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満州写真館 農業その4 稲作


                        
満州では稲作が広く行われました。
但し、水稲栽培は近代になってからで、明治時代の日露戦争後とされます。この頃、朝鮮半島から満州方面へ移住した移住者により、朝鮮半島の国境の鴨緑江沿いから始められ、吉林方面から東(ロシア国境側)方面の平野にも順次広がっていきます。

稲作にはある程度の気温の高さが必要です。
満州の気候といえば全てが凍りつく厳しい冬をすぐに連想し、またこれから稲作には不利ではとも想像されます。が、実は夏場には温度が上昇し、これが稲を育てます。
また雨が少ない事も稲作には不利に思えます。確かに昭和初期の観測で、比較的降水量の多い南満州の奉天でも、降水量は東京の半分以下しかありません。ただ奉天はパリ、ベルリン、サンフランシスコと同等の降水量で、農業に不向きというわけではありませんが、稲作はご存知の通り、田んぼに水をはるために、水が豊富に必要です。
そこで灌漑をするなどして水を得るなどの方法を確立する必要があります。

満州の気候で言えば4〜6月の発芽、稚苗の頃に雨が少なくて日照が多いことは有利ですし、また7〜8月には満州でもある程度の雨が降ることから(満州の雨季)稲の生育にも良いということで気候的には問題ないことが判ります。

土壌については、"水稲は土質を選ぶ事が比較的少なく、"との記述が戦前資料にあります。今日、我々が日本国内で見かける水田は、肥料をまいたり、田植え前に肥沃な土を持ち込んで一緒に耕したりと土壌を富ませる事に労力をかけている様で、それからすると如何にも当時はそこまで土壌にはこだわらなくても、という認識があったともみえてしまいます。
ただ、どんな土壌でもいいわけではなく、アルカリ類を含む土壌では感慨を十分にし排水を緑黄にする一方で有機肥料を用いよ、とあります。
実際、アルカリ性の強いエリアでは、水田を作る際に灌漑設備とあわせて大規模な土壌改良を行った例もあります。

また積極的に理化学的検地から土壌を改良せよとも記述がありあす。満州では大豆粕の有機肥料が好んで用いられていた様ですが、
『最も理想的な施肥方法は、以下にすれば簡単に施肥が出来るかということであってその為には腎臓肥料が重要な課題で、将来大いに研究の余地がある。』
とあり、科学の恩恵で稲作は良好な結果を得られるとの認識は強くあったようです。

さて、満州においては水稲に加え、陸稲(おかぼ)も多く産出していました。「水稲、陸稲に大別される、」という記述をする資料もあります(満州日日新聞・1937年)


それより以前に満州にあった品種(在来種)もあったようです。
これらは地元民で栽培されていて、
『赤褐色なるもの、黒褐色なるものが多い。籾(もみ)の立て溝は深くして籾殻は一般に厚い。栽培しやすいけれども成熟期に近づいて甚だしく脱粒しやすい傾向がある。概して食味及び品質が良好とは言いがたく、収量も劣るようである。』

さて満州国で栽培された主な品種は明治時代から日本国内より持ち込まれたものが主です。
いくつもの米の品種が満州へ持ち込まれて栽培されていました。
(明治四十二年に撫順にて大江惟慶氏が開田、明治四十三年に奉天にて勝弘貞次郎氏が開田)

勿論、地域により生育する品種にも工夫が必要でした。

『満州南部地方の比較的温暖である地方では育成機関が比較的長い品種でも栽培することが出来るけれども北部地方の様に夏季の短い地方では生育期間の短い品種でなければ成熟することは困難である。』

『満州の北部は、その緯度が丁度、北海道から樺太あたりにあたるため、生育期間の短い品種である必要がある。』
このあたり、同じ水稲でも品種がいろいろと求められる要因でもあります。

画像は、水田に水を導いているところ(?)の様ですが、撮影場所は不明です。

安東錦江の水田
『安東方面(朝鮮半島と満州の国境)における水田は早くから朝鮮半島移住者の従事する者が多く、数量品質共に良好であるばかりでなく生産物の販売においても北部満州に比べ、進歩を認められ得る。』
水をなみなみとはった水田が写っています。これから田植えが行われるのでしょう。
右側にクリーク(沼)が見え、ここから水を引いている様です。
『大河川の流水を直接導き灌漑しているのは甚だ稀で、』
と資料にあります。いくら川があっても、即、そのまま水田に利用できるわけではなく、やはり水の確保には苦労したものと思われます。

苗代における苗取作業(熊岳城分場)
田植えの準備で、苗床から稲の苗を束ねているところです。
昨今の日本の稲作は機械化がすすんでおり、稲の苗も機械に装着できるパレットの上で発芽させていますので、こうした苗床に田植え前の稲を育てる光景は稀になっています。

奉天近郊水田開墾作業 (苗床)
『奉天における水利局の用水路は、遼寧、新民、遼中の三県約十里余りに跨り、利水面積も約五千町歩に達している。』
田んぼの管理は、まず水をはるにあたり、稲を植えてからの水の深さを一定にするため、水田が水平である必要があります。稲作は、田植えからすべて広い面積で、皆で力を合わせて行うのがより効率が良いことがわかります。
ちなみに、画像に邦人の姿はない様です。

大農式
広い面積の水田です。
今日の日本でみられる様な、畦でこまかく区切るのではなく稲同士の間隔が狭いことから田植え前の苗床でしょうか。
水田と水田の間に広く幅の広い幅をあけてありますが、作業性かと思われます。
手前に立派な木が見えます。防風林でしょうか。

灌水田直播苗揃作業(六月上旬、熊岳城分場)
満鉄農事試験場での撮影です。
一列に並んでかがんで植える様は、日本でも同じ風景です。ただ日本では梅雨時期で雨が降っていることが多い様ですが、こちら満州では降っていない様です。
手前、きれいな感覚で植えられた稲が見えます。
遠くには、木がきれいに並んでいます。
大正二年には熊岳城農事試験場にて内地(日本国内)より取寄せ、育成し、研究を行っています。品種改良も成果が得られ
『優良なる各品種が現れるに至り』
とあります。

除草作業
『奉天付近の水田事業は近時著しく進歩し
収両においても質においても満州水田の中心である。』

図は炎天下、除草作業の光景です。
水がきれいにはられた水田での作業、はるか遠くまで広く水田が広がっています。
除草作業とのことで、写っているだけでも二十数名おり、こうした作業にも人手が必要であることがわかります。
カメラが珍しいのでしょうか、こちらを向いている人もおおくいます。

琿春地方の水田
『琿春から間島地方一帯は総面積八千余町からの大きな水田がある。機構の点からいっても安全に水稲の栽培を望みうるので将来の発展は期して待つことが出来る。』
満州の東端、朝鮮半島に近く、ここからの移民も多くいるエリアです。今日も広く水田が広がっていますが、これらの開拓は戦前から水田を営んだ、彼ら朝鮮半島からの移民によるものです。

寧古塔〜間島付近の水稲
琿春江の流域でもあります。地図で見る限り山がちな地方ですが写真では丘陵地帯の向こうにぽつんと山が写っているだけです。
列車からの撮影の様で、手前、左方向へブレています。

陸稲(おかぼ)の中耕作業(熊岳城分場)
水が得られないところでは陸稲を耕作していました。
陸稲はごらんのとおり、水をはる必要がありません。日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、近年まで山間部では栽培しているのをみかけました。
さて、こちらの画像、遠くには同じように防風林と思われます木々が並んで見えます。
陸稲は満州では「粳米」「旱稲」と呼ばれました(精白したものは粳米、又は大米)。
『品質は水稲に比し甚だしく劣るが価格が低廉であるため大部分は食用となり、一部が製菓の原料に充てられる。』
とあります。

さて、ここで満州での呼び名について考察を。
まず「旱稲」ですが、旱は「乾く」の意味です。早いという字にも似ていますが、まったくの別字です。ちなみに畳の上で水泳を練習することを「旱泳」と言う場合もあります。

また「粳米」は日本語では普通「うるちまい」のことをさします。中国の方面でも「粳米」という言い方はある様ですが、いわゆる「おかぼ」とは違う様にも思えます。
さて、元の書籍には「満州では」と書いてあります。
これは当時の書籍で良く見かけることですが、当時の人が満州・満州語と言ったとき、本当に満州のことの場合と、単に普通の中国・中国語のことの場合とがあります。また当時の当地では(誤解の場合も含めて)、そう言っていたのは事実かもしれません。なので、「粳米」イコール陸稲か、あるいは「粳米」が現在の中国で陸稲として意味が通るかは、不明ではあります。

哈爾濱  一面坡の水田
『一面坡(イーメンバ)は東支鉄道沿線、哈爾濱の東にある町で人口三万五千余り、農産物の集散地であり近時水田開拓の事業が盛んとなってきた。図は一面坡近郊の水田地帯。』
青々と稲が育っています。
一面坡は、東支鉄道を東へハルピンを出て、牡丹江(河の牡丹江ではなく、牡丹江の町)に至るまでの真ん中にある町です。
鉄道も通り農作物の運び出しには有利です。また地図を見ますと松花江の支流も流れており、稲作にも有利だったのでしょう。

蒙古の水田経営
『揚水水車がのんびりと回っている。
蒙古人たちが河畔の平地に定住して農業を始めてから相当の歳月が経った。
水田事業も盛んとなり移住民の前途は幾多の困難も横たわるだろうが、それと戦って進む覚悟があれば発展の余地がある。』
川の流れの力を利用して揚水するもので、画像が小さいのですが、四角い水を汲む器が、水車の向かって右側に配置されています。
右上のほうに水田が広がっているようです。

水車
『満州の産業に従事する人々が邦人を主に行われることによりその方法も道具も我が国から輸入されるであろうことは推するに難くあるまい。
図は我が国から輸入された水車で普蘭店付近のもの。
水田灌漑用にも使用されている。』
古い農具をご存知の方はこの形状のものをご覧になったこともあるかと思いますが、こちら満州に持ち込まれて使用されている事例です。
水車の上に人が立ち、立っている棒を両手で持って体を支え、水車を足で回し、揚水します。

さて画面左上、板状のものがいくつか立って見えます。
これにつきましては、推定ですが、満州の風車式の揚水施設ではないでしょうか。
板状のものは風を受けるもので、中心に縦向きに軸があり、それを取り囲むように風受けを配置します(全体は紙コップを立てたような感じに)。
そこへ風がふけばくるくる回るわけです。風が吹くと風車が回るのは、昨今でも稀に倉庫の屋根などに設置された受動型の換気扇でもみかけます(動力が要らず、風が吹くと風車がくるくる回り、室内を換気する/動力がいらない)。
これを揚水で使うのは満州ならではですが、残念ながら写真は入手できていません。また一定の風が得られるとは限らず、さほど普及はしていなかったようにも考えられます。風が一定で吹く(と思われます)海の近くの塩田での使用例もあります。

脱穀風景
朝鮮半島からの移住者達の作業風景です。
左は連枷(れんが / 地方によってはくるり棒とも)を用いての脱穀をおこなっています。
真ん中よりやや右、ドラムを回すタイプの足踏み脱穀機が見えます。これら農具は、日本のものと共通に見えます。

脱穀機械
農事試験場での撮影です。
ずいぶんと大がかりな機械です。

奉天産米検査所の一場景
倉庫に集められたお米、所狭しと米俵が詰められています。
品質をチェックしているところでしょうか、デスクに丸メガネのひとがなにやら作業をしています。
暗い中での撮影であったためもあるかと思われますが、ほこりっぽく写っており、精米所が米ぬかでほこりっぽくなっているのを連想します。

撫順採種田
『撫順は邦人が満州において水稲作開始の発祥の地である生産も相当の成績をこの地は一体に各河川の水量豊富で且つ広潤平地で将来発達の余地あり』

撫順は炭鉱で有名ですが、稲作の発展も期待されていたことがわかります。
真ん中に二本の用水路が配置され、またそれは途中に関があり、水をせき止めて水田を導く様子がわかります。

満州製日本酒 楽天
『 健康の酒 
防腐剤を含まぬ銃後の国民飲料
楽天
奉天 満州特産工業株式会社』

雑誌の広告から。一升瓶に、楽天のデザインが見えます。
良いお米が取れるようになると、奉天などで日本酒の酒蔵が醸造を開始します。満州ブランドの日本酒がいくつも発売され、人気があったそうです。
満州は豊かな稲穂の国となった一つの表れと感じます。
こうした満州のお酒が日本に輸入されたか、興味のあるところです。


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