科挙制度があったころの学府で、中国のあちこちに魁星楼はありましたが、一方でチチハルのものが有名で写真はほぼこればかりが紹介されており、こちらのチチハル以外の魁星楼が撮影された画像は、珍しく感じます。
こちらも池か川か、手前に水が見えます。 |
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