| 呼倫貝爾(フルンボイル/慣用読み: ホロンバイル)は今日の中華人民共和国内モンゴル自治区北東部に位置する地級市。市名はモンゴル語で、地区に含まれる湖である呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)に名前の由来があります。
今日の中国でモンゴルに接する広い地域です。
今回は、そのなかから当時の満州国のエリアと重なる地域の付近を取り上げます。今日の中華人民共和国 内モンゴル自治区 フンボイル市の付近で、険しい山や密林があり、また地平線の広がる大草原や砂漠もある地域です(いわゆる内蒙古の東側)。
画像は満州の地図で、左上にホロンバイルとあります。 |
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| ホロンバイルの色地図です。
地図は満洲の北西部分を切り取ったもので、右の緑のエリアにチチハルがあります。線路が延び、山脈を越えたところに高原が広がっています。地図は標高別に色分けがしてあり、緑が標高0〜200メートル、薄緑が200〜500、薄い茶色が500〜1000、茶色が1000〜2000、濃い茶色が2000メートル以上です。
このエリアは、500メートル以上であることがわかります。 |
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| ではまず、ハルピン方面(地図の右側)からホロンバイル方面へ進みながら紹介してまいります。
ハルピンから呼倫貝爾(ホロンバイル)方面へ進むにあたり何時間も列車にゆられて興安嶺を超える必要があります。この興安嶺は険しく高い山々の連なりで、鉄道を通すにあたっては、山岳を貫くトンネルも掘られました。
興安嶺は、全体が"へ"の字に曲がっており、
西の大きな山脈を大興安嶺山脈、東を小興安嶺山脈と呼びますが、ホロンバイルは、西側の大興安嶺山脈を越えます。
当時の書物から引用します。
『呼倫貝爾の中心の海拉爾(ハイラル)に進むに先立って興安嶺をすぎる。この山脈は北半球の最も雄大なものの一つで、西南より来って東北に向かい、転じて東南へすすむ。外部はオルゴン河と黒竜江でめぐらし、一山一水曲折並行、共に半環状をなし、地理学上の一奇観である。
長さ戦利、横七百里、森林に富、高峯は六千尺、峯頂尖鋭、東西みな傾斜丘陵に断崖絶壁あり。』
画像は絵画で『興安景観』第二回満州国美術展覧会入選作です。 |
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| こちらは興安嶺を写した写真です。
二本の白樺の向こう、なだらかで、かつ木の生えている斜面が見えます。写真は雲が覆いかぶさっていてよくわからないのですが、この向こうに、雲の隙間にかすかにのぞいてみえるのが、興安嶺の峰と思われます。
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| さて、画像は興安嶺のトンネルです。
『興安嶺の大トンネル
興安駅の手前に三キロに、三キロにわたる大トンネルがある。これはそのトンネルの入り口で、トンネルの手前には番兵が見える。東支西線は満州里からハルピンに至る約935キロで、ここは興安嶺をつらぬくに林産品の運送がすこぶる多い』
こうした交通の難所でもあり、トンネルの手前には大きなループが設けられています(山間部の斜面がきつい場合、らせん状に線路を敷設したもの/トンネルや橋梁を建設しておおきく回る螺旋を形成し、結果、急勾配を緩和します)。
そしてここを過ぎ、ハイラル、満州里(マンチューリ)、そしてソ連国境へつながります。
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| 先ほどの興安嶺のトンネル入り口を離れた位置から見てみます。
奥に先ほどのトンネルの入り口が見えます。
トンネルの背景に何も写っていないことから見て、なだらかな斜面の途中にぽっかりトンネルが掘られていることがわかります。 |
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| 興安駅です。
さきほどの興安嶺トンネルを過ぎまして最初の駅です。
ホームは余り広くはなく、また直ぐ後ろには林が広がっています。
恐らく小さな駅と思われますが、遠くには人手も見られ賑わっているようです。
興安という表記に併せ、ロシア語も書かれています。
ちなみに興安には日本人小学校があったそうです。詳細は不明ですが、10人程度の小さな学校であったとのことです。 |
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| 海拉爾(ハイラル)駅です。
さきほどの興安駅と煮た雰囲気ですが、背景の建物は駅舎ではなさそうで、駅の規模などは判らない写真となっております。
駅の表示が中国語とロシア語の併記となっているのも先ほどの興安駅とおなじです。 |
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| 蒙古軍とキャプションにありますが、詳細についての記載はなく、不明です。恐らく1936年に徳王が設立した蒙古軍政府(蒙古連盟自治政府)でしょうか。
海拉爾(ハイラル)での撮影ですが、後ろの城壁は昔からあるものの様に見えます。兵営とありますので、写っている人物は兵隊でしょう。また、軍馬は駱駝が勤めている様です。 |
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| 満州里駅です。
興安嶺を越え、ホロンバイルの平原を横切った終点です。
満州里で紹介しました駅舎と同じものです。
角度を変えてみると、大きな建物であることがわかります。
人の大きさと比較してみましても、建物は普通の建物の三階程度の高さがあるように見えます。窓だけでみますと、二階建てに見えます。一階の四角い窓は大きく、一階の天井が高く設置された二階建てかもしれませんし、もしそうだとすると、相当に広く空間を設けた建物です。 |
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| 興安嶺さえ超えれば、文字通り見渡す限りの平原です。地平線から日が昇り地平線に日が沈む、日本ではなじみのない風景で、ここを訪れる人は、誰もがこの朝日と夕日に感動します。
このホロンバイルは日本にはなじみのない地域であったと同時に関心も高まったのか、戦前の満州を扱った書籍では、ここに住む人たちの紹介が詳細に記載されています。
一方で馴染みが薄かった為に、放牧を写した同じ写真が、熱河とキャプションがあったり、ホロンバイルと書かれていたり、と混乱がある場合もあります。もっとも同じ山のつながりでもあるので、間違いと決めつけるほどでもないのですが。
呼倫貝爾(ホロンバイル)の由来について戦前書籍から引用します。
『もともと呼倫貝爾は蒙古王族の領土であった。
それを清朝のはじめ、蒙古が反旗を翻したのを機械に支那(当時の中国)へ没収し、南方にある呼倫湖と貝爾湖の名を併せて呼倫貝爾特別行政区を設け、副都統(統治の役職か?)を海拉爾(ハイラル)に駐在させ、国境12箇所に屯田兵を配置し、外敵と内乱に備えた。
黒龍江省に編入したのはその後で、東支鉄道開通と同時にロシア農民が進入開墾するのを防ぐためであった。
この地域には鄂倫春(オロチョン)族、ソヒン族、ダフール族、ブレーヤ族、ヤルート族、チンバルフー族、そして多数のロシア人がいる。蒙古系も多く、ラマ教を信ずる牧民である。』 |
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| 『荒野見はるかす幾千里山も無く漠々たる原と空放牧の羊の群である近来は有料朱の養殖に努める』
ホロンバイルは遊牧民が暮らす土地です。暮らしぶりについて戦前の図書から引用します。
『もともと蒙古人は着物も作らず縫物もせず、農耕もせず、それらは漢人(中国人)に依頼して、一生、牛や山羊を追うて暮らす。』 |
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| 遊牧民であるホロンバイルの人々にとって、牛、馬、山羊といった家畜は財産でした。
『ホロンバイル地方は面積一万方里、主な家畜である羊は年産額一五〇万頭である。』
『財産も羊が何頭と家畜の数を持って評し、嫁入りのときも同様、「あの嫁は羊を何千頭、馬何千頭を持ってきた。」と言う。』
彼らの挨拶にも遊牧民ならではのものがあります。
『彼らが出会えばその挨拶はまず、「お宅の家畜は元気ですか。」そして次に「お宅の草は、今年はどうですか。」、最後に「貴方のご機嫌はよろしゅうございますか。」と聞くのが常である。』
挨拶といえば日本ではご機嫌を伺った後、天気の話題がかわされることが多くあります。これら日本で当たり前の挨拶は、もしかすると日本が天気に左右される農耕の民族であることの特徴なのかもしれませんね。 |
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| 労働についての感覚は、日本人とは随分異なるようです。
『蒙古人の女性は家事万端の切り盛りにせっせと働いているが男は家畜の放牧を監視に出ていくくらいが関の山で、寝転んでは歌を歌い、友人知人と長談に耽り、牛飲馬食して居眠りするありさまである。
従って几帳面に勤労に従事することなどは至難のことであり、好まないところだ。』
『牧草も秋に草を刈りいれて干し草にして冬に備えるといったこともせず、雄大な大自然に溶け込み悠々と暮らしている。』
画像は、彼らの移動式住宅である包(ぱお)の傍でくつろぐ姿です。 |
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| 満州国があった当時、既に貨幣経済は地方まで浸透していた様です。ホロンバイルにも貨幣を利用していました。しかし、ホロンバイルの人々には貯蓄の概念がありませんでした。金があればあるだけ飲食店で散在し、そしてとくに必要でもないものまで手当たり次第に買ってしまうのだそうです。
『蒙古人がせっかく苦労して育てた多くの家畜を年に一度のラマ廟でのお祭りに開かれる家畜市場で売り、相当の金子を懐中におさめたまではよかったが、そこには漢人の商人や飲食店が網を張って待っており、右から左へとまきあげてしまうというありさまである。』 |
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| 当時、現地を訪問した日本人ジャーナリストも面白い風景を目撃しています。
『ノモンハン地方へ旅行した途中、海拉爾(ハイラル)とアムクルの中間にある満州人の商舗で休憩していると、蒙古青年が乗馬姿も勇ましくやってきて、商人と挨拶ののち、相当に膨らんだ財布から紙幣をわしづかみに取り出し、それを商人へつきだす。商人は不審げなふうをして「なにか」と問う。
するとはじめて簡単にほしい品物の名を告げ目的物を買い取った。初めから品物の価格も聞かずに余分の金を提示して買うのだから商人の言いなり放題である。最後に酒を買い求めることを忘れなかった。』(昭和16年7月の記事)
いわゆるどんぶり勘定な青年は、おおらかといえばおおらかですし、商売に長ける漢民族との違いも明確にみることができます。 |
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