| では、こちらではまず学童の姿から紹介してまいります。 |
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| 撫順の学童で、道路わきの緑地帯に並んでの撮影です。
半ズボン、涼しそうなワンピース。
左端の少年は直立、照れて笑う少女と様々です。
私の経験でも、少人数の子供をスナップで撮るとき、子供一人ひとりの反応がばらばらであることが多く、面白いものでした。戦前の少年少女も同じなのは、ほほえましく感じます。 |
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| お祭りの風景で、和服で着飾った少女、セーラーの少女もみえます。
右端の男の子も、如何にも戦前の雰囲気です。足元、いわゆるヅック靴に見えます(ヅックと言う言葉は戦後、昭和20年以降だそうで、戦前はどう呼んでいたかは興味があります)。 |
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| いざスケートの競争のスタートを切る瞬間の撮影、素晴らしいシャッターチャンスです。
スタートを切る少年達の緊張の表情、後ろで興奮気味に声援を送る少年達と、賑やかな雰囲気の伝わる一枚です。
後ろに見えるのは校舎でしょう、校庭に造られたリンクであることがわかります。また左の背広の大人は先生でしょう。
この写真の撮影は昭和16年です。 |
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| 当時、スケートは大流行だったようです。
当時の学校でのスケートの様子を頂戴いたしましたので、ご紹介いたします。
『 スケートの写真はなつかしいです。
どこの学校も冬は校庭がスケートリンクになりました。輪郭のなりに溝を掘って、その土を盛り上げて土手を作り、そのなかに水道の水を流し放しにしておくと一晩で立派なリンクができます。 』
『 私の学校、新京春光小学校の場合はホッケーリンクをスピードスケートのコースが取り巻く、本格的なものでした。冬の体育の時間はスケートをやらされました。私は内地に一時帰国している時期があって皆より下手だったので苦労しました。リレーをやらされると一周の途中から足がハの字になって滑るというよりよちよち歩きになり、待っている連中に野次られて恥ずかしい思いをしました。 』
『 写真の生徒たちのスタイルは当時の冬の服装として標準的です。半ズボンの下に毛糸編みの股引きを出しています。これはレギンスと呼ばれていて、殆どはお母さんがたの手作りでした。登校下校時はこの上にオーバーを着ますが、下はそのままでした。 』 |
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| 氷りついた池で、スケートを楽しむ沢山の人が見えます。手前を横切る子供は相当なスピードの様です。
大正池ですが、場所が良くわかりませんでしたので判明し次第、紹介いたします。恐らく旅順ではないか、と推定しています。 |
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付属地小学校第二回総合撫順修学旅行
合同競技徒歩競争 |
| 運動会の風景です。
キャプションから推測しますと、修学旅行の一環で訪問した地元の学校と一緒に運動会ではないでしょうか。
遠くには観客席があり大勢の人が集まっています。左には仮設でしょうけれども建物が、右には旗が並べてありコースが作られています。相当な手間隙をかけた大会運営です。
さて児童ですが、体操服を着ているものとおもわれます。白っぽい長袖、半ズボン、そして帽子の子が多い様です。 |
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| 大勢が動員されています。
右手前に男子学生、右奥の男性は社会人に見えます。
画面中央から左が女学生で、皆、チャイナドレスです。恰幅のいい女学生たちです。 |
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| 写真に詳細な説明が無かったのですが、服装でおわかりのとおり、ボーイスカウトです。
満洲国でもボーイスカウト運動は展開され、1932年には組織が作られたそうです。写真のキャプションに結盟式とあり、もしかするとこの写真は組織が作られた際のものでは、と考えます。
ちなみに満洲国童子団と呼ばれていた様で、近年、これをまとめた論文も書かれたとか。機会を持って読んでみたいものです。 |
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| 彩色絵葉書ですが、海の綺麗さが良くわかる画像です。
手前は岩が、砂浜は石がごろごろしている様に見えます。
砂浜には海の家(脱衣場?)がいくつも建てられています。また電柱らしきものも見え、電化されているのでしょう。
この他、飛び込み台、そしてプールがあったという話もありますが詳細は不明です。もしかすると隣接していた保養施設の設備かもしれません。 |
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| 学童をクローズアップ、
今では見られない、ふんどし姿です。 |
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| 星ケ浦は別途、大連の頁でも紹介しておりますが、こちらでも学童が沢山写っておりますので、再度取り上げます。
親子連れが多く見えます。
三角形のテント、ボート、泳ぐ人、砂浜でくつろぐ人と、大勢が見えます。
手前、手すりが見え、何かの施設から見下ろしている様です。 |
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| 『 星ケ浦は大連市の西南四キロ余にあり、北支那における唯一の避暑地でありまた遊楽地である。
満鉄の経営する十余万坪の遊園地に、ヤマトホテル、貸別荘、料理店などがあり、ゴルフリンク、海水浴場の設備をなす。
写真は海水浴場の一部で、小学校生徒専用の場所。 』
大連で紹介しましたのは砂利が敷き詰めてありましたが、こちらは砂浜の様です。
前述しておりますとおり、星ケ浦は満鉄が海水浴場を整備しており、また海岸を整地しています。
この写真は "小学校生徒専用"の場所とありますことから、海岸整備にあたり、足によりやさしい砂を敷き、また適度の浅さで形成されている様に見えます。 |
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| 学童をクローズアップ、
当時の水着の形状がわかります。 |
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| はるか遠くに小さな島が見える、景色の良い海水浴用です。
幼児が何名か見えます。
海に入っている幼児も、遠くの児童も、皆、帽子を被っています。 |
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| こちらは石がごろごろしています。
何名か児童が見えます。
大人は当時流行のカンカン帽で、こちらは釣竿を手にしており、海に入る気は無さそうです。 |
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| 金州のリンゴ園での撮影、
カメラの前ではしゃいで見せる子供達です。 |
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| 場所は変わって、北満、チチハル ( 斉斉哈爾 )での撮影、
体操服の学童です。 |
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| 立派な建物です。
満州では1938年に整備された大学は九校ありましたが、そのうち四校が医学関係で、満州国が医学教育を重視していたかが判ります。
新京医科大学、ハルビン医科大学、ハルビン歯科大学、奉天医科大学です。
ちなみに新京医科大学に関して学生の人数の資料を見つけました。それによりますと現地の満州国人が213名、一方で日本人学生は75名と少数でした。
人数について、さらに奉天医科大学、24名の新入学生のうち5名(約2割)が女性で、女子の向学の様子がわかります。
これら医科大学は防疫、特にペスト対策に期待がもたれました。 |
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| 『 麗しく立つ
燦燦と降る、陽光、まばゆい大理石の柱、哈爾濱学院は麗しく立つ 』
1920年創立、後の満州国立大学哈爾濱学院です。
この建物は現存しているとの情報がありますが、詳細は不明です。 |
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| 別途、旅順の頁でも紹介いたしました旅順工科大学です。
こちらは別角度からの撮影です。 |
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| 大学名がキャプションになく、推測するしかありませんが、農大とあり、奉天での撮影では無いでしょうか。
高価な顕微鏡がずらりと並んでいます。
試料は何か、までは写っていません。画面左下、スポイトつきの小さなガラス瓶があり、試料を視認し易くする染料が入っているのでは、と想像します。
農業の大学に関連しまして、日満交流についてふれてみます。
戦前からの歴史がある東京農業大学では満州に試験農場を設けていました。満州と言う新しい国に、新しい技術を持って発展に参加するという機運を、日本の大学も担っていたと感じます。
また、この東京農業大学の学生さんが満州国への修学旅行へ行っていました。
移民団を表敬訪問し、耕作機械に試乗し、現地大学の農学部を表敬訪問、さらに農村を歩き地元民とも交流しています。
写真も豊富に撮影されており、これら学生目線で見た歴史ある土地に出来た新しい国の姿は興味深いものです。
これらの写真は、かなり以前に閲覧する機会がありましたが、残念ながら未だ画像の入手できておりません。なんとか紹介できればと考えております。 |
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| 先に農業系大学の日満交流を紹介しました。
こうした学問に伴う交流だけでなく、スポーツ関連でも交流がありました。
例えば、日本漕艇協会は満州に支部をもっておりました。
またアイスホッケーの交歓試合もありました(開催年月日詳細は不明です)。大阪毎日新聞社、京都スケート協会、今日と体育協会らが主催し、満州国チームを招待、京都アイススケート場にて開催されました。日本側は、立教大学チーム、京都大学・同志社大学の混成チームがそれぞれ対戦しています。
若人らにより、日満の交流は広く行われたことがわかります。 |
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