このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




学童学校校舎その4





ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません

                        
興安北省 陳巴爾虎旗 公立 巴彦庫仁 国民学校
戦前書籍に、蒙古の学校作りに尽力された方の記事がありましたので紹介いたします。

興安北省公署の小川盛徳氏です。
小川成徳氏は康徳4年(昭和12年)5月から翌年12月まで掲題の学校の初代日系教員として在勤されており、その際の体験記です。

ちなみに、振り仮名が記事にありました。
陳巴爾虎旗 ( チンパルコキ )
巴彦庫仁 ( パエンクール )
です。
それぞれ地名です。陳巴爾虎旗の中心地が巴彦庫仁で、ここには公署もあったそうです。
場所はホロンバイルの首都ハイラルから草原違いを西へ四十キロほど離れた、草原の小さな盆地です。

興安北省 陳巴爾虎旗 公立 巴彦庫仁 国民学校
小川盛徳氏は画像の中央の方です。
ちなみに画像ですが、後ろに並んでいるのは少女に見えますので恐らく生徒でしょう。また手前は保護者ではないでしょうか。
巴彦庫仁国民学校は、タイトルの通り公立で、税金で運用されている学校です。
校舎は全部で三棟、ひとつは煉瓦建てでした ( 写真に校舎が写っていないのは残念です )。
 
さて、この広野の真ん中に建てられた学校は蒙古人子弟に対する初等教育をおこなうものです。
全寮制で、先生は蒙古人2名、日本人が2名 (1名は小川氏、あともう一名は女性教員) 
全寮とはいうものの、教室が寄宿舎を兼ねており、児童は家から持ってきた羊の毛の敷物を敷いて寝起きしていました。
また運営費は児童の親からの徴収と寄付でまかない、黒板は立てかけただけの粗末なものであったそうですが、机をそろえるなど順次、環境を整えました。
給食もありました。羊肉の汁で煮出した茶、粟によく似たミズミを入れた粥、野菜の醤油煮と饅頭などのメニューです。
牛乳も出来るだけ多くの確保を目指したそうですが、なかなかこれは難しかったそうです。
 
満州国設立後の政情安定に伴い、ここ蒙古(ホロンバイル)でも
『 教育に対する関心の昂揚に伴い、入学希望者はますます増加、女子の入学希望者もおりまことに喜ばしい傾向である 』
とあります。
が、初等教育といいながら、年齢はまちまちで十歳から二十歳が入学してきたとか。
 
さて、学校を運営する上で見られた蒙古の面白い(?)習慣として、休暇の考え方が日本とことなっている点が挙げられます。
日本では何月何日から何日まで夏休み、と明確に決めます。が、ここ蒙古ではこれが実にルーズで、適当に親が連れ帰って二〜三ヵ月後にひょっこり登校するといった具合だったそうです。
またこの地方は十二歳をを越えるころから結婚をさせられる為、これが学校の出席率低下の原因のひとつとしてあげられています。これも日本と違う風習を感じます。 


→満州写真館へ戻る
 
→歴史資料館 目次へ戻る

→みに・ミーの部屋に戻る







このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください