| では、ホロンバイルの続きとしまして、さらに暮らしぶりなど紹介してまいります。 |
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平原の黄昏満蒙牧童が大陸的な駱駝にのっていかにも蒙古的である。 |
| 移動手段として馬以外にも駱駝が愛用されています
広い平原で羊を追っているところです。
さて当時、ホロンバイルの人々には、数字の概念がなかったわけですが、それについてこの地を訪問した日本人の興味深い逸話があります。
『向こうの山まで何里あるかときくと、太陽をさして、「あれがこれくらい下になったら到着する。」という。これは彼らが馬や牛車で進む速さで割り出した比例なので、トラックに換算することは困難です。かような蒙古人ですから物々交換で理智に長じた漢人にだまされるわけです。』
画像は牧童が大陸的な駱駝にのっている風景で、いかにも蒙古の風情です。 |
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| 『無名の草花は雪のごとく白し。』
大平原と、白く咲く花です。 |
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| 『一鞭高く草原の空気をふるわせば
駱駝は地平線めがけて一線を引いて疾駆する。
平原に無知を揚ぐるの快!
まさに男性味縦横。』 |
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駱駝の商隊駱駝は満蒙の砂漠を旅行するに唯一の交通機関である |
| さて昭和7年当時の駱駝に関する記述がありましたので紹介いたします。
『駱駝は蒙古のみに産する。満洲には産せず。
力役、駄乗に適するために、蒙古における重要な旅行期間である。
歩行は緩慢であるが、大人一人と三〜四十貫目の荷物を載せて、一日八里も歩む(三十二キロ程度)。
総数は不明だが、東部内蒙古だけで約四千頭を飼育。西部蒙古、外蒙古にはこれ以上居る。』
ホロンバイルの人々を紹介するに当たり、日本人との類似点を上げたものがあります。この類似点の紹介は実際にホロンバイル(蒙古)を訪問されたかたのものですが、挙げられているものとして
・着物を着て外から帯を締めること
・酒類を好み用と非常にゆかいになり、戸外や他の包(ぱお)へ行ってはしゃぎまわること
・乗馬が好き
・言葉の構造が日本式で、たとえば「て・に・を・は」の位置が日本文法的であること。
があります。
ただ、これらは日本やホロンバイルに限らない、割と当たり前のことにも思えます。
ちなみに興安嶺に住む鄂倫春(オロチョン)も同じ様に酒が好きで日本人と似ていると紹介がされていたりなど似ていたりしますので、やはり同じだった、という印象が本当に大きかったのかもしれません。
つまり、それだけ彼らのことを知らなかった、アジアに視野を広めたい当時の日本人にとってそれだけ新鮮だったということでしょう。 |
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| 遠く平らな地平線の見えるホロンバイルの平原に駱駝の団体が見えます。駱駝は皆、毛が長く、これなら厳しい冬の寒さも大丈夫そうです。
右下、少年が駱駝に乗っています。 |
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| 『駱駝隊陸上の船ともいわれる駱駝は蒙古でもやはり旅行のときの船として重宝される。
あのトロントロンとなる鈴音がなんともいえない蒙古情緒に浸される。』
駱駝というと暑い砂漠のイメージですが、こちらホロンバイルでは冬になれば雪原を歩く姿が見られます。 |
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千里砂丘の波を越えて黄塵万丈の蒙古風に悩みつつ進む隊商の一隊 |
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| お祭りでしょうか、馬に乗った人々があつまってきています。
このホロンバイルを訪問したジャーナリストは地元の人と交流を深め、彼らのことを以下の様に紹介しています。
『信義を以て対すれば、いつまでも温情ある交際が永続される。
またよく恩を知る。実際、新設に接すると非常に感謝して何時までも忘れず、その人を慕い、その人を救うにあたり、自己の振りや危険を顧みないことも珍しくない。腹のなかと口先戸が別であるようなこともない。』
『酔えば陶然として高踏乱舞すること、日本人と同様であり、漢人(漢民族)が飲酒してもメンツを気にしてその態を崩さず胸襟を開かないのとは全く趣を異にしている。特に漢人が亡恩的であるのとは根底より違っている。』
一方で、気性や物の考え方については日本とは異なることが多くあり、それもルポされています。
『彼らは復讐心もきわめて烈しく「血は血を持って濯ぐ」というのが彼らの昔からの信条である。
かつて漢民族と蒙古族との雑居地遺体では大小各種の紛争事件が発生しており、これらは見方によっては漢民族の圧迫に対する蒙古族の反発とも見られぬこともない。』
さらに近代的な文化や機械類に馴染みがないことから注意が要ることをあげています。
『彼らの未だ見たこともないような機械を据え、我々が測量をやっているのをみては何事か自分たちに不吉なことが起きるのではないかと疑い、いろいろとたずねれば、きっと何か企んでいるのだろうと考える。
したがって蒙古人に接するには親しくなるまでは彼らが不振に思う様な言動を避け、奇怪なものはそれを見せない様に努めることが肝心だ。』 |
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| 『高原の民族蒙古人は牛乳を唯一の滋養味とし菓子も造り酒も造り調味料にも利用する。』
乳搾り風景です。
さて、当時のホロンバイルの食べ物について紹介してまいります。
満州の都会や日本の都会での料理店には一部に蒙古料理というジャンルがありました。さほど一般的に広まったものではありませんが羊肉を出すものでした。
しかし当の蒙古では、放牧民族でありながら肉は貴重品だったようです。
戦前書物から引用
『羊肉を常に食う様な人は旗長、つまり王様くらいで、一般は朝晩ともに要粟を緑茶に混ぜて木製の椀で三、四杯飲み、時に羊乳類をコンデンスした豆腐の様なものを指でなめるくらいです。不思議に思うのは、野菜類を食わぬとおこる壊血病や甲状腺炎の病人が居ないことです。ただし皮膚病は全般的で、白雲などが極めて多く注意を要します。』
これは蒙古に限らず放牧民に言えることですが、家畜により肉類は豊富にあるというわけではなく、実は貴重品です。
肉の保存技術が無いことがその原因です。その為、家畜の解体は、あらかじめ燃料を集め、周辺の人々を招待してから丸焼きにします。保存ができない以上、すぐに食べつくしてしまわないといけないからです。
戦後の話ですが、この地を旅したルポライターの話として、この家畜解体と食べつくしにあたっては、周囲の人を招待というより肉を無駄にしないために召集されるといった感覚、といった話も聞いたことがあります。
また引用しました文章にはコンデンスとあります。このコンデンスには特に脚注もなく、当時の人が読んでわかったのか、興味があります。
この他の食物として、魚も貴重な蛋白源でした。沼などで草食魚が獲れましたし、湖や河で大きな鮒も獲れました。 |
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| ではここから服装を紹介してまいります。
着飾った蒙古の少女です。髪から、肩から、首から沢山の飾りを身につけています。
袖口にも細かな刺繍がついています。 |
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| 蒙古の女性です。
冬場でしょうか、随分と厚着です。白黒でわかりにくいのですが、服装には華麗な模様があります。日頃より服装には凝っていたものとおもわれます。背景には荷物とテントが見え、市場か何かでの撮影と思われます。 |
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| 見事な刺繍の髪飾りです。
三つ編みにした髪に取り付けているようで、背中にぶら下げています。
丸い模様は縫い付けてある様です。かなりの光沢をもっているようで、金属性(貴金属?)かもしれません。また模様には特徴があり、部族毎に特有のものかもしれません。
『彼らの靴は、編み上げ靴と長靴との間の、乗馬に適するもので、その先端が上向きに少し曲がっている。その曲がり具合で何旗の住民であるか分かるという特徴がある。』 |
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『蒙古人は遊牧の民である。このため、古来の習慣を今も次から次へ所を定めぬ放浪生活をしている。そこで住居も持ち運びの出来る移動住宅である。これをパウと呼ぶ。写真はその組みたれられたパウの前に集まる蒙古人の家族。』
パウは包とも書かれます。 |
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いくつか包をみてみます。
包は概ね同じ形と規模に見えます。
こちらも包と、正装する蒙古の民です。 |
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おなじく包です。
全体を縛る紐の配置に違いがみられます。
ちなみにこちらの人物(男性?)は、実に見事な髪飾りです。 |
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『砂漠に旅行の際に携帯する組み立て家と蒙古人』
こちらは旅行者を撮った写真の様です。やや小さめに見えます。
粉雪が降る季節の撮影らしく、包の壁の部分に白くつもってみえます。
手前の人物は、頭も覆っており、随分と寒そうです。 |
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| 駱駝に引かれて移動中の包です。
コンパクトにまとめられています。
ちなみに警察署の出先、いわゆる交番も包で出来ていて移動可能なものでした。 |
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| 彼らは元々遊牧民で移動をしていました。また耕作は行っていませんでした。
これについて、ラマ教に
『鍬を以て土中の弥陀を切断するは、冥福を得る道にあらず』
という一句があることからだとのことでした。
結果、土地を掘ることを好まず、農耕はもちろん、土木作業も行われていませんでした。
が、漢民族の影響から耕作を行い半農半牧の生活を営む者もでてきたそうです。
結果、家は固定家屋となったそうです。
こちらも包ですが、固定式で、壁と屋根に泥を盛っています。屋根には雑草も生えています。 |
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オボとは旗人(きじん/清の支配階層を構成した階層)が、自分の勢力を示す地域を示す境界の印で建てたものです。が、何も道しるべの無い平原では道標としての役割がありました。
石を積み上げただけの簡単なものから、レンガを積み上げたものまで、様々です。また旗を立てますが上に束ねた旗を立てているもの、周囲を立てた旗でぐるりと囲むものなど色々とありました。
写真は入手できませんでしたが、動画でこれらを撮影したものがあり、当HP管理人のスケッチで紹介いたします。
左側、中央に旗を束ねたものが刺してあります。
右側は本格的なもので、2階立てになっていますが、一階部分の四角い壁の高さだけでも人の背丈程度あり、実に大規模なものです。 |
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| 蒙古語の看板
こちらの宿屋には扉と窓の板に縦方向への不思議なものが書かれていますが、これが蒙古語です。
戦前図書によっては、蒙古の文字は廃れたとありますが、ホロンバイルでは蒙古語は使用されていた様です。 |
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| 画像は蒙古相撲です。
日本の相撲と違い、足技があり、格闘技にちかいものです。背景にテントもあり、祭りか何かのイベントの様です。 |
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| 『蒙古人の相撲、睨み合って立ち上がった姿、それは我が国技、相撲に似ている。
蒙古人は相撲を好み、青年相寄れば先ず必ずヨイショと四股を踏む。
眼付の凄さに着眼せよ。』
こちらも蒙古相撲で、開始の様子の様です。
背景には特に何も写っておらず、平原での日常風景でしょう。 |
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| 蒙古相撲
再び蒙古相撲です。
背景の人々は、どうやら日本人と思われます。日蒙の親善イベントではないでしょうか。あるいは子供も多く写っているところから、修学旅行の一貫かもしれません。 |
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| 競馬大会
こちらも日蒙のイベントの様です。
左にはゲートが立てられています。右の建物のテラスにも人が溢れています。
満州国が出来るまで遠すぎるために疎遠であった日本と蒙古は、交流の機会を得たとたん、たちまち友好関係が発展した様です。 |
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| さてもう一枚、記念撮影です。
厚い服装から、如何に寒い地域かがうかがえます。
背景ですが、細かな木枠の窓が特徴として挙げられます。恐らくラマ教の寺院での撮影でしょう。画面左に馬具が見えます。
手前には二頭、毛を刈られた羊がみえます。また、記念撮影にあたり、羊をわざわざ二頭並べているあたり、家畜が財産であり重宝していたという印象を得ます。
写っている方々の服装ですが、ふっくら膨らんで見える衣服は羊毛を詰め込んだのかも、と想像しております。
前列右端の人物は女性と思われますが、服は明るい色に見え、他の男性と特に服より、よりお洒落な服にみえます。 |
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| 侍従武官と蒙古王会見
どういった状況か、などはわかりませんが、蒙古王長の正装でしょうか。もしかすると徳王の蒙古連盟自治政府での撮影かもしれません。 |
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| ひたすら平らな蒙古の平原ですが、その中にぽつんと大きな山があります。これはポクトオーラ火山で、日本人研究者が入った時の写真です。大興安嶺は火山山脈でもあるそうですが、平原の真ん中にも火山があり、当時も日本人の手によって研究されていたわけです。
随分と平らな山であまり火山には見えません。ちなみにこの火山は大昔に既に死火山となっているものです。画像は学術報告で用いた物からの引用で、画像には解説の為にイ、ロ、ハと示す"イ"の字が見えます。このイの字のところに火山の火口があります。 |
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| この地の葬儀は日本的感覚からするとずいぶん風変わりなものです。
蒙古では人が死亡した後、読経ののち、牛車に遺体を乗せ、大草原へ放ちます。
決して後ろを見ずに牛車を激走りさせる、盛んに鞭を入れ、牛はたけり狂って走ります。
そうして遺体が牛車から転落するとその場所が墓場となります。そして遺体はそのまま放置しておきます。
当然、野生生物がこの遺体を食べてしまいますが、もし食われて骨ばかりになっていれば、罪業は少なく成仏したと喜びます。逆に捨てたそのままになっていると、再び読経して同じことを繰り返します。
やや鳥葬にも似た感じですが、鳥葬の場合、祭壇という場所を決めて行われる違いがあります。
こうして、野原を墓とし、わざわざ墓を造ったりはしません。
ただ、全く墓がないわけではなく、王様は墓を造るとされていますので、極一部の人だけが墓を持っていたともいえます。
日本では今は火葬が主流です。また過去には土葬もありました。いずれも自然に還すと考えます。
その自然の還し方として、蒙古では大平原へ、という考え方だったのでしょう。
現在の蒙古、モンゴルではどのようになっているのか、興味があるところです。 |
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| 蒙古ではラマ教が主流でした。ラマ教は
今日、チベット仏教という呼び名が一般となっていますが、チベット以外でも新疆ウイグル、チベット、モンゴルに至るまで広く信仰されています。
『蒙古人は非常に信仰心に富む身族で、息子の一人は必ずラマ僧とし、全財産を提供してまで、廟に金をかけるので、人跡稀な大草原の中に金色燦然として紺碧の空にそびえる大伽藍を見出します。それが唯一の誇りです。
ラマ廟にも大小あり、小さくても50人、大きいのになりますと九百人ものラマ僧がいます。
ラマ僧は自家より仕送りされて一生を修行に費やします。』
確かにラマ教の寺院は巨大かつ荘厳なものが多く、ラマ教という宗教に、社会全体がかけるパワーの大きさを感じます。それが宗教に興味を持たない人から見ると、ラマが搾取しているという風に見えるのかもしれません。 |
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| 『熱砂百数十度、炒りつける暑さの蒙古の砂漠。
ここを乗り切る騎馬の勇士
砂丘は波状を描いて馬蹄に砂塵揚がる。』
蒙古の砂漠を象徴するような、一面に広がる砂です。
百数十度は大げさにしても、キャプションから、夏場は大変な温度になることがわかります。
馬にしては、やや小さめに見えますが、足元からは砂塵があがっており、乾燥していることがわかります。
遠方には何も写っておらず、大平原が広がっているようです。
当時の訪問記はいくつもあります。いずれも異国の風景に驚きをもって接しています。
戦前図書から引用します。
『五〜六月にかけて蒙古特有の花園がまことに見事で、一度に咲きそろい、百花爛漫となる。
この地を訪問してまず困るのがあまりに広い広野のために目標がなく、方角を失う。』
また高原であり、取材旅行において、意外な苦労があったようです。
『海抜千メートルを超える高原で六月でも革製のコートを着込んでいる。
春雨のような雨もあり、また紫外線が多く写真は一般の計算ではなかなかうまくとれず、特別のフィルターを準備する必要がある。』
満州国が出来た当時、交通の便と共にホロンバイルという未知の地域への関心が高まったことが当時の書物からも見て取れます。
併せて積極的に撮影をした、その苦労が記載されているののも、写真大好きな日本人ならではでしょうか。
お陰で、21世紀となった今日も、当時の雰囲気を画像を通じ、感じることが出来ます。 |
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