このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




学童学校校舎その2 





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
こちらでは、満州の学校と学童や学生の画像を紹介してまいります。
ただ、特定のエリアや特定の学校という収集ができず、結果としてランダムな掲載となっております点は、宜しくご容赦下さい。


さて、まずは当時の学校の状況から。
昭和初頭、日本では就学意欲が高まりました。特に女子の進学が流行、今日、首都圏にある多くの私立学校には、この時に設立した女学校の流れをくむものが多くあります。昭和3年には、『無学は女のハジです』という宣伝文句の大日本通信高等女学校という女学校も出来ました。今日の通信制の学校に通じるものがあります。

満州でも国の情勢の安定に伴い、就学意欲も高まったのか、学校が沢山建てられます。満州事変の後、約10年で初等学校は9千校から2万4千校へ大学は1から18へ増えました。
学校教育に対する機運は大いに高まっていたことがわかります。

満州の学校に関して、昭和16年の資料から引用します。
官立高等教育機関として各種大学の学生四千六百余名、これに準じる私立大学及び特別委教育施設があり、日本内地人、露人、蒙古人、朝鮮人等に適応する民族的教育機関が設けられている。
かつて満鉄は、関東州内及びその沿線に日本、朝鮮、満州人の教育機関をはじめ図書館二十箇所、医院二十五箇所を経営していましたが、満州国へ移管しています。

撫順高等女学校
では学校と学童、学生の紹介として、まず撫順高等女学校から。
モダンな校舎です。
別サイト掲示板にて
『 撫順女学校の建物は現代かと見間違うほど立派ですね 』
と感想を頂戴いたしました。

手前、整備したばかりと思われます道路と歩道が見えます。

撫順高等女学校
校舎のクローズアップ、左側の壁右側は階段や廊下の明り取り窓と考えます。様々、意匠がこらしてあります。

撫順高等女学校
下校でしょうか、
ブロックが敷き詰められた歩道、そして校庭には松などが植えられています。

撫順高等女学校
女学生をクローズアップしてみます。
皆さん、ジャンパースカートです。左胸に見える白いものは名札か校章でしょう。足元は黒っぽい靴です。ローヒールのパンプスに見えます。これも指定のものでしょう。

大連神明高等女学校
『この広大なる三層の建物は大連にある神明高等女学校である。日々、ここにあつまる少女等はこれ満鉄をはじめとして商店などこの地に活躍しつつあるある我が同胞の子女である。むべなるかその装い軽快にして足取りの活発なるを。』

これも重厚な校舎です。窓は広く、明るい教室であろうと想像します。
こちらも下校でしょうか、女学生が写っています。撮影されたのは、木は茂っていることからみて冬場ではなさそうです。

大連神明高等女学校
女学生をクローズアップ。
足元が白く見えます。顔よりも明るく見えますことから白いタイツであろうと思われます。

当時の様子を伺う機会を得ましたので、紹介いたします。

『 大連神明高等女学校の女学生さんたちの服装は夏服で白い日よけの帽子が実にモダンですね。
金持ちの白系ロシア婦人の衣装にも似てるように思いました。 』

『 大連神明高女は、まだ満洲が生まれる前から住んでいた子女が多く通っていたようで、満鉄や高級官吏、豪商などのお嬢さんたちの花園と言われてました。
私の同級生のお母さんもそこの卒業生でした。
巴里を模した街作りにぴったりのモダンさです。 』
お嬢様学校だったんですね。

一方で、
『 私の小学校の(国民学校)写真となると、いかにも庶民的な雰囲気になり、満洲誕生以後は多くの、あらゆる階層の日本人が移り住んできたことが判ります。 』
ともあります。確かに当HPの「学童学校のその1」では、一般の庶民といった雰囲気になります。

大連神明高等女学校
右側の学生さん達の列を。
画像が荒くて判別しにくいのですが、左から二番目、そして右端の女学生は髪を三つ編みにしています。
女学生の服装は帽子にカーディガン(?)です。帽子も同じデザインです。学校指定でしょう。

旅順師範学校
旅順師範学校はwikipedeiaにも記事があり、指導的教員を育成する目的で、旅順女子師範学校と同時に設立された、とあります。
またこの校舎は現存しています。

運動場で体育の様子、写っているのは全員女子の様です。長いスカートのままで、足元は黒、白、肌色とばらばらで、学校の指定は特に無かったか、この2種類に指定されていた様に見えます。

背景、立派な校舎が見えます。欧州を思わせる優雅なデザインです。
ところで校舎の配置に注目してみます。
左奥の建物は運動場と同じ敷地です。
一方、遠くに見えますのは、木の並びの向こう側です。また木々の足元には道路が見えます。つまり遠くの建物は道路の向こうの建物です。こちらも同じ旅順師範学校か(別の敷地の別の施設か)は不明です。

旅順師範学校
生徒をクローズアップ
ややゆったりした上着ですし、学生服ではなく運動着かもしれません。

旅順第二小学校校舎 
旅順第二小学校校舎の建物です。明治41年から昭和12年までの長い歴史を持ちました。
鉄筋造りの様に見えます。

この第二小学校は後に、旅順高等学校仮校舎を経て旅順師範学校になる、との資料があります。だとしますと、この校舎も旅順師範学校の学び舎として利用されたとも考えられます。
ただ、先程の運動場から見えた建物とは雰囲気が異なります。

学生服 ジャンパースカート
漫画「フイチンさん」から、フイチンさんが通う学校の寮での一コマを、当時の女学生の服装と雰囲気を紹介するため、引用いたします。
向かって左の人物は一匹狼の不良少女、右は取り巻きを従えるいじめっ子という図です。

左側は学校の制服でジャンパースカートです。実に近代的です。帽子は麦わら風で、これはレトロ風ではあります。
右側、室内着として描かれているのは皆、チャイナドレスです。上着にはカーディガンを着ています。
左奥、先生は柄つきのチャイナドレスです。
この物語はハルピンでのものです。ハルピンでもモダンな学生服が流行ったものと思われます。

ちなみにこのコマにはフイチンさんはうつっておりません。

植樹節女学生の植樹
画面中央から左が女学生で、皆、チャイナドレスです。恰幅のいい女学生たちです。
右奥には男性もみえ、大勢が動員されています。女学生は皆、チャイナドレスです。また皆さん、おカッパ頭で、満洲人と思われます。

満州日報 1935年4月には、植樹節で大規模な緑化運動の計画が発表されています。
その主旨は主に
・ 国土保安と荒廃した森林の復旧
・ 水害防止
・ 水源確保
でした。

また緑化運動は全国民の動員を行うため、式典やパンフレット配布、学校への苗の送付などが行われました。

日満女学生の交歓
撮影場所や経緯などは全く不明ですが、交流イベントでの記念撮影でしょう。

女学生が14名、日満7名づつが写っています。笑顔の溢れる、素敵な印象の写真です。

満州は皆チャイナドレス、日本側はいろいろな制服が見えます。
満州の女学生は皆、恰幅が良く見えます。また皆、おかっぱです。当時、流行ったボッブヘアは居ない様です。
一方で、日本側は皆、髪を三つ編みにしています。日本側はそれぞれ学校の制服で参加しているものと想像しますが、戦前の女学生の制服については資料が見つからず、学校などの特定は出来ておりません。

永安尋常小学校
大きなレンガ造りの重厚な校舎です。
この学校に通っておられた
濱地勝太郎 様から掲示板へ情報を頂戴いたしましたので、紹介致します。

『 管理人様
臨時更新として永安小学校の全体と拡大部分を見せて戴き有難うございます。
永安小学校は大正9年に造られたレンガ造りの2階建て校舎でした。
李香蘭(山口淑子)は先輩になります。
終戦後北満から命からがら逃げてきた開拓団の方達を収容したことでも有名です。
手前に見える線路は市内電車のもので、「撫順その4」の「通勤時の駅風景」の電車が走っていました。 』

ちなみに、絵葉書キャプションには 『永安台尋常小学校』 とあります。が、永安尋常小学校が正しいとの情報もいただきましたので、当HPでは永安尋常小学校で記載しております。

永安尋常小学校
校舎の手前、体育中の学童をクローズアップします。
全員、カメラへ向いています。服装はばらばらの様です。

手前、線路との境界には有刺鉄線が張られています。
最近、有刺鉄線は見かけなくなりました。不用意に怪我をさせてしまうから敬遠されているのでしょう。ただ昭和50年くらいまで児童が居る場所(学校や公園)でも使用されていました。

永安尋常小学校
校舎をクローズアップ、
どっしりと重厚なつくりです。

ところで、学童学校その1で紹介しております『 撫順第二小学校 』ですが、手前の一階部分の形状が良く似ています。その後ろの二階も屋根が斜めのスロープとなっているのもよく似ています。
これは推測ですが、実は同じ校舎ではないでしょうか。ちなみに撫順第二小学校では上の写真の向かって右側に直角に二階の校舎があります。後から校舎はさらに建て増しされ、また名称も変わった可能性があります。

さて、ここで屋根の棟が壊れており、棟瓦が屋根に引っかかったままになっています。
手前の一階部分、二階部分の端です。
二階の屋根の手前の端の破壊は、左の淵のみ瓦が外れています。
一階部分の屋根は、瓦が向かって右側へ落ちています。また瓦は砕けておらず、原型をとどめています。
共通しているのは向かって左方向から右方向へ破壊の方向がある点です。
また瓦が原型をとどめていることから、何かの衝突では無さそうです。

永安尋常小学校
この校舎につきまして、親切な方がいろいろと調べてくださいましたので、その内容をかいつまんで紹介いたします。

まずは当HP満州写真館の撫順2に掲載しております地図で、市街地の特徴あるロータリーをクローズアップします。
その下に線路、丘が描かれています。
この地を訪問された方の紹介から、場所を判断、校舎はロータリーの南の鉄道と丘との間にあったと思われます。
グーグルアースの画像も合わせてみます。遼寧石油化工大学・南台校区とある場所です。
線路の配置から推察しまして、先程の写真は線路の側、つまり南側から撮影している事が判ります。
またこの地は強い季節風が吹く場所でもあり、この季節風で瓦が外れたのかもしれません。

永安小学校は終戦後、引き揚げ邦人を収容、また「死の収容所」になった経緯があり、二千人を超える人々が亡くなりました。校庭の防空壕に埋められたり、河原で集団火葬されています。
大勢の邦人が亡くなった場所でもある永安小学校ですが、校舎を含めてその名残は現存していません。

撫順尋常高等小学校
こちらもレンガ造りのどっしりとした校舎です。

白い門柱のある門が見えます。校門と思われますが、学校にしてはやたらと広い門になっています。

また保護者でしょうか、大人が4名ばかり見えます。

撫順尋常高等小学校
ここの学校の児童でしょうか、2名ほどクローズアップ。かなり高学年でしょう。
左の少年は黒い帽子、右は白い帽子です。

撫順尋常高等小学校
校舎をクローズアップ、レンガ造りのがっしりした建物です。
校章でしょうか、壁に意匠が施されています。
二階、白いカーテンが見えます。広い教室がある様です。

大連小崗子公学堂商業学堂
小崗子は大連の西に古くからある町で、満州国設立伍、大連の発展に伴い大きな商店街に発展しました。
写真はそこに建てられた壮麗な公学堂及び商業学堂です。
重厚な門柱の校門が見え、なにか文字も書かれています。学校名でしょうか、残念ながら読み取れません。
校舎の中央には尖った塔も見えます。縦長の広い窓が配置され、明るい教室であろうと想像します。

四平街日本小学校
立派な校舎です。
レンガとセメントで作られています。屋上もある様に見えます。

窓が開け放ってあります。
また窓には児童が見えず、一方で手前の歩道に児童が見えますことから、放課後の撮影で、丁度、帰っているタイミングでしょう。
ちなみに窓は外に開いています。また窓に手すりや出っ張りがないあたり、窓を操作する児童が転落する可能性があり、今日の校舎ではこうした設計は無くなっているものと思われます。

四平街日本小学校
児童をクローズアップしてみます。
皆、ランドセルです。

男子3名の帽子は学生帽です。昔の小学校での帽子はこのタイプが多い印象があります。ちなみに戦後も、例えばサザエさんの古いものですと、カツオもこういった学生帽を被っています。
後ろ側、2名の女子は丸い帽子をお揃いで被っています。

四平街日本小学校
同じく校門あたりの女子児童をクローズアップ。
さほど大きくない校門で、門には扉がありません。校門の奥には自転車が置いてあります。
左方向へ歩く女子児童は、やはりランドセルの様です。右、ブレていますが、急いで戻る女子児童がおり、忘れ物でもしたのでしょう。この女子はランドセルではなく手提げ鞄だけです(もしや忘れたのはランドセル?)。

四平街公学堂
『 四平街は、内蒙古の動脈である四兆鉄道の連絡地駅で、新興気分溢れる街である。
図は満鉄経営の公学堂で、校庭に嬉々として戯れるは、すべて支那人の児童である。 』
交通の要所、四平街に創られた学校で、こちらは地元民のみの学校だったようです。バスケットボールにバレーボールが行われている様です。また左の柱は鉄棒でしょう (最近の学校ではこうした背の高い鉄棒は見かけなくなりました)。

学校体系
1935年(昭和10)の満州の新聞記事によりますと、満鉄が推進した街づくりは文化都市であることを目指していました。文化都市の具体化としては公園などの施設を設けるといった事だけでなく、各地に学校を沢山建てることも行われていました。
これら学校ですが、初等学校には在満邦人は勿論、地元に住む満州国民(いわゆる満人)も入学できました。さらに日本の上級学校へ入学を望む場合も、進学が出来ました。ちなみに新京の満鉄日本人小学校は、全生徒数の約一割程度が満州人でした。

但し、一応の制約がありました。
入学児童は日本語を習得していること、児童のテストを行いそれに応じて相当学年に入学させることとあります。
元々、児童を学校に通わせる習慣が満州人に無かったことから年齢に相当する学年の実力があるとは限らず、このテストの結果によって学年が決まったようです。なので、年齢の違う児童が同じクラスに居ることになります。また年齢差は一定の制限があり、あまり大きな年齢差は認められていなかったようです。一方、他の児童に悪影響のある行動を起こす児童に対して退学を命じて良いことになっています。これは今日の義務教育とは様子が違っています。
この他、学校は日満人の差別をしないことと明確に取り決められていました。

満州国の学校は都市部だけでなく、移民団でも展開していました。
日本の移民団が土地を開墾、生活が安定してきたころ、近くに移民していた朝鮮半島出身の移民団が『学校を作りたいが先生をやってくれる人はいないか。』と相談に来たという話があります。早速、有志がかわるがわるこの移民団の部落へ通い、算数などを教えたそうです。


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