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地方都市その7





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
満州の地方都市のその7回目として、奉天から新京、さらに奉天から吉林方面へ繋がる路線にそった町を紹介してまいります。

では、左下の奉天から上、新京方向へ、
開原から紹介します。

開原
付近の農作物の集散場として栄えた町です。
満州国の代表産物である大豆が、ご覧の様に、山の様に詰まれています。
画面左上、運び込まれた大豆を建物の様に積み上げるための足場が見えます。これら大量の物流も、実は人力によるものであることがわかります。

開原市街図
開原の地図です。
地図左上あたりに"至城内"と記載があります。
開原には開原城があり、切り立った城壁を持つ大規模な城壁がありました。他の都市同様、古くからある城塞都市が新市街に隣接していることがわかります。

開原地方事務所及び公会堂
開原は、農業の発展と交通の発展に伴って発展した典型的な満州の都市といえます。
ここは清河の流域に沿った町で、明治時代初頭には、付近に僅かの農家があっただけ、広い草原と沼地だけでした。が、明治四十三年に満洲特産物の中央市場として計画が立てられました。
奉天の北90キロにある開原は、この地域の農業穀物の集積所です。
奉天〜新京を結ぶ鉄道の大動脈の途中に位置し、農産はこの駅から鉄道で運びだされます。
開原は奉天の地元商業者だけでなく、日本の商社や製粉関係の工場も支所や出張所を設置していました。
もっとも、当初は地元民による無規定な先物取引が行われるなどして取引の障害となったため、大正時代には取引所を設置し、各業者とも協議の上、商取引上の各種提携を行ったそうです。結果、さらに開原での取引の発展となりました。
こちらの立派な建物も大正時代に建てられたものです。
また、この大正時代にはこの発展を反映してか、ここ開原には、満鉄病院のひとつである鉄嶺病院の分院が作られました。

開原
開原は、前述の通り、農産において重要な町でした。
こちら、立派な駅舎が造られており、経済の発展ぶりを感じます。

ちなみに満鉄沿線の各駅は、旅行者用の記念スタンプをもっており、こちら開原駅のスタンプは、農作物を山の様に積んだ牛車と鞭で急き立てる農民の構図になっています。

四平街
四平街駅構内における大豆の山、周辺の農産物集散地である四平街ならではの風景です。
四平街は奉天〜新京の間にある鉄道の大動脈の途中にあり、農業の要所という点で開原と似ています。
見渡す限りの大豆の袋が見えます。

四平街
右側、立派な駅舎が見えます。遠くに給水塔が見えます。
橋上のものが列車を跨いでいますが、これはホームを跨いで貨物を渡すクレーンでしょうか。
四平街は元々、長春から南に伸びる鉄道の5番目の駅であったことから五站と称されました。ここは哈大線、平斉線、四梅線が交差した交通の要所でした。これらが四方へ広がることから四平街との名がついています。
ちなみに、四平街と呼ばれる街は満州にこれ以外にもありますし、また奉天にも四平街という地区があり、割と使われやすい地名なのでしょう。

四平駅
立派な駅舎です。ずらりと馬車が控えています。
四平には、公主嶺病院の分院がありました。

寛城子
『新京から幾何もない寛城子は、東支南部線の終端駅、ここには露人の生活を見る。』
寛城子は新京郊外の町です。新京とその飛行場との間に位置します。
またキャプションには露人とあるとおりロシア人の町です。
新京の西隣にある町ですが、先に示しました地図には書き込まれておらず、また詳細な地図でも省略されていることがおおい小さな町で、また新京と隣接しているためよほど詳細地図でないかぎり書き込まれていない様です。
ちなみに寛城子駅は古くからあり、帝政ロシアにより作られています(明治時代)。ウィキペディアにも記述があり
『1860年、沿海州がロシア帝国に割譲され中東鉄道が建設されると、その支線がハルビンより大連に敷設された際、長春西北の二道溝に鉄道駅(寛城子駅)が設置された。鉄道の開通により多くのロシア人が寛城に移住し教会や鉄道倶楽部を建築し、ロシア人地区が形成され寛城子と称されるようになった』
とあります。
また『長春(新京)からハルピンへ向かう第一の駅、寛城子駅』というキャプションの着いた絵葉書もあります(未入手です)。
長春からハルピンへ向かう際、最初の駅はここ寛城子の駅でした。が、満州国設立後に線路が敷きなおされ、寛城子駅は通過しなくなっています(京浜線)。この時、寛城子を通る線路が、最初に記述しました東支南部線でしょう。

写真を見ると、平和で静かな町に見えます。また家は西洋風で、かなり大きい建物です。
別途、満州写真館の「ロシア人」のページでも紹介しておりますとおり、満州にはロシア人が少なからず住んでおりました。また、信仰を守り、大地の恵みとともに静かに暮らしていたとのことです。

満州のロシア人については、これをまとめたウェブ頁がありますので、ご紹介いたします。
Tomo様の「 満州のロシア人村 」です。←クリック願います。

では、今度は奉天から吉林方面へ進んでみます。

荒廃せる撫順城門
『荒廃して見る影も無いこの城門も撫順城の歴史を物語るには絶好の記念物である。
この地は撫順関の名によって奉天を守る要塞の地であった。
されば清朝の明を攻めるや先ず撫順を陥れて奉天城を屠り明軍を満州の地より駆逐した。
渾江の右岸、断崖の上に築かれた城氏で今日残る城門は
遥かに古い歴史を持ち北門山頂の白党は遼代に属す。』

大勢の人が行き来し、お店と思われますテントがいくつも見えます。
足元は舗装もなく、でこぼこで、轍も見えます。
沢山の人々の行き来がある活気のある様子が伺えます。

榮盤
『大豆、木炭、木材を満載して集まった馬車は
さらに雑貨を満載して、おのおのの田舎へ帰っていく。』
荷車には様々な品物が積まれているようです。
奥側に丸く湾曲した屋根が見え、これは人が乗るものでしょう。
馬車を連ね、何日もかけて駅のある町へ出てきて運んできたものを売り、品物を買ってまた何日もかけて帰っていくのでしょう。

榮盤
蘇子河をわたる風景です。
大豆、木炭、木材が積まれ、榮盤へと運ばれてきます。

清源
『奉天と朝陽鎮の中間に位置する。
この付近一帯の沃野に産する特産の集積地、町は日一日と栄えてゆく。地平線よりさえぎるもののなき眺望は、この駅の将来を物語るものだ。』
開原と同じく、農業の発展に伴い、その集散都市として発達した街ですが、未だ街の状況について情報を得ることができておりません。
写真を見る限り、特に都市として建築物が次々建っているというわけでもなさそうです。
手前、一見畑に見えますが、等間隔な畝の間は光を反射してか明るく写っており、水田の様です。

清源郊外
山を背景に、家畜に乗って川を渡る人が見えます。
もしかすると、先の水田はこの河の水を利用したものかもしれません。

山城鎮
『山城鎮は、別名北山城とも言う。
人口四万人で、瀋海沿線第一の商業都市である。』
左側、壁が見えますが、城壁の様に見えます。古くに造られた城塞都市が近代に発展を遂げつつあるある姿か、と想像します。

山城鎮
画面が暗くてよく写っていませんが、手前、左右に線路が走り、四角い貨車がいくつか停まっています。
貨物用のホームの様です。
遠くへ倉庫の様な建物が散らばって見えます。さらに遠方は霞んでいて見えませんが、町が広がっている様にも見えます。

西安の町
『人口四万人を産する相当な大都市で吉海厭戦屈指の盛大な物産取引市場である。』
歴史を感じさせる門が見えます。
人の行き来も多い様です。足元が白く明るいこと、左の屋根の上に白い部分がみえることから、冬場の雪の積もった状態と思われます。
地図では、海河(海蓮)から分かれて西安まで線路が伸びていますが、後にさらに延長され、四平街と繋がります(平梅線)。

海龍
『人口三万人を有す。
この地方、泥濘深く、冬期以外は馬車の運輸は困難な地帯である。』
撮影は冬で、人が行き来した跡も見えますが、このあたりは湿地帯の様です。
ロシアにも、泥炭地帯では、春先に大変な泥濘(でいねい)が生じ馬も馬車も近代的な車両も通行できなくなるという例があります。
その場合、春先に寒が戻って地面が凍ると交通が復旧します。また初夏には交通が再開します。
こちらの場合、キャプションそのままだとすると、冬に凍らない限り、陸の孤島に近い状態、ということでしょうか。
そのためか、見るからに貧しそうなふうにもみえてしまいます。
三万人もの人が住んでいる以上、実際にはもう少し交通の利便はあったと思われますし、鉄道も通っており、恵まれた状態ではあります。
もしかすると、ぬかるみの為に鉄道以外の交通はあまり有用でないということでしょう。
こちらの地図には海竜という記述ですが、これ以外の地図ではほぼ海龍(一部に海龍街)との記載があります。海竜は略字にしたのでしょうか。

吉海
吉海線(吉林ー海龍)を撮影したものです。

冬場でしょうか。ホームは真っ白です。直ぐ近くの駅舎も霞んでおり、手前の機関車から蒸気が吐き出されているのでしょう。

右に特徴ある駅舎が見えます。が、残念ながら駅名が不明です。判り次第、追記してまいります。

朝陽鎮の駅
『瀋海、吉海の鉄道接続地、人口二万人を産し、特産の取引盛んな町である。』

冬場の撮影で、画面中央の車両も雪がこびりついているようです。

ちなみに、先の地図では朝陽鎮は線路から外れて描かれていますが、実際には海竜から朝陽鎮を経て盤石へ線路は繋がっています(奉吉線)。

興京陵街
『興京は撫順の東方栄盤から渾河の上流を遡る小城市であるが、歴史の古い都である。
近年、この方面は水稲事業が盛大となり、興京県旺邉門、沙濱湯など水田は有名である。
この地方一帯は山岳丘陵多く、各河川の水量豊富であり、且つ広い平野も多いので、将来発達の余地がある。』

のんびりとした風景です。町の直ぐそばに川があるのは水の便を考えてでしょうか。ただ、あまり水は流れていないようです。
人が渡っている橋が見えますが、いかにもは粗末で、大きな荷車は渡れそうにありません。
町の入り口と思われます門は、満州風です。

興京
興京の位置を緑色で示しています。
栄盤からはるかに河をさかのぼった山間にあることがわかります。

樺甸
『樺甸は吉林の南方にある吉林省樺甸県の首府で、農産物の集散地として重要なる都市である。
粟、ひえ、大豆などの産額は相当多く、粟のごときは三十万石異常を算するという。収穫の秋が過ぎると、満州にはすぐ雪が訪れる。図は収穫物を荷積して樺甸の市場へむかうところ。』
橇(ソリ)がいくつも見えます。
松花江の上流にありますことから、ここに写る橇も、氷った川面をたどってきたのかもしれません。
ちなみに、最初に示しました地図では樺甸から四方へ線が描かれていますが、これは線路ではなく、道路を描いたものでしょう。

揮江の大豆運搬船
『通化平野一帯の特産大豆を下流に運ぶ二百石積の豆船は真白の帆をしっとりと川霧にうるおして、揮江の要、津四道街の川岸に荷役を了って、明日の出帆を待つ。』
通化という街はハルピンの北にもありますが、こちらの画像の町は朝鮮半島の国境に近いエリアの街です。
背景に高い山も見えますが、川の流れも緩やかで、また平野も広がっているようです。ここでは特徴ある形の船に大豆を載せて川を下っているようです。もしかすると、林業の木材が筏で河を下るのと同じ要領で、のんびりと川を下って、安東まで下っていくのかもしれません。

通化
『通化は揮江に臨む、有数な穀物集散の一市場で、人口4万、電信電話電燈もいきわたっている。輸入貨物年額七百万元を超える。』
倉庫と思われます長い建物がぎっしりと立ち並んでいます。
吉林に似た雰囲気を感じます。

通化の大豆船
『収穫の秋が過ぎ冬が来ると、付近の村落から牛ソリや馬車で通化へと
穀類運搬の列がつづく。
やがて春の解氷期がくると河岸の積み上げた産物は日一日とその数を減じていく。
暫くして河岸に並ぶ二百石罪の運搬線に積み込まれた大豆や粟は揮江を鴨緑江へ。
その多き日は一日六百艘もの船が下流、安東へと運んでいく。』
通化という街はハルピンの北にもありますが、こちらは朝鮮半島の国境に近いエリアの街です。

蛟河(こうが)
『敦図北廻線と鮮鉄図們東廻線とがあい連結されることによって奥満と日本海とを結ぶ、いわゆる吉会線が開通。
市街は蛟河駅南約八十メートルのところにある。人口七千人、農産物の集散多く、特に木材の市場として有名である。』

小さな町なのか、大きな地図では省略されてしまいます。
蛟は、日本語では「みずち」と読み、龍の一種です。画像右側に広い平原が広がっています。

蛟河(こうが)
蚊河は敦化と吉林のあいだにある町です。線路も通っています。
ちなみにこの地図で老爺嶺から二股に分かれているのは計画線路ですが、実際にはこの線路は敷かれて居ません。


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