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| 満州国政府は電源開発の為1934年に、それまでの電気会社を統合した会社を設立します。
これが満州電業株式会社、資本金は6000万円にもなります。
そして各地に火力発電、そして水力発電を開発しました。
電気事業を一つに集約統制した国策を代行する組織でもあります。
日本も、近代化において電気の恒久には力を注いでいました。
新しく出来た国である満州でも電力の安定供給には関心が高かったものと考えます。
電力の供給の為、各地に火力発電所、さらに大河にダムを建設します。
松花江の豊満ダムと発電所、さらに鴨緑江の巨大ダムである水豊ダムにも参加しています。
そのころは丁度、満州と朝鮮半島の国境線を形成する鴨緑江と図們江に14本もの大きな橋がかかるなど土木工事がブームでした(鴨緑江は西へ流れて海へ、図們江は逆に東へ)
ダムに橋にと、建設ラッシュであった頃です。 |
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| では昭和15〜16年頃と推定されます満州電業のパンフレットから、電力のグラフを紹介します。
大きな右肩上がりです。
左から昭和9年、12年、15年、さらに3年後予想(18年)が記されています(黒が像想電燈、赤が像想電力とあります / 想像ではなく像想とあり誤植?)。
残念なことにこのパンフレットでは縦軸の単位が不明ですが、Kw(キロワット)では単位が小さい様に思えます(Mw・メガワットでしょうか)。
このグラフでは電力(含伝熱)は昭和9年に対し昭和15年では5倍増となっています。
何故、電力に電熱を含むとしたのかはパンフレットからは読み取れず不明です。想像ですが、電気は様々工業に用いるのが主で、それを電力としたのでしょう。また今日ほど電化製品が普及しているわけでもなく、電燈や工業用以外には電熱が主であったのでは、と想像されます。
実際に、昭和10年代にはナショナル(松下電器)から、電気コタツ、電気毛布、電気ストーブ、そして電気座布団などが販売されています。電気コンロも人気があったようで、ラジオと共にこうした電熱器は庶民の関心もたかかったようです。いずれも2〜4円で、扇風機より安かったそうです。
また、戦前から戦後暫く、ご家庭の配電盤に電燈と電熱が分けてあった例もあります(必ずしも一般的では無いようですが)。ヒューズのサイズを分けたかったからでもあります。
さて満州でも同じく電気の恩恵が広まったものと考えます。
満州電業によって電力はより多く得られる様になり、アルミニウム、マグネシウムの精錬も盛んになります。
グラフ右側の黒い部分は塗りつぶしてあります(誤記を潰したもの?) |
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| 満州日日新聞の1936年9月(昭和11年)に満州電業株式会社の吉田社長が株式総会で行った挨拶が載っておりました。
『 即ち当社は満洲における電気事業を一元的に統制してこれが経営に当ることを使命づけられたる国策代行の一機関たる立場にあり、具体的に申しますと日常の生活必需品であり且つあらゆる動力の根元たる電気を低廉且つ豊富に供給し満洲の産業文化に対する先駆的事業を国家に代って遂行することが当社の使命となっているのでありまして今日唯残る問題として如何にこの国策に順応し使命に立脚して経営を合理化して先進国に劣らざる業績を挙げるかということであります 』
近代化として満州に電気をいきわたらせる、その国策と経営を両立させるという意気込みがみてとれます。
ちなみに、その際、発電所関係の増設も紹介され、
・ 新京発電所で、五千KWターボ発電機一台増設完了、さらに五千KW及一万KWターボ発電機を各一台増設工事中
・ 哈爾浜馬家溝発電所で、一万KWターボ発電機一台増設完了、さらに四千KWターボ発電機一台が完成
・ 安東発電所で、三千KWターボ発電機一台を増設工事中。
・ 斉々哈爾発電所で、二千八百KWターボ発電機一台を増設工事中
・ 牡丹江発電所で、一千KWターボ発電機一台増設完了、さらに二千三百二十KWターボ発電機一台を増設工事中
とあります。 |
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| 先程の満州電業のパンフレットから。
昭和15〜16年頃のパンフレットですが、資本金が三億二千万万円にも拡大していることがわかり、また支所も全国に設けられたことがわかります。 |
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| 同じく満州電業のパンフレットから。首都新京の大同大街にあった康徳会館です。
ここに本社がはいっていたのでしょう。 |
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| こちらは火力発電所で、阜新につくられた火力発電所をベースに描かれています。
まるで原子力発電所のような、巨大な復水器(右側の壷上の3基)が印象的です。 |
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| 満州電業は、それまでにあった各種電力会社を統合して発展してきた側面があり、この会社が大きくなるまでの歴史も興味深いものがあります。
満州電業が出来る前も、電気の普及はありました。
こちら、満鉄が地元、中国人に電気を宣伝する目的で、大連市に電気遊園というものが作られました。最初に作られたのは大正時代ですが、昭和になってからも遊具は増え、メリーゴーラウンドの遊具のほか、ボーリング、スケートリンク、演芸館、図書館、花園、植物園、動物園と、娯楽施設を完備していました。
この電気遊園での、電気をふんだんに用いたメリーゴーラウンドなどの遊具や、夜間はイルミネーションを多量に点灯させ、市民の娯楽の場として親しまれた様ですが、当時、新しい技術であった電気の恩恵を感じる場所でもあったようです。
画像が電気遊園の名物のメリーゴーラウンドです。夜、天井に付けられた電燈を点灯させてくるくると回る姿は、当時は先進的であり幻想的でもあったろうと想像します。
別途紹介しております満州大博覧会にも電気普及館があるなど、当時は、電気の便利さを楽しく啓蒙するパビリオンが作られていた、それだけ珍しく新しいものであり、広く関心があったことがわかります。 |
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| 1947年、満州電業株式会社の出身者が、日本で電業会社を設立しています。
高度な電設技術を持つ太平電業株式会社です。
ちなみに太平電業株式会社のHPには、社名由来として
『満州から引き揚げてきた満州電業株式会社の出身者が、荒廃した光景を目にし、強い平和の念を抱き願ったことに由来します。』
とあります。 |
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