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農業 その6





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
こちらでは、満州の農業を代表する作物である大豆を再度取り上げてまいります。
施肥など農業技術の導入、満鉄農事試験所による品種改良により、飛躍的な増産となりました。
連作により大豆に病害や虫害が生じることがありました。このため、何年かに一度、畑を休める、あるいは他の作物を植えていました。
昭和8年の書籍にも
『大豆は連作を忌むを以って三年及至五年の輪作を行うが、その整地は丁寧なるを要しない。』
と記述があります。よって連作さえ気をつければ、さほど技術も要らず栽培できたことがわかります。

生産のうち、油や油粕の加工品を含めて9割が輸出されます。
こちらの画像は満州の畑の写真で、左側が大豆、右が高粱です(高粱は未だ、穂がでていないようです。)

大豆 品種改良 と 従来品
満洲の大豆が世界的な躍進を遂げたのは、前述の通り品種改良のお陰です。
左が満州国で広められた改良品種です。やや背が低い一方で葉は広く、大豆の鞘が沢山ぶら下がっています。
一株あたり、沢山の大豆が得られることが判ります。

満州の大豆は、満州国が設立する前から、その躍進は始まっていました。
『1873年のウィーンにおける万国博覧会に日本から大豆を出品、さらに1908年に三井物産が商品見本を英国に輸出し、満州合図の価値が広く認められ、満州大豆が世界的商品としての一歩を歩みだした』
昭和元年(1925年)には大豆は高粱よりはるかに少ない生産量であった(四百万トン程度)でしたが、昭和7年には高粱を凌ぎ五百万トンを超えています。

満州大豆生産状況図
大豆は満洲の全土で栽培されましたが、平野部で多く、北東、北西の冬に寒い地域、朝鮮半島側の標高の高い地域では少ない様です。
こちらの図は、満洲の地域別(一つの県あたりの採取量)を色分けしたものです。
赤が一つの県あたり二十万石以上、灰色が十万石以上、黄色が十万石以下です。左上のホロンバイルは極めて大豆の生産が少ないことがわかります。ちなみに地図の左下の熱河省はデーターが無い為に白いままとなっております。

たねまき
種まきの様子です。
家畜の引く農具は興味深い形をしています。畝をつくっているのでしょう。

さて大豆の利用方法で代表的なものは、大豆油です。
ただ大豆から油を絞り、油を食用や灯用に、搾りかすを家畜の飼料として活用する様になるのは、実は近代で、19世紀末から20世紀初頭のころでした。
ただ有用な油であった為、様々な利用方法が開発されました。
昭和のはじめ頃には車軸の油としての利用、さらにペンキにも使われるようになったなど、実に幅広く活用されました。
特に大豆油にあるレシチンは戦前から知られており、この有効活用に関心がたかまっていました。

耕作
こちらは耕作を写したものです(この写真は、別のキャプションが付けられている例がありますが、一応、大豆として紹介いたします)。

大豆油は、機械的に絞られていました。大豆を蒸熱し、螺旋式の油締機にて絞り上げる方法です。
一方で、満州国では科学的な方法としてベンゾール液を用いて豆油を抽出させる方法が開発されました。
大連とハルピンの二箇所のみでしか展開しておらず広く行われたものではありませんが、化学的な方法が採用されるようになったわけです。原料である大豆の中に含まれている油を、溶剤にベンゾールを用いて溶かし、取り出す(抽出)するわけです。

この方法は、油を効率よく得られたのではないかと考えます。
興味深いこととして、当時の書籍に、ベンゾール抽出は、豆粕の肥料効果も高いとあります。
豆粕はご存知の通り、豆の搾りかすで、試料、そして肥料にと活用されます。肥料にするということは、豆粕が発酵し分解され植物の栄養としてこなれている必要があります。一方で油分の分解は容易ではありません。これは想像ですが、ベンゾール抽出により、脂分が豆から綺麗に取り去られ、豆粕の発酵がよりよく出来るのではないでしょうか。

くさとり
大豆が葉を伸ばしはじめました。
畑では草取り作業が行われます。

刈り入れ
刈り入れ風景です。
白黒写真の為、色合いが良くわかりませんが、恐らく十分に枯れてから行われているものと思われます。

馬車での回収風景です。

脱穀風景
大豆の脱穀です。
後ろには山の様に刈り取られた大豆が積み上げられています。
手前でそれらが広げられている様です。
その上を三頭の馬それぞれにロールを引かせて、広げた大豆の上を挽いています。
大豆の脱穀三頭の馬それぞれロールを一つづつ引いて広げた大豆の上をぐるぐる回っています。

安達 陸路運搬
大豆の運搬風景。
安達で撮影された、陸路を運ばれる大豆です。広々とした何も無い平原を、隊列を組んで運搬しています。馬車一つ一つにも多くの大豆が載せられています。

安達
別途、地方都市でも紹介しました安達の場所を、先に紹介しました満州大豆生産状況図をクローズアップしてみてみます。
黄色ですので、赤の特に生産量の多い地域ではないことがわかります。

山積みされた大豆の一部分を積んで
列車は遠く走っていく
大豆の保管風景です。
左側にレールが見えます。冬場の撮影か、白っぽく雪が降っているさまです。
撮影者は貨物ホームを見渡す高い位置から撮影しており、どうやら画面右下に見える高い大豆の袋の山の上に登っているようです。目線は、その向こうに見える倉庫の屋根と同じ高さで、相当な量の大豆が積み上げられていることがわかります。
『山積みされた大豆の一部分を積んで列車は、遠く走っていく。』

新京駅大豆の積み下ろし
首都新京駅での大豆運搬風景です。貨車に積み込まれているところです。
撮影者は高いところから見下ろして撮影しており、その為、長い貨車と満載の大豆を見渡すことが出来ます。

大連駅構内
いよいよ港町、大連まで運ばれてきました。
見渡す限りの大豆の山です。
画面左から右へ斜めに、四角い板の貨車が見えます。荷をおろしたところでしょうか。

麻袋入り大豆を大連埠頭へ
埠頭の引込み線での撮影で、倉庫へ下されているところです。
この貨車は平たい台に大豆の袋を載せており荷崩れを防ぐついたてなどは見えません。ゆっくりと、引込み線内の短い距離を移動するだけだからでしょう。

いよいよ船へ。
ここではクレーンが活躍していますが、運搬は人の手によるところが大きい様です。

大豆の利用方法 昭和7年
さて大豆は満州全体で、豆油に五千万斤が、豆粕は四十六斤半のものを五千万枚が生産されました(昭和7年資料)。
豆粕は主に日本へ輸出、肥料及び家畜の飼料に。
豆油は満州国内で食料として消費されるほか、欧州諸国へ輸出、人造バターと量、石鹸などの原料となります。
『大豆油は直接食料、灯火、減磨油として使用されるほか、油脂工業原料として防水剤タンタルス、塗料ペイント、ニス、李のりゅー無、石鹸、印刷用インキ、ウール油、石油代用品、さらに加工して精製油(テンプラ油、サラダ油)硬貨油(牛酪及豚油代用品)などになり、其他ゴム代用品ファクチスともなる。
大豆粕は直接、飼料、あるいは昼用とするほか、蛋白工業原料として接着剤(ベニヤ板、プロペラ用)、蛋白薬品、味の素、ソーメン原料、薬用タンナルピンなどを生じ、さらに加工して食料ともなる。』

昭和7年の資料で、当時、大豆にどんな利用法があるかを示したものです。
科学の恩恵が大豆のニーズを高め、大豆の生産を後押ししたとも考えます。


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