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地方都市その4





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
満州の地方都市のその4回目としまして、北満を見てまいります。

哈爾濱(ハルピン・地図右下赤)、斉斉哈爾(チチハル・中央左赤色)から大きく三角形を描く線路を中心に見てまいります。
この三角形を左回りに見てまいります。
ちなみに、この地図に書かれている地名は右から左へ読みます。

まずは線路の開設から。
哈爾濱(ハルピン・地図右下に赤く塗っており、略語で哈尓賓と書かれています)から画面を左上法王に伸びる線路は
青く塗っております昂々渓を過ぎて満州里まで伸びます。これを浜洲(ひんしゅう)線と呼びます。
斉斉哈爾(チチハル・地図で赤く塗っており、略語で斉々哈尓と書かれています)。から北西へ、北安までが斉北線です。
北安から南方向のハルピン方面へつながるのが浜北(ひんぽく)線です。但し、この地図では省略されていますが、浜北線の終点はハルピンではなく、ハルピンの隣町、三○樹です( ○:木 偏に 果 )
但し、浜北線はハルピンまでとする指摘もうけました。哈爾濱は哈爾浜とも書き、浜北線の浜はハルピンをさすというものですが、現在、当ページを作成するにあたり詳細は確認できておらず、今後の調査と致します。

さらに浜北線は、呼海線、斉克線と記述された資料もあり、これは浜北線の一部を指すものでしょう
線路名は街の名前から取ります。また呼海線は呼欄〜海倫を結びます。ですので、斉克線は斉斉哈爾から克山までを繋ぐものと思われます。

呼海線につきましては、哈爾濱(ハルピン)対岸の松浦(スンポー)駅から発進する、呼は呼蘭(ホラン)、海は海倫(ハイロン)の略、という記述を戦前図書で確認しています。つまりハルピンからは直接は乗れず、まず松花江の鉄橋を渡り、乗り継ぎが必要な様です。
先に書きましたとおり、浜北線は三○樹からですので、ハルピンから直接乗り入れできないのは同じである一方で、かつて呼海鉄道であったころと浜北線になってからとでは、始発が異なっていることがわかります。

満溝
満溝は甜草崗とも呼ばれます。
ハルピン、チチハルの間にあって安達に次ぐ穀物の一大集散江奇異です。
八百万トンを超える物量がここの駅から運び出されました。
市街地も大変繁盛し、事項も一万人を超えました。
画像は、珍しい牧草の野積みです。これも列車で輸送され、冬場に家畜で利用されるのでしょう。

安達駅
さて画像ですが、大豆の積み込み風景です。
安達はハルピンからチチハル方面へ向かう鉄道の大動脈の途中にある町です。
周辺の農作物を集散する物流上、重要な町です。
左側、牛車で運ばれてきた大豆を、えっちらおっちらと貨車に積んでいるところで、貨車にはすでに山盛りになっています。
ハルピンから以北には古くからロシア人が分散して住み着いており、作業にあたっている人の中にもロシア人風の人が見えます。
この付近は大豆の一大産地でもあり、こうした大豆の積み込み風景は
豆油の山地でもあり、列車輸送の為にタンク貨車が

安達は地図では二つあります。青く塗っているものと青く塗っている箇所から北西(図で右斜め上)へ伸びる支線にも安達があります。

昂々渓(こうこうけい)
『昂々渓  兆昂鉄道百四十哩の終点であり、北満州鉄道とのクロス地点である。』
(兆昂の兆ですが、兆南という町の名で、本当は、さんずいに兆が正しい字です/当環境では表示できない漢字です)

駅で、意外と小さい駅舎に驚きます。と申しますのも、この駅は、東はハルピン、西は大興安嶺を超えて海拉爾や満州里へ、南は白城子を経て兆南へ、北はチチハルや克山へつながる交通の要所です。
駅舎の背景を見ても建物一つない平原ですし、駅の前はロータリーでもなく、これといった道路も配置されていないただの広場です。野原の真ん中の小さな駅舎であることがわかります。画面右下に建物と思われる影があり、民宿か店はあるのでしょうか。

満州では、線路を敷くことで流通が改善、経済産業が発達という場所はいくつもありました。そして周辺から人が集まり、駅のある町は人口が増加しました。しかし、この昂々渓のみ、人口が流出したとする資料があります。本当にここは鉄路が交差するだけの乗換駅だったのでしょう。

斎克線克山市街
昂々渓から北方向へ線路をつたってずっと北へ進んだところ、克山市があります。
家畜の引く大八車の隊列が町をすすんでいます。
左手前から右奥へ進む隊列、そして画面手前を右から左へ進む隊列もあります。
足元は相当にぬかるんでいる様です。
街並みはチチハルと同じく、道路に面して二階がある様な壁が造られています。写っている範囲では、大きな建物は見当たりません。
『克山市は斉斉哈爾(チチハル)から百三十三里、斉克線にあり、背後に豊かな大平原を控え、沃土の中心である。この痴呆は現在、ようやくその2割を耕作するに過ぎず、未耕地は尚、一千万人余りの移民を収容しうるといわれる。交通の便も近年益々発達し、大豆小麦園か農産物の一大集散地である。』

克山
チチハルからさらに北の町、克山です。

地図を見ると、克山斉、克山鎮(克山街?)とあります。ここで紹介しております克山がどれをさすのかは残念ながら不明です(もしかすると両方をまとめて呼んでいるかもしれませんが)。
ここには早くから線路が開通し、産業が発達しています。特産の大豆から作る大豆油を運ぶため、線路にタンクの貨車がずらりと集まる光景もみられたところです。豆油大量輸送の為の大掛かりな積み下ろしの施設を持つ駅もあったそうです。
画像は地平線まで続く畝を機械が耕しているところです。
まさに満州ならではの風景です。
トラクターは大きな車輪を持っているようです。操縦者の左右に泥除けがあり、その大きさからみても、相当な大きさです。
満州ではキャタピラーの農業用トラクターが多かった様ですが、これはぬかるむことが多かったからではないか、と推測されます。
一方で、こちらで車輪を採用しているということは、さほどぬかるみで困る様な事(雨や冠水)はなかったのかもしれません。
こうした広い農地では、水を得るのは楽ではなく、井戸から人力で汲み上げて補っていたりもします。

これら北満州は、何年も施肥の必要がないといわれるほど肥沃な土地だといわれています。
しかし、この克山の近くチチハルにおいて、満州国が出来た頃の書籍では生産性の悪さを指摘する記述もみられます。このあたり、どうも疑問を感じますが、恐らくこの地域の全てが農地に向く土地というわけではなくムラがあったのかもしれません。

焼酎も産出していたという資料もあり、穀物がとれたことがわかります。

ちなみに克山病(こくざんびょう)という風土病がありました。これは1935年に黒龍江省で流行し有名になった様です。これはミネラル分の不足、特にセレン(セレニウム/Se)が不足して起きるものとされます。これは魚介類に含まれ亜鉛とならぶ重要なミネラル分ですが、この地域では不足しがちだったわけです。
今日、セレンを含むサプリメントもありますが、日本では通常の食事であれば不足することはなさそうです。しかし海から遠い大平原の真ん中では、摂取不足が起きたのでしょうか。

北安
いかにも中国風の建物には屋根に草が生え、寂れた風にもみえますが、人通りは多く描かれています。

ここに線路が敷かれた頃と推定されますこの地を訪問された方の資料から。当時、朝鮮半島からの移住者による農業が行われている一方で、そこへ線路を通すため大倉組(当時の日本のゼネコンでしょうか?)が、労働者を多量に連れてきていることが判ります。

『海倫以北は雨量多く、為に海北鎮通化北安などの家屋の構造は、農家同様、草葺である。
大倉組の山東苦力六千人が鉄道工事の為に入り込んで部落は大雑踏を呈し物価の沸騰、驚くばかり。日本人も朝鮮人も苦しめられているのに対し、苦力たちは、手取り日当一円という珍しいほどの高給にほくほく。彼ら苦力もこの地に居残って発展の先駆者となるのだろう。』
実際、山東半島からの移民が多く住んでいました。また本来、苦力は単純な肉体労働が主ですが、ここでは日本人も地元民も驚くほどの高給取りというあたりは、線路の重要性と苦力の労力への期待をみることができます。

北安
メインストリートでしょうか。
まっすぐの道に沿った街並みです。遠くへ三角屋根の家が並んでいます。断定はできませんが、印象として日本人街といった感じを受けます。
左端の建物にはホテルとあります。もしかすると駅前でしょうか。

まだ、北安へ線路がつながる前、と思われます頃、このあたりを訪問したジャーナリストの記述に、茫々とした平野というのがあります。家一つ、山一つ無い、ともあり、広い平原があったことがわかります。
また、このジャーナリストは駅を降りてから(駅名は不明)トラックに乗って北安へ移動中、トラックが脱輪、馬車で北安へ。そこで”縣長”の、干という人物の家に泊まります(縣長は、地域の長の様ですが、詳細は不明です)。また、そこでは『ウイスキーやベエルモット、ジンなどちょつとしたバアくらいの酒類が並んでいた。白鶴や富久娘や月桂冠の一升瓶まで揃えてあつた。』とあり、酒盛りで話が弾んだそうです。
こうしてみますと、都市から離れ線路も繋がっていない地方の町でも、嗜好物は流通していたことがわかります。

北安
北安の街並みです。
さほど背の高い立野は見当たりませんが、広く街並みが広がっているように見えます。
遠くに煙突や塔思われますものが写っています。

通化
日本人も多く住んでいた北満の通化です。
ここもほかの北満の街同様、日本人らが多く入植した土地です。
これは先ほどの北安と同じ方の絵で、民家が一列に並び、遠くに満州風の門が見えます。右奥にも家並みが見えます。
通化の写真は現在収集できておらず、現在も収集中です。
この通化は、いわゆる通化事件のあった通化とは別の街です(通化事件は、北朝鮮国境に近い通化省の街でおきました)。

海倫駅舎
つづいて海倫の街を見てまいります。
このページの最初に紹介しております地図では円を描いてつながっている線路ですが、かつてはここが終点でした。
その頃から大いに繁盛していたことがわかります。
こちら駅舎は冬の撮影か、随分と寒そうです。

右上にアルファベットの記載があり、Hai-iun(ハイ・イウン?)とあります。先に線路を紹介しました際の元資料にはハイロンとあり、このあたり、どのよに発音するかは難しいようです。
日本人が満州の土地の名を呼ぶ場合は、混乱を避けるためにも、例えば"かいりん"といった日本語読みのほうがいいのかもしれません。

斎克線海倫市街
満州ならではの大きな車輪の荷車が進んでいます。

『海倫市は人口約1万七千人で、斎克線最北部の一大市場で、呼海鉄道の終点でも有る。ハルピンから八時間の距離、大豆、小麦の特産物集散が多い。市街は商業が盛んである。』
これは浜北線がつながっていない、海倫が終点だった時の記述です。

ちなみに海倫からは軽便鉄道が出ていました。山間を超え川を超えて三道鎮という町へつながっていました。馬が引く鉄道でしたので、あまり積載量は期待できそうにはありません。

海倫
『海倫はこれまで呼海鉄道の終点として名を知られた黒龍江草原の都会である。毛皮、特に犬の皮の取引は盛んで、米國方面に商関係を持つ。』

街並みは遠くまでまっすぐです。また克山市街と似た印象を得ます。もしかすると左から二番目の家の二階部分は、表だけの壁かもしれませんね。
また犬の毛皮とあります。毛皮ファッションは30年代以降に流行っており、遠くアメリカまで輸出していたとは驚きです。襟に満州産の毛皮がついたコートを着たご婦人が、アメリカの街を闊歩する姿を想像します。
ただ、毛皮の為に犬をわざわざ飼っていたのでしょうか(食用にもなりますし)。或いは、満州全土にいた狼を含めての記述か、とも考えました。

海倫
絵画の海倫です。
大きな壁と門が描かれています。昔の城壁か、あるいは富豪の家か、と想像しています。

呼海線綏化市街
『昭和3年12月開通の、呼蘭から海倫に至る百三十二哩の鉄道の重要都市で、この鉄道厭戦は元来、北満の穀倉とまで呼ばれる農産地帯である。
綏化市は人口5万余、黒龍江省の中心で、最も地味肥沃な地方である。
大豆小麦ほか、穀物の算出で有名である。
小麦製粉工場など有り、一面、また外国物資集散の要地である。』

表通りに面したところだけ白く立派に造ったビルなどがみえます。
道路は歩道が板張りです。
左側、線路が配置されています。
枕木の間は砂利で埋めるなどしておらずスカスカです。さらに目に見えるほど蛇行していることや、人物と比べても線路の幅は狭いから、トロッコなどの小さな貨車を動かすものと思われます。
左側、電柱が傾いており、ちょっと地盤がよくないのかもしれません。

綏化市街
『呼蘭から鉄道で約70キロ、呼海鉄道のほぼ中央にある最大の都である。
かつては北団林子と呼ばれ、呼蘭河の支流にそって発達した都市である。』

綏化の街並みです。人がいるあたり、看板も見えますので、店かなにかでしょうか。
ここ綏化は松花江の支流があり、これを利用したハルピン〜綏化フェリーが営業していました。
この外、この町には満鉄ハルピン病院綏化分院がありました(大正時代から?)。

綏化
こちら綏化や海倫方面の一帯は大穀倉地帯として紹介されています。
1930年ころから沼地にいたるまで開墾がなされ、運河ダム等による湿地干拓、トラクターや家畜による大型農具を導入した大農耕作が展開しました。

この周辺は中華民国の山東省からの移住者が大量に到着していました。政情不安な国を離れ、はるばるここまでたどり着いたわけです。
当時を紹介する書物には、農業立国である満州で農業に働き口安定した生活を求めて家族で移動した姿が多々紹介されています。
 
『雲集する移民の群れ
綏化駅に降り立ったおびただしい苦移民の群れ。
北満へ!北満へ!豊沃の地、北満を目指して移民は呼海線を利用して次々と集まる。』
 
鉄道は、労働力の運搬、そして農作物の搬出に活用されました。ご覧の大勢の労働者の移動、そしてこの沿線だけでも数十万トンの大豆、小麦を運んでいます。

綏化 満州稲作灌漑
綏化の周辺の地図です。この周辺は肥沃な土地であったらしく、様々な農業が展開いたしました。
別途、農業のページでも紹介いたしましたとおり、北満でも稲作が行われましたが、ここ綏化ではディーゼルによる揚水が行われていた様です。近代化、機械化の恩恵です。
ちなみにこの図には線路だけでなく、道路も書かれており、これはハルピンからつながる幹線道路です。

阿什河(阿城)
一周してまいりましたので、最後にハルピン東隣の(地図右下)を。

阿什河の城門です。
でかでかとポスターが貼られています。左はたばこですが、他は判別がつきません
『東支線東部において、もっとも重要な土地は阿城であろう。阿城は最近の地名で
古い名前は阿爾楚喀(アルチュカ)城である。
ハルビンの東北約96キロ、阿什河駅から5キロにある。
現在の城壁は清朝初期の建築、高さ4メートル、周囲2キロ。場内に4万人が住む。
周辺は回教徒が多い。』

さて、三角形を形作る線路から北の地方を。
北安から北へ国境まで線路が延びています。
これは北黒線です。
途中、興安嶺の大山脈を超えます。この終点が国境の町、黒河です。大黒河と表記されることもあります。
北安から終点の黒河まで40近い駅があったとのことです。これは信号所も一緒に数えているので旅客駅はもうちょっと少なかったのでは、という指摘もありました。が、少なくともこの冬は極寒の北満、しかも大山脈の中にも様々な街があったと思われます。

黒河
もうひとつ、別の地図(鳥瞰図)で見てみます。
線路が山脈を越え、山中に孫○という駅があります(当方の環境では表示できない漢字)。その先に黒河が、さらに国境を兼ねる黒龍江の向こうにソ連の街があります。 

黒河
さて黒河は、黒龍江に沿って出来た国境の町で、ここは清時代からロシアと対峙してきた歴史があります。
この黒河は日本人も進出しており、日本人小学校もありました。
一方で、当HPの画像を収集するにあたり、この町の画像を見つけるのは困難でした。観光地目的の日本人も多くないことから絵葉書も稀だったのか、とも想像しています。
画像は、いかにも満洲といった形の門から黒龍江方向を見ています。この黒龍江が国境で、対岸には清国時代にロシアが作ったブラゴエスチョンスク市が写っていますが、残念ながら画像が荒く、はっきりとは見えません。このブラゴエスチョンスク市は武市と記述されることもあります。
 
黒河はこの地方を訪問したジャーナリストが写真を多く撮っており、満州の写真集に掲載されたこともあります(各地域の市立図書館や県立図書館においているところがあります)。国境の町といえば北西でソ連と国境を接する満洲里の街並みに、やや似た印象のある街並みでした。
黒河は、黒河事件の悲劇があった場所でもあります。

黒龍江について
満州国時代に撮影された魚の写真です。
いずれも黒龍江でとれたもので、1メートルに近いおおきなものです。画面右端に防寒服の男性の上半身が写っていますので、比較してみてください。
またいずれの魚も壁に立てかけてあります。寒い満州では冬場も魚はかちんかちんに氷ってしまい、ご覧のとおり、しゃんと立ってることができます。
当時、5メートルを超えるチョウザメが獲れたこともあったとか。今日では川の汚染が進んでしまっているとのこと、こうした豊富な魚類が今も居るのかは、一寸心配です。

黒龍江省 農豪の家
黒龍江省における農村の豪家である。土壁とそれに付随する土塁。
これらは皆、馬賊の略奪から遁れるためのものである。
向こうに見えるタンクのようなものは馬賊の来襲を観る望楼で、珍しい写真の一つ。

家の屋根が左端に見えます。それ以外は要塞の様です。
土塁は相当な高さと広がりがある様です。また土塁の手前の四角いところは上の方に四角く小さな穴が開いており、銃眼と思われます。また、画面右にみえます望楼も随分と背の高いものの様です(4階くらいの高さ?)。
清国崩壊後の軍閥の闘争の時代、治安は乱れて匪賊が横行しました。また長く厳しい冬のため、もともと略奪というのは常習化していた地域でもあります。こうした防御陣地の様な家が出来上がった背景でもあります。


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