このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




阜新





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
門山山脈 ヨウ ※ 
朝霧晴れて
阜新黎明の
 阜新黎明の鐘は鳴る

サテ
炭都阜新は新興街ヨ
千両万両の黒ダイヤ。
(阜新音頭)


※門山と書いておりまが、門は閭(門の中に呂)です。

満州は地下資源も豊富で、鉄、銅などの金属のほか、多量の石炭が産出されました。

満州の石炭の代表は、なんといっても撫順です。
その撫順の4倍の埋蔵量と推測された炭鉱が、阜新炭鉱でした。
阜新の場所はこちら。古くからある町ですが、小さな町であったこと、新興の炭鉱であったため、古い地図では省略されていることが多い炭鉱です。

添付しました地図で阜新を緑色にて塗っています。炭鉱開発に伴い線路も通りました。
位置をわかり良くするため、大石橋、榮口、奉天を薄い赤色で塗っています。


本格的に開発されたのは満州国が成立してからという記述が戦前図書に見られます一方で、その前から開発はなされていました。
また本格的な生産が始まった当初、阜薪の石炭は人気が悪かったようです。
もえつきがわるく火力が弱いため、かまどが赤くならない、スチーム暖房をつかった全館暖房では遠くの建物にまでスチームが届かない、といた具合でした。石炭は、単位体積あたりで得られるカロリーに大きなばらつきがあります。室の悪い石炭ではやたらと煙が出る割に熱が出ず、灰ばかりが溜まってしまいます。ですので、良質な石炭が得られる炭鉱では、質の悪い部分は選別してボタ山へ棄てます。

しかし阜新炭鉱では、質の悪い石炭も出荷されていました。
『最初、商品として出せるような石炭ではなかったが時局柄やむを得ず出した。』
『地表に近い部分の石炭が熱量低く、土がまじって高い熱がだせなかった。』
と質が悪いことは最初からわかっていながら出荷をおこなった事が書籍の記載に見られます。
この”時局”とありますのは、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)をさします。
そこで、阜新炭は撫順の石炭と半々づつ燃焼させて、暖房のスチームを得るなどしていました。

その後、阜新炭は良質な石炭を算出するようになります。質が好転する要因については明記された資料はまだ見つけておらず詳細は不明ですが、考えられますこととしては、生産量が安定し、量も確保できて質の悪い石炭を選別できた、質の良い炭層まで掘り進んだことが上げられます。
『最高7000カロリー、高カロリーで知られる撫順の7000カロリーの撫順龍鳳炭と同等』
『良質といえば撫順にくらべ粘着力がある。工業用はもちろん、汽車、汽船用として評判がよい。家庭に用いても灰分がすくなく油煙がたまらず煙突掃除は撫順炭をつかったときほどやらなくてよい。冬の間、安心して使いたい。』
と好評を得ます。

孫家湾 (阜新) 露天堀
阜新にある露天掘りです。
孫家湾露天掘りで、阜新炭鉱のメインですが、書籍によっては阜新炭鉱として書かれています。

昭和3年当時、東西20メートル、南北200メートルの、小規模な露天掘りです。
ここは撫順より掘りにくい問題を抱えていました。
撫順と比較するとわかりよいのですが、まず炭層の厚みの差が挙げられます。

撫順炭鉱の炭層は一枚で構成され、平均の厚みが40メートル、最大で125メートルに及ぶ。
一方、こちらの孫家湾では20層にも及ぶ炭層がボタをはさんで重なり、これらの合計が100メートルの厚さとなっています。これでは掘り下げても、石炭を掘ると次のボタ層が出て、それを取り除かないと次の炭層へ進めません。厚みのある炭層の撫順よりはるかに掘りにくい、面倒な炭層といえます。
ただ炭層については、比較した対象が世界でも最優秀とされる撫順炭鉱ですので、それと比較すると良くない、ということでもあります。
参考で、日本の海底炭鉱で有名な三池炭鉱の炭層は2メートルの厚みでした。この厚みがあるお陰で、戦後には大掛かりな機械化が行われ、世界に誇る採炭技術が出来上がりました。
撫順はその20倍の厚みですので、思い切った露天掘りに踏み切ったともいえますし、またそれだけ優れた炭層ということがいえます。

さて、阜新・孫家湾では掘り下げていけば、地中深い炭層は質がよくなることがわかっていました。ですので大いに張り切って掘り下げられていたようです。昭和3年当時、第二層まで届いたとの記述がみられ、その後も順調に掘り下げたものと思われます。

写真は露天掘り風景で、画面左上にパワーショベルが見えます。
これは撫順で働いているものと良く似ており、巨大なものです。
撫順では深くて広い露天掘りのために小さく見えてしまうこのパワーショベルも、こちらでは露天掘があまり大きくないこともあり、大きな存在感を感じます。

孫家湾 (阜新) 露天堀
巨大なパワーショベルです。

画像が荒くてわかりにくいのですが、左上から右下斜めにトロッコが待機し、
左下に居るパワーショベルがこれへアームを向けているところです。画面、左下にパワーショベルの屋根が見えます。これも撫順で活躍したのと同じタイプです。

孫家湾 (阜新) 露天堀
撫順でもその存在感を示したエキスカベーターがこちらでも活躍しています。
写真が荒いのですが、同じ形状の装置です。

孫家湾露天掘りトロッコ
手押しでしょうか、小さなトロッコです。人力で石炭を積み込んでいるところです。

阜新炭鉱
大規模な露天掘りの様子が良くわかります。
画面中央上側、巨大なクレーンが見えます。またその下のほう、露天掘りの底では、黄色っぽいパワーショベルが見えます。トロッコと比べても、このパワーショベルが如何に大きいかがわかります。
ちなみにこれは彩色絵葉書で、パワーショベルのアーム部分が塗りつぶされているらしく見えなくなっています。

阜新炭鉱
クローズアップします。
画面の左上、巨大なアームが見えます。
左下にはパワーショベルとトロッコが見えます。
撫順と同じ露天掘りで全体はすり鉢状ではありますが、撫順と比較しますと、こちら阜新の斜面は急で、崖の様に落差があります。綺麗なすり鉢の斜面ではなく、急ぎ掘り下げた様にも見えます。
これも時局 (いわゆる太平洋戦争) の影響でしょうか。

時局といえば、こちら阜新炭鉱も、記者や旅行者向けに案内パンフレットを準備していました。が、見学後、パンフレット類は回収されました。これは防諜の為で、パンフレット類の情報を元に、事前に爆撃機の攻撃目標を絞られない様にした為です。

南満州は奉天に至るまで中華民国から飛来するB-29爆撃機の攻撃範囲に入っていたこともその影響としてあります。
ただ、興味深いのは、あまりこのパンフレット類の回収という防諜は、さほど徹底して行われていませんでした (なので、特に希望すれば、持ち帰ることが出来た) 。防諜は形としてやっているといった程度といっていい状態です。
というのも、B-29は空襲に先立ち、事前に偵察飛行をして航空写真を撮り、その写真解析で攻撃目標を絞っていました。
超高空をゆうゆうと飛び、偵察を行うB-29の前に、パンフレットがどうのこうの、といった程度の防諜は意味がなかったと、当時も感じていたのではないでしょうか。

阜新城
阜新城は阜新駅から12キロ離れたところにある古い町です。
炭鉱の発展に伴い炭鉱従業員を当て込んだ商人、料理屋、カフェー、旅館芸者が集まっており、大いににぎわった様です。

阜新ですが、新興都市として都市建設局による計画都市の建設が着手されました。

荒涼たる野原の真ん中に人口15万人の新都市建設が、なんと三十年計画ですすめられました。
この都市計画が出来た当時、阜新の人口は8000人程度でした。
15万人という人口を受け入れる都市は30年がかりであるわけですが、それだけ長い間石炭産業が続けたいという期待が、この永木に渡るいう計画にいたったものと思われます。ただ、満州国崩壊に伴い、恐らくあまり工事は進んでいなかったのではないかと考えます。

ちなみに戦後の資料で、この満州国時代の阜新炭鉱で7万人を超える人数の従業員が居たとする資料があり、急激な人口増加があった、と考えられます。

満炭海州社宅
社宅です。
煙突が並ぶ平屋です。

ちなみに、今日の中国にも阜新市には孫家湾露天堀があり、石炭は継続して掘られています。撫順並みに大きな露天掘りの穴が、阜新駅からわずか数百メートルのところにあいています。戦後も、これらの社宅は使われたのでしょう。

阜新鉱業所 社歌
1)
阜新鉱業所の歌
王道照らす遼西に
楽土の栄光輝きて
興亜の意気も溌剌と
鉱業年を築きゆく
氏名は堅き満州の
われらぞ阜新工業所

2)
胡沙(こさ)吹く丘陵も広原も
無限の宝庫花ひらく
雄大見よや露天掘り
伸び行く事業その成果
産業文化の建設は
我らのホープ黒ダイヤ

3)
新邱、阜新、海州と
緑は萌ゆる新市街
福祉の施設整いて
炭都の威容うるわしき
五族の理想郷
われらの誇りここに見よ

4)
出炭報國躍進の
鉄腕強く協力し
精励克己身を鍛え
日満親和永遠に
亜細亜の資源打ち建てん
われらぞ阜新鉱業所

阜新 吐呼魯(とほろ) 油田
阜新の吐呼魯(とほろ)と呼ばれる場所で油田が見つかって試削が行われました。
石油の層まで掘り進めることには成功しました。
が、満州国崩壊の頃までは特に量産にはいたっていません(今日、若干の生産量はある様です)。

阜新吐呼魯試掘風景
吐呼魯の試掘風景です。
泥水と一緒にくみ出した原油をドラム缶に入れているところです。が、この写真では注がれている液体は黒っぽく写っておらずほとんどが水かもしれません。

ドラム缶をトラックに集めて製油所へ運んだとの記述があるのですが、逆に言えば、ドラム缶に入れて運べる程度の泥水交じりの原油しか得られなかったとも理解されます。


→満州写真館へ戻る
 
→歴史資料館 目次へ戻る

→みに・ミーの部屋に戻る







このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください