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風俗風習 その9

満州の女性 その1



ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
風俗風習としまして、女性の姿を満州国設立より前から、そして設立後を追ってみます。

満洲の上流婦人 纏足
ではまず満州での奇妙な風習でもある纏足について挙げてまいります。
『満洲の上流婦人 
満洲の封行くな家庭の婦人である。満洲婦人として典型的な容姿をしているが、働くということを少しもせぬ彼女らは、見るものに晴れやかな感を与える。
漆黒名神の上に花飾りの頭巾をかぶせ、小さな足と支那服をまとった姿は艶で、デリケートな美に富む』
満州の権力者(旗人)の写真です。旗人は、清の時代の支配階級です。満州国設立後も、大きな邸宅に住んでいた様ですが、どんどん没落していった様です。特徴ある服装は旗袍(チーパオ)です(撮影時期は不明ですが1920年末から30年初頭と判断されます)。

さて足元をご注目、足首から先が不自然に短く、また靴が厚底になっています。
これは纏足です。

先ほどと同じく満州の盛装の旗袍で、大きな髪飾りが見えます。
この絵も足が尖って描かれており、纏足の様です。

満洲の上流婦人
『婦人は幼少より乗り物の嗜あり。自家用の愛驢馬にて知人宅訪問』
画像が小さく判別しにくいのですが、足の部分の長さが短めで先がとがっており、纏足と思われます。
服装も先ほどと同じく旗袍です。
ちなみにこの旗袍は細かな刺繍があるのが特徴ですが、実は身分や地位で細かくその柄が分けられており、個人の好みとは関係なかったようです。
画像は、同じく上流階級の婦人です。従者をしたがえており相当な富豪であるものと想像します。
纏足になっている足先は、普通の足より小さく見えます。また馬具に足を置いているので判りにくいのですが、靴には厚みがあります。これは折り曲げた足が厚みを持っていることの特徴といえます。
撮影箇所は不明で、満州ではなく中国(当時の中華民国)かもしれませんが、纏足例として紹介致します。

纏足についての説明資料で最も簡潔なのは、ウィッキペディアでしょう。
要は、纏足とは足を布でぐるぐるに巻き込み、足を折りたたむ形で小さいままにしてしまうことです。小さい足はお洒落であり、美しさを競うため、足を小さくしていたのです。
女の子が四〜五歳となると、さっそくこれにとりかかり、結果、足の指を折り曲げ、足の甲が「ヘ」の字に折れ曲がります。靴を履くと大変小さい足に見えるわけです。これは単なる嗜好、つまり美人に見せるためと理解されます。ウィッキペディアには図解もあり、骨まで曲がっている様子がわかります。
さて、満州の地域、特に清朝では再三に禁止令を出していますが徹底しませんでした。清朝崩壊後、中華民国でもあらためて禁止令が出ています。

纏足
さて、こちらは纏足の裸足の状態です。
足の指にご注目、親指以外が見えません。親指以外の指が足の下のほうへ折り曲げられているわけです。

纏足
足をクローズアップ、
靴を履いていると、ただの小さい足ですが、こうしてみますと足の形が変わってしまっていることがわかります。

先ほどのものは足の甲からみたものでしたので、いくつか当HP管理人のイラストにて補ってまいります。
画像はつま先方向から見ており、まず上側、丸く大きいのが親指、そして親指以外の足がぐるりと土踏まずの方へ曲げられています。

横から見たところです。
小さなチャイナ靴に足が入っています。

靴を脱ぐとこうなっています。
足の指が足の下に回りこんでいることが判ります。
かかとと足の親指方向は"へ"の字に曲げられています。

纏足の歴史
纏足はかなりの流行があり、清の時代の満州風習は、まず男は辮髪があたりまえ、同時に女は纏足があたりまえだったわけです。
ただ辮髪とは違い、纏足は満州人の風習ではなく、もともと漢民族の風習でした。満洲方面への漢民族侵入に伴い定着しています。また漢民族の風習といっても、もともとは南方のもので、これが始まった時期はよくわかっていません。
中国の昔話での美人像は白肌い肌、美しい眼、黒髪、そして錐のように小さな足だったそうです。また北宋(960年 - 1127年)のころから纏足は美しいとみなされていて、詩にうたわれていたとする資料もありあす。
また殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の皇帝、帝辛(紂王)に寵愛された妲己(だっき)が由来という興味深い説もあります。妲己は実は狐の化身で、だから足が小さいという伝説によるものです。さらにこの頃に狐をトーテムとして崇拝していた、狐の精霊を崇めていたとも言われ、これが纏足の由来というものです。

さて、こちら。この椅子みたいなものですが、一見、なにかおそろしげな拷問道具の様に見えます。実はこれが纏足の為に布で足を縛るときに使う台です(資料を基に、管理人にてスケッチ)。
使用方法はよくわかりませんが、足を台に置いて、ハンドルで布を引っ張りながら巻くものの様です。
纏足が出来上がった人は、日常、足を洗った後に布で巻く際には手で巻いているようで、そうだとするとハンドルつきのこれは纏足を形成する際に使用されるものかもしれません。つまり子供の足を強く縛るのに使ったかもしれず、考えようによっては十分に拷問道具です。勿論、足が曲がるまでは大変な痛みを伴います。
また纏足を行うのもコツがあったようで、纏足を巻く技術者もおり、お金持ちのお屋敷を回って、纏足を巻いていた様です。

ちなみに纏足は形を維持するため、大人になってからも布を毎日巻きなおして締め上げます。これを辞めてしまうと形がだんだん緩んできます。
ただ緩むといっても元の足の形には戻りません。成長期から縛り上げているために、骨まで曲がっている為です。

足が小さいと美しいということについて、あたかも野蛮だという記述の資料は少なくありません。確かに年端もいかない女児の体の一部を故意に折り曲げるという行為は近代的とは言い難いと考えます。ただ美意識というのは、どうしても流行に興味の無い者から見れば不可解さがあり、当時は野蛮だとは考えられていなかった様です。
また足が小さいと美しいというのは実は欧州にもあり、今日では童話のシンデレラ(灰かぶり姫)にもそれが見られます。
シンデレラは細部の異なるいくつものあらすじがありますが、概ねシンデレラに一目ぼれした王子が、シンデレラの残した靴が入る女性を探し、最終的に靴が手がかりでシンデレラは見つかり、王子と再会して結ばれるというものです。この靴はガラス製の靴がポピュラーですが、原作に近いものでは兎の皮で出来た靴であったりなど、いくつかのパターンがみられます。が、全てに共通しているのは王子がシンデレラを、その容姿や特徴ではなく、靴で探していることです。
つまりシンデレラは特異的に足が小さかったわけです。ちなみにシンデレラを苛めた姉はその小さな靴を履くために指やかかとを切断するなどの涙ぐましい努力をしますが上手くいきません(あらすじによっては失血死や、ばれて処刑されたりする場合もあります)。意地悪な姉達だけでなく誰もこの靴が入らないことから、シンデレラの足の小ささが物語の鍵であり、王子が手がかりとしたのもこの足の小ささであることがわかります。西洋は、足の小ささを美とする感覚があったことがわかります。

満州風俗・満州の華
当時の絵葉書ブロマイドでしょうか、いかにもスタジオなところでの撮影です。この女性も纏足です。

纏足は満州国設立の頃には廃れています。
かつては纏足で足が小さい(つまり美しい)女性で無いと結婚できないといわれたほど流行ったとされる纏足ですが、地域によって異なり、余りはやっていない地域もあった様です。
また19世紀末には既に女性たちも纏足をやめようという機運があったそうですので、満州国設立時には、確かに減っていると考えられます(『纏足をほどいた女たち』夏暁虹著朝日新聞社刊1998年から)。

また若い人から順次辞めていったと考えられます。ですので、纏足をした人が突然居なく無くなったわけではありません。順次、減っていたものと考えられます。
ちなみに清の時代など特に満州ではお嫁さんはお金で買う、つまり銀をやりとりしていました。ですので、銀をより多く対価として提供される美人であること、つまり纏足であることで価値があがるという考え方もあったかもしれません。
昔の女性は、天足(纏足をしていない生の足、大脚とも言う)は恥ずかしい、纏足でないとろくに嫁のもらい手もない、と思っていました。

満州風俗・満州の華
先ほどと同じくスタジオ撮影で、足元はご覧の通り、纏足です。

さて、纏足が無くなったのは、満州国設立よりもさかのぼります。前述しましたが、清朝も中華民国も禁止令が出ています。この禁止令の詳細は把握できていませんが、恐らくは新たに纏足をすることの禁止と思われます。というのも纏足は失敗する例があり、それは壊死を起こすこともあったからです。一方で、既に纏足が出来ている人については特に対象にしていないのではないでしょうか。と申しますのも、後々の満州国設立後も、お年を召した人に限りますが、纏足をみることができるからです。

現在、当HP管理人が把握している範囲では、満州国における纏足の禁止令については資料が見当たりません。また満州国が設立された頃、すっかり廃れたとする資料は複数あります。つまり纏足は満州国政府が特に禁止しなくても、その頃には自主的に辞めていて、結果、廃れたものといえます(台湾では台湾総督府が追放運動を行っています)。
これには一般に、外国人が往来するようになり、この纏足が奇習として見られた事が要因として挙げられます。
また知識人も海外でこうした風習が無いことを知ってか、積極的に辞めようと努めた様です。
戦後、政治家になった方(張君励氏)の逸話があります。彼は母親に妹(15歳)の纏足を辞めさせています。張氏は当時、中学校の先生をするなどの知識人階級で、妹の纏足を辞めせるにあたり、時代遅れであること、もしも纏足でないことで結婚できないというのであれば、その場合には自分が面倒を見るということを主張しています。
纏足が廃れて無くなった。このことは、その頃から西洋人を初め外国の人が増え、こうした行為が野蛮に見えてしまうという発想(思想)が入ったことも大きかったとも考えます(実際、彼らにとって外国人である日本人にも驚きをもってこれを見ていますし)。またさらに以下に紹介しますが、纏足が廃れたあと、満州の女性はファッションの文化を大いに消費しています。纏足は単に廃れたのではなく、さらに有意義な(西洋の発想からみて野蛮に見られることもなく、体を痛めつけることも無い)ファッションを満州の女性が得ることが出来たから、と考えています。

当HPでの纏足についての記述をまとめるにあたり、日本で見かけます纏足についての資料とは、やや違う印象での内容にしております。
今日の日本での纏足については概ね、女性史(女性解放史)の視点、社会学の視点から書かれております。また、纏足イコール女性が不自由、纏足が無いイコール女性が開放というストーリーであり、特に最近の図書に多くみられます。

一方、戦前図書では、纏足について、異文化に接した印象と、そうまでして身を装うのかという驚きで記載されています。
さらに当時、上手い言葉は見つかりませんが、纏足は身を装う行為の一種(ファッションの一種)、ただし大変特異なものと理解されている印象があります。

当HP、特に満州写真館は管理人が見つけた戦前の資料を掲載しており、またご覧頂く皆様に自由に考察し感じていただくため、それら戦前の図書の引用に留めております。記述も、やはり戦前ベースとなります。
よって纏足の記述も戦前図書をベースにファッションの一貫とした印象の記載としておりますので、宜しくご理解ください。

では、今日の書籍などで見かけます纏足に関する記述について、いくつか拾ってみます。
まず纏足ははお金持ちに妾(めかけ)として買われる商品としての価値を求めたもの、という記述をよく見かけます。
確かにこの時代、そうした側面はあったかと思います。
ただ、この記述には疑問があります。後に紹介します写真でもお分かりいただける通り、纏足イコール妾ではありません。一般にも広まっていたものです。また見た目もお金持ちでもない、普通の庶民の妻が纏足であり、お年を召した方が纏足を続けている例もあります。つまり妾といった隷属する女性にだけに纏足の例があるわけではありません。

また纏足について、隷属させた女性を逃げ出さないようにするために纏足を施したと記述した、最近の資料もあります。
しかし、纏足は子供のときから施すもので、隷属させるためにあとから纏足にするものではありません。
また纏足は逃げ出せないほど不自由なものではなく、誤解と思われます。無論、纏足特有の歩き方になり、通常の足に比べれば不自由ではありますが、後に紹介します写真でもわかりますとおり、普通に街中を歩いています。
女性を隷属させ逃げ出さない方法として、中国には盲妹とよばれるものがあり、そちらと纏足とを混同したものと思われます(盲妹とは故意に視力を奪うもので、またそれは反抗する意思も奪うため残酷な方法で行われます/詳細の記述はご容赦ください)。

さらに、良く見かけます記述から。
纏足が今日廃れていることについて、戦後に中国で大々的に行われた共産・社会革命の理解の一貫として理解している記述がみられます。つまり人々が共産革命で開放されたことと、纏足という古い習慣から開放されたことを重ねたのでしょう。
しかし、纏足が廃れはじめるのは、戦後の共産革命よりも前、さらに満州国が設立するよりも以前のことです。前述の通り、実際には19世紀から廃れ始めており、この考え方はタイミング的に合いません。

さて"実は青江女史も纏足をしていた、足の形にこれを解いた特徴がみられる"とする記述を資料(書籍やサイト)で稀に見かけます。もっともこれらは写真や具体的な説明ではなく、そう聞いたというものでした。恐らく先の革命と開放と、古い因習からの開放とを重ねてしまったことでの混同の可能性もあり、これについては本稿では未確認の参考情報と致します(極端な言い方になりますが、前述の通りファッションである側面を考慮すれば、青江女史に纏足云々とうのは、日本の昭和の社会革命の顔役でもある土井たか子女史に整形疑惑だ、といわんばかりかもしれませんね)。

『民国革命以前には四百余州の主としてときめいていた満州族も革命によって今は威勢も地に落ちて、その影ははるかに満州の一部にとどまる。その婦人風俗も、漢民族と違って長衣に特異な髪の結び方、纏足の足も見る。』
なかなか写真で見ることのない、満州族特有の服装です。また、かつての支配層(上流階級・八旗)の満州国当時の姿と思われます。服装・髪型が凝ったものにみえます。
左右の婦人はやや歳を召しておられるようにみえます。真中でしゃがんでいる方は若く見え、髪は特徴ある輪状の編み上げをしています。またキャプションには纏足とあります。この角度からでは判断がし辛いのですが、確かに小さい足に見えます。

一寸、脱線しまして、似た服装と髪型の写真を。
日向ぼっこの老夫婦で、先ほどの髪の形状が良くわかります。これもかつての上階級と思われます。ちなみに大きな肩当布(パッチ)が充て荒れており、確かに威勢も地に落ちて、といった印象を受けます。

冬を迎える
昭和3年の撮影です。
地味な服装で、やや寒そうです。
大きな荷物を持っています。背景からみて都市部の撮影ではないかもしれません。
みたところ若い女性ですし、農村部では纏足は残っていたのかもしれません。
歩きにくいのは確かですが、歩けないわけではありません。こちらの写真でも大きな荷物を運んでいる様です。

足元をクローズアップしてみます。

満州では靴のファッションが流行したようです。
『美人の主要な要素として足の美しさを誇る満州旗人(※)は、また極端に履物に浮身をやつす。
五彩の房でかざられたものなど、明々好みを発揮し、流行の先端を競う。
こうした固有の風俗も、次第に洗練されてゆくようである。』
さて旗人とありますが、足元だけですので上流階級なのかどうかは判別できませんし、ズラリと並んでいるなど、どういったシーンでの撮影なのか不明です。
靴に贅沢をする様はパールバックの小説「大地」にも出てきますが、とにかくそのこだわりは相当なものです。また写っている方はすべて足が小さめに見えますので、纏足であろうと思われますが、全員が纏足かどうかは判別しづらいところです(纏足の場合、足の先端は尖って見え、また足は折り曲げた分だけ厚みを持って見えますが、さほど尖っているようにも見えず、また厚みがある様にも見えません)。
靴はできるだけ足を小さく見せる様にデザインされているようにみえます。

駅前の準備
『今しも列車が到着して旅行者の群がプラツトホームから外へ流れ出た。駅前に一先づ荷物を下した一家族が銘々の持役をきめている。』

鉄道の発展に伴い、満州では旅行が流行り、また中華民国へも鉄道で行き来していました。
また不思議なことに大荷物を抱えての旅行を好んだ様です。日本では出来るだけ荷物にならない様に身軽にしたがりますが、こちらではその逆だったようです。
画面左側、背中を向けている少女の着物は模様が綺麗に並んだなかなか可愛らしいです。
右側、幼児も見え、可愛らしい帽子を被っています。
さて、この中で幼児の後ろ(向かって右隣)の人物だけが纏足です。
少女も、画面中央の人物も(恐らく女性で、母親でしょうか)、普通の足です。
纏足の女性はやや年を召しているように見え、もしかすると幼児の祖母かもしれません。若い世代に纏足がなく、老婆達は纏足を維持していることが見て取れます。

流れ行く民
『世帯道具を振り分けて、南へ行こか北にしよか
 流れさすらう苦力の群れ』

こちらは同じく駅前ですが、どうも移民の様です。
苦力は、農閑期の単身赴任だけでなく、家族一緒に職を探して歩く例もありました。
子供連れで、必要最小限の家財道具をもっての移動の様です。
さて、こちらは家族のようで左端のお年を召した婦人のみ纏足です。右側の女性は普通の足の様で、若い世代で纏足が廃れている様子がみてとれます。

『現今、纏足の風習はほとんど除かれたが、田舎では稀に見受けられ、これらの婦人の児童をいつくしむ姿は、何故か特に細やかな母性愛を感じる。』

児童の体を拭いているところです。この女性も纏足で、足は小さく、先がとがっています。
家の前でしょうか、家は煩雑で、テーブルの上にはお皿と食べ物が無造作に置かれています。
左の母親は纏足で、大変小さな足で、先もとがった仕上がりになっています。
田舎のほうでは、まだ纏足が見られた、という記事は満州国があった当時の書籍にも記述がありますが、ある程度、お年を召した人に施されている様です。
みるからに田舎の様な女性です。撮影者は、子供を丁寧に拭いているさまから、細やかな愛情を感じているようです。

満州日日新聞の記事から。
『建国十年間の時代の動きは纏足の娘さんを、健脚を誇る近代的女性に変化した、
路傍に腰をかけて客を待つ纏足の枕売りの娘さんは今日の満洲では最早や見られぬ懐古的風景であるが、』
満州国設立時には、すくなくとも若人に纏足は居ない様です。

身近にあった纏足
当時、満州国に住まわれていた邦人も纏足を見かけていました。
当時を知る貴重な証言ですので、こちらに引用いたします。

『子どもの目には詳しいことは判りませんでしたが、痛々しくは見えました。なんせ走れないのですから、金持ちの"たいたい"なら座っていて用が足せるでしょうが、働かなくてはならない女には、迷惑な慣習でしたね。』

『私も昭和12〜14年頃、我が家に毎週、通って来た「洗濯オバさん」が纏足でした。
私も子供心に母より上のオバさんの足に興味を持った覚えがあります。
母に聞いたら、満人は、お嫁に行くと遠くに逃げられない為と聞かされ信じておりました。
洗濯オバさんですから・・我が家のお風呂場足の布を濡らさぬ様に取り素足でおりました。 
その素足を・・子供心に見た覚えがあります。』

これらから、満州国が設立した頃には、纏足をしていた人は年をとっていたことがわかります。
また身近に居て、特にお金持ちでもない庶民であったことが判ります。

田舎風の子供連れ夫婦です。
やや身なりは良いようです。
妻、そして籠に入れた幼児を驢馬(?)に乗せています。

この写真は、下半分、驢馬の胴体あたりから下に修正がなされていて、縁取りがなされています。恐らく光の加減で、綺麗に写っていなかったのでしょう。
また驢馬に跨る女性は纏足で、先がとがっています。

先日、中国系ニュースサイト・サーチナで、高齢の女性が、今日も纏足をしていることが紹介されていました。
中国南部の福建省福州市連江の辺鄙な村で、取材時点で80歳を超えている、老婆は纏足の足の布を自分で巻き足の形を維持している、1930年代の5歳の時から纏足を初めた、少女時代に女の子同士で足の大きさを競い合ったと、記述があります。そして今も、日々、畑仕事をし、水を汲んで、快活に生活されている様でした。既に老婆のご主人は亡くなっておりますし、ご高齢ですので、女性が嫁入りするための価値というのではなく、勿論、妾に貰われるという価値でもありません。ごく自然に、身を装うという行為となっている様です。
纏足は今日の目でみれば奇習かもしれません。
こうしてみますと、特異ではありますが、一種のファッションと考えることも出来ます。女性が年頃になって、自分も纏足をして欲しかったと母親をなじる話もあります。
纏足という体の形を故意に変える行為において(かなり無理があるかもしれませんが)、これは当時のファッション(一種の美容整形)という考え方は如何でしょうか。
時代が違う、女性の意識も違うので、例えとして挙げるのは適当ではないとは思いますが、今日も美の為に故意に体の外観を変えるという行為は行われています(今日では医術を用いますが/先日も、母親が小学高学年の女児を美容整形外科での手術により顔や体を変えようとした、あるいは小学生女児の胸を無理やり豊かなものにした手術のために、乳腺が内側から圧迫されて壊死していた話が報道されていました)。
確かに纏足は古い時代の奇習なのかもしれません。そして今日の日本でこれを美しいとは思わな野も当然かもしれません。が、今日も、あまり纏足を笑える状態だ、とは言えないかもしれません。

纏足については、ファッションの側面があるという解釈もできると前述しました。
今日のファッションについて、これはまず女性自身が自分を装うという行為でもあります。
当然、ファッションという消費をするという側面があります。そして女性が自身を装うことにまず自分が充足感を得るという行為でもあり、必ずしも男性の目線があるとは言えない様です。
『私達女性の可愛いは、そもそも男性のものではない、お洒落な女友達の目は意識するけれども、ほぼ自己満足。』
『自分が可愛いと思うから着る、あえて言うなら美しき自己満足。』
つまりファッションは女子が自分のために消費するわけです。
これは今日の女性の話です。ファッションという商品を消費する際の自意識です。
では大昔の纏足はどうでしょう。先に紹介しましたサーチナ記事も、自らを装いたいという行為にも見えます。無論、今日と違い、ファッションという商品を次々消費するという行為はありませんが、纏足も、今日のファッションとは全く別物と考えなくても良い、とも思います。

『肥大にして悠々、
それは上流家庭の主人公の容姿である。
一家の団欒は夾竹桃の蔭に睦まじい。』

右下に幼児が、それを見下ろしているのは母親の様です。
母親の足元は、これも纏足ではありません。靴の背の部分に白い三角形のデザインがあり、纏足っぽく見える様につくってあります。
左2名がおじいちゃんおばあちゃんといったところでしょうか。二人ともふくよかで、豊かさを享受しているふうに見えます。

纏足について、一寸、蛇足を。
話の下手なやつのだらだら続くくだらない話をけなすとき、おばさんの纏足布みたいだ、という言い方が中国語にあります。
そのこころは、長くて臭い(又長又臭)。

以後にも、満州関連の女性の画像を紹介いたします。
纏足というのをしなくてもファッションを嗜んでいる姿が撮影されております。これらに纏足の人物はありません。同時に国が発展し経済も発展する中、ファッションとその消費文化も豊かに育ってきたとも感じます。外国人に奇異に見られ、且つ、体を痛めつける纏足という風習に縛られずに済むと感じているようにも思っています。


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